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雑記帳 10月5日

  • 毎日考えてること

  • 最近の諸問題について

  • 雑記1

  • 雑記2

  • 雑記3

*画像はとん挫した企業計画に使おうとしていたポスターですAdobeでつくりました。

毎日考えてること

自意識とはなんだろう。よく自己主張の激しい人が自意識過剰であるとバッシングされたりすることを耳に私は挟むが。しかしながら、私は今まで深くそれを考えたことがあまりなかった。
まず自意識に関してインターネットを使用して、辞書で調べてみた。
『〘名〙 自分自身についての意識外界他人と区別された、自我としての意識。自我意識自己意識自覚。』
引用元 精選版 日本国語大辞典 
↓最終閲覧日 2023年10月05日

心理学辞典(1999)によると以下のように記載される。
「自分自身を他者の観点から他者と同じように眺めること」
引用元 最終閲覧日 同日

私は思う。知らんがなと。なぜなら、他者の観点から眺めていなかったとしても、自分の認識を先鋭化して物事を考えて、自己をデバイスをもちいて表現しているのではないかと。他人が自分のことをどう思っているかが気にならない人は自意識を持つている事にはならないのだろうかと。
植物状態である人間は、自意識を持たないのか、彼らにも意識があり、自己表現は出来ないものの、介助者に媒体を用いる事で意思を伝えることが出来る。
現代以前では、自意識というものは抑制されていたと私は考える。
子供から大人まで、階層が固定化され、職の自由もなかったからだ。
しかし、制限があった方が思考を放棄して、自分の将来就く職の為に集中的な専門知識を磨けて、それがアイデンティティの形成にもつながっていたのだろうかとも私は考える。

最近の諸問題について

環境問題。
(ヤコブ・トーメ著、鈴木素子訳『ザ・キルスコア 資本主義とサステナビリティーのジレンマ』2023年6月19日第一版一刷、日経印刷)のプロローグにてこのような事が記されていた。「ツリーハガー(木を抱く人)―これは環境保護活動家を(ときに揶揄するニュアンスをこめて)指す呼称で、サステナビリティー(持続可能性)について考えるときほとんどの人が思い浮かべる言葉だ。人々の心の奥には、環境保護活動家のステレオタイプがこびりついているのだ。「ツリーハガー」という言葉は、いまやケンブリッジ辞書にも収録されて基本語彙となっている。環境保護の活動家の中には、積極的にツリーハガーを自称する者もいれば、そう呼ばれるのを嫌う者もいる。2006年に環境雑誌『グリスト』に掲載されたある記事は、ツリーハガーと呼ばれたときの切り返し方まで指南している。相手がSUV好きなら「SUVハガー」、石油問題に無関心な人なら「オイルハガー」とでも言い返せばいい、というのだ。インパクトの強さでは、どちらもツリーハガーにかないそうもないが。ツリーハガー呼ばわりされるのを嫌がる人がいるとはいえ、一般の人たちは多くの場合、環境保護の活動家はツリーハガーだという前提を受け入れている。誰もが心の中では、サステナビリティーなど甘い考えで、そんなものを大事にするのは、経済や社会生活の厳しい現実を否定する人、人間よりもパンダを大切にする夢想家、木々の生命は気にかけるがその果実を楽しむ人間には目もくれない環境保護活動家だと思っている。つまり、合理的な人や実務的な人はサステナビリティーには向かないというわけだ。」pp.10
私は、非合理的だったのかとヤコブ氏のたとえ話で気づかされた。おそらくこの著籍ではこの固定観念を破壊、もしくは変化させていくものであると思われるが、その後の内容は各々が読めばよいのだ。わたしはこのエピローグに多大なる衝撃を受けた。
現代において、環境保護活動家は、名だたる名画にトマトスープ、ボンド、ペンキをまきちらし、道路を封鎖して、清掃員の掃除する真横で地球を守ろうと言いながら地球に害悪な塗料をビルディングにぶっかける。
How dear you!(著名な環境保護活動家グレタトゥーンベリ女史の言葉を借りる)な奴らだと思っていたからである。まさにこの偏見の通りであったからだ。とはいっても、私は、自然と昆虫を愛してやまないナードである。積極的に虫たちをチェンソーマンのごとくぶっ殺していたのは幼少期の話である。ゆえに自然保護には関心があるが、それを暴力的に訴えかけて対話を怠る金持ちが尻を持っているような烏合の愚衆を見下しているだけだったのだ。しかし、偏見とバイアスは恐ろしい。勝手に僕の脳はヴィーガンやベジタリアン。環境保護活動家たちの全てを「金持ちの道楽であり、彼らの戯言にふりまわされるだけじかんのむだであるような取るに足らない奴ら」だと思い込んでしまったのだ。これはいけない。歴史を学ぶ学徒として、思い込みと偏見を社会的集団や思想に持つことはあってはならないのだ。
太地町イルカ問題 静岡・伊東市長をだまし、交通事故起こした大物活動家 追い込み漁めぐる不毛な闘い 今後も続く  Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン) (ismedia.jp)
この記事にあるようなやつらは環境テロリストであり、環境よりも自己愛とエゴイズムを尊ぶ偽善者どもで、善良な環境保護活動家とは似て非なるものである。シーシェパードなどは環境保護活動家ではなくテロリストである。これはイスラム教全体をボコハラムや、ISILとみなし、モスクを見るたびにそこで祈っている人に向かって、「テロで殺された人たちの遺族の気持ち考えろ。この人殺し」
と叫んでいるのと同義である。あぁなんと愚かで恐ろしい。やはり21歳になっても大きな間違いを犯すわけであり。それは、偉い学者でも間違いを犯すわけだと思った次第である。

雑記1

『北半球のツンドラ帯は世界のその他の地域よりも温暖化のスピードが速い。』(引用元 ブライアン・ブーマ、肱岡靖明、柴田譲治『世界環境変動アトラス 過去・現在・未来』2022年、pp184、シナノ印刷株式会社、小泉製本株式会社)
「ツンドラ・バイオームの核心は極端な気温とその極端な振れ幅にある、とまとめられるだろう。ここでも変動性が鍵となり、おsの変動制にタイミングを合わせることこそが、生物が習得してきた技能だ。しかしそのタイミングが狂い始めると、いろいろなこと、つまりシステム的には劇的な変化が起き、がたがたと騒がしくなる。動物によっては死に絶えるものものあれば、増加するものもある。植物も生息域が拡大するものもあれば、後退するものも出てくる。そして彼方の地下では古代の生態系がゴロゴロと音を立てて再覚醒し、廃棄物としてCO₂を大気圏に吐き出し、温暖化の全過程を加速させている。」同書、pp185
これは、人間においても同じことが言えるのではないかと考えている。例えば、昨今季節の変わり目の急速な温度変化や異常気象により体調を崩す人が増えてきていると、私の周りのSNSのフォロワーさんや、友人知人を見ていて強く感じている。
これも人間つまり、Homo sapiensという種族自体が、自身の影響による温暖化に対応できず。体内システムから混乱が生じている結果ではないだろうかとも思った。

雑記2

大学の図書館にて我が尊敬する研究者の一人である。南塚信吾氏の著書(南塚信吾『『世界史』の誕生 ヨーロッパ中心史観の淵源』2023年、ミネルヴァ書房)を”発見”した。南塚信吾氏は私が予備校生時代に、講演を聞いたことがある先生であり。法政大学と千葉大学において教鞭をとっている。世界史の研究において大変著名な研究者である。南塚氏は日本史と世界史を断絶した科目として教える日本の高等学校教育に強い懸念を示しており、日本史世界史の双方を融合的に教育する事の重要性を主張している。
この意見には私も大賛成である。一国的規模で見てしまうと、あたかも日本が世界から孤立していたように生徒が感じてしまい。日本中心主義に走ってしまう可能性が考えられえるからである。
私は、世界史という枠組み自体無理があると考えている。チリならばチリ史としてチリの独立から建国から現代まで学ばせればいいし、韓国史なら檀君の伝説から日本帝国による併合。現代のポップカルチャーにいたるまで高校から突き詰めて学ばせればよいのだ。
そもそも、大勢の生徒が一つの教室に押し込められて、単一的で画一的な科目を平等に学ばせる日本の学校教育制度もあまりよいものではないと私は思っている。高校においても大学のように、多岐にわたる専門的な講義を生徒自ら選択できる制度に変更すべきであると思っている。何のための単位制高校であるのか、私は現代の日本のオートメーション化されて、無個性な労働者を大量に輩出するだけのために施されている日本の義務教育から最高学府までの教育制度は改善されるべきであると強く思っているのである。
世界史においてマルクスやエンゲルスの名著が紹介されることがある。私は共産主義の創始者としての彼らは尊敬しているが、『世界史』研究者としての彼らは余り尊敬できないと感じている。彼らの思想は強烈且つ先進的であり、それゆえ歴史観にもバイアスがかかってしまうのだ。プロレタリアート的考えにおいて、資本主義国を論じるならばどうしても否定的要素が入ってきてしまうのだとも私は考えている。

雑記3

USBを買いました。
ツクダというヤマダ電機の系列店でUSBを買いました。とても便利で、なおかつたくさんデータが入れられるので、大学生の私としてはとても助かっております。
話は変わりますが、石川幹人氏の「だからフェイクにだまされるー進化心理学から読み解く」という2022年5月10日に発刊された書籍を今読んでいます。
21頁の記述がロシアのプーチン大統領になぜ民衆が付き従うのかという回答例の一つが挙げられていたように感じたのでここに記しておきます。
「力強いリーダーにひかれる 美しさが演出できて娯楽として扱える一方で、力強さに関するところではフェイクとしての問題が依然として残っている。私たちが力強いリーダーにひかれ、従ってしまう傾向が、社会問題となっているのだ。この点についても動物時代にさかのぼりながら、理解を進めよう。
 サルの仲間の多くは、数十頭の集団で生活している。集団にはボスがいて、敵がなわばりを襲いに来たら、ボスの指令のもと、集団は一致団結して敵と戦う。このボスの地位につくのは、力の強い雄の個体である。ひとたびボスが雄叫びを上げれば、集団の他の個体も戦意を向上させ、敵意をむき出しにするのだ。
 ボスとなるのも戦闘に参加するのも、雄の個体が中心となる。その生物学的理由は、雄の個体がある程度死んでも、残った雄が種つけすれば生物種の持続に影響がないからである。これも機械的な進化メカニズムに由来する。
 一般に、雌雄で異なる行動は体内で分泌される性ホルモンが影響している。雌雄で同じ遺伝子をもっていても、遺伝子が発動する性差が性ホルモンによって生まれる。そのため、戦意の向上度合いに性差をつける働きがたまたま生じると、戦意向上で雄が大きくなり雌で小さくなるほうが生き残りに有利になり、その性ホルモンによる発動機構が後世に残りやすくなるのだ。なぜなら、雌が戦死すれば、すぐに次世代の子どもの数に影響するが、雄が多少戦死しても、次世代の子どもの数には影響しないからである。今では男性ホルモンのテストステロンの量が、雄にしろ雌にしろ、各個体の好戦的な行動傾向を決定づけていることがよく知られている。猿の仲間の中でも、生物種の系統のうえで人類のすぐ隣に位置するチンパンジーは、ボスを決めるために力ずくの勝負を終始行っている。個体同士がケンカによって順位付けされ、最高位につくのがボスなのである。地位が上のほうが配偶者や食料を多く獲得できるので、皆が地位の獲得競争に邁進してしまうのはやむをえない。しかし、ボスになっても安泰ではいられない。加齢やケガで力が落ちれば、すぐにボスの地位をおびやかされる。いわば”絶えまない暴力”によって集団内の地位が正当化されている。”安心できない社会”なのである。ただ、暴力ばかりでは雄たちの傷が絶えないので、コストが大きすぎる。そこでチンパンジーも、アカシカと同様「力強さのディスプレー」を一部導入している。身体の大きさを誇示する、牙(犬歯)をむく、大きな音を立てるなどである。
 人類もチンパンジーと同様、暴力によって支配と服従の階層的な組織を作る傾向がある。ただ、さすがに文明社会では、基本”暴力なしよ”とされているため、「力強さのディスプレー」がかなり使われ、それがフェイクの発端にもなっている。管理職に背の高い人、声の低い人、毅然とした態度の人が向いているなどと、(もちろんそんなことはあってはならないが)ささやかれる向きがある。誰しも、そうした”管理職向きの人”の話を、そうでない人の話よりも信用したという経験に、思い当たることがあるだろう。』同書pp21~23
そう、現代社会においてファッションリーダーやインフルエンサーや配信者などで活躍している人はみな、力強く内柔外剛な人ばかりである。暴力的なアピーリングにより、他の個体よりマウンティングが取れる事が重視される今は、まさにチンパンジーと同レベルまで落ちぶれた現代人の末路かもしれない。
ここ最近相次ぐインターネットでのインフルエンサー界隈や芸能界でにて不祥事が相次いでいるのはサイコパスなだけで魅力的に見えていた人心のない化け物が跳躍跋扈していた愚かな世界の金メッキがはがれた結果ではないかと思われる。

結局のところ、ホモサピさんもただの人だったということである。
結局のところ、ジャニーさんもただの人で、ジャニーズ事務所もただ才能だけしかない人間の脆い集団がやくざのような暴力的関係においてなりたっていただけである。
ジュキア氏も、ボス猿と同じである。自己の集団内で、やばいとはおもいつつもファンとメンバーの期待に応える為過激な動画を投稿するしかないのである。見られる者(信者)に振り回された哀れな人間である。
滝沢ガレソやコレコレ、へずまりゅうも、ボス猿的人間である。いつか手負いになれば見放されてしまうだろう。
現にゆたぼんはもう見放されただの学生に落ちぶれている。


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