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ひたすら写経から浮かび上がって来た事

非日常の毎日を40日を送ってきた間、ひたすら写経をやってみるチャンスにも恵まれました。

ところが、実感を伴うものがあまり思い出せない。
今が現世なら、40日間はあの世、といえそうな時空でした。
こちらとあちらにまたがる実感の記憶力が、あまり働かないのです。
ただ、何かしら深い経験をした、という実感は残っています。
生死の隔たりは、このような感じなのかもしれないです。

そんな中で、持ち帰った写経の記憶をたどってみると、
いくつかの発見や経験がありました。

以下、感じたことを羅列してみます。

ひたすら写経しているとまず字は上手になれます。
その意味は
文字のイメージングや書くという行為にに対する客観性を持つことができることに関して
ゆっくりと、丁寧になれるということです。
ゆっくり丁寧にするかどうかは、また別のお話しです。

縦横の中心線が浮かび上がり、
文字の中心線は、微妙にずらす。
へんとつくりの大きさ、密度、重量を考えられるようになります。

そのうち文字自体が透明に浮かび上がってくるようになり、
なぞるように記す時間帯も観察できるようになます。

言葉にして読みながら記す、という行為も、大きな影響がありました。
数分間、まったく文字が書けなくなるときも。

画数の多い文字は密集させて書くとバランスが取れる。
小さく速く書きたくなるときに、超ゆっくりと丁寧に書く。

気持ちを抑えて書く。

右手が痛くてかけなくなってきたときに、
左手で文字を書けるように練習するという画期的なアイデアを思いつく。
LHP レフトハンドプラクティスをやってみました。

それによってわかってきたことは
縦横、斜め、丸、四角 が書けないと、何も進まないという気付き。
それにより、右手でもできていない、という気付き。
とにかく、ゆっくり丁寧に、小さく大きくを練習する。

姿勢や、まぶたを開けているか、しかめつらしていないか。
呼吸を止めているか、自然体でいられているか。
漢字の構造を理解していないことへの気付き。

筆圧が効かず、時間が筆圧になる場合があること。
雑念が入っていると、なぐり書きになりがちなこと。
意識の中止がどこにあるのか?

この文字に接してきた人たちの思いが伝わってくるように感じるときも。

などなど、おもいつくまま、思い出してみました。

ペン字写経のご参考になればと、思います。



サポートをありがとうございます。 感謝いたします。 まだ準備がわからなく、これから勉強いたします。