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大僧正 行基

行基《ぎょうき》は日本の仏教僧の一人
でした。
まず、これまでも何度か言った事はありますが、
歴史とは全てが事実ではありません。
自称、歴史家たちはよく簡単な勘違いをします。

それは今の時代だからこそ隠蔽したかった
話等について、仮説等を立てたりしますが、
実際は真逆です。

当時は隠したかった事等は、確かに理論的
に考えてもおかしい事であれば、仮説も
充分にあり得ます。現在の常識等を当てに
していても何も見えてきません。

歴史について考える時は、まず必ずその時代
背景を見る事は非常に重要になります。
今では無く、当時の常識や、当時の背景を
知る事により、事実は見えてきます。

今回もその辺を踏まえて書かせて頂きます。
あくまでも私的な意見ではありますが、
時代背景や理論的見地から熟慮した話を
出来るだけわかりやすく書いていきます。


まず、彼が生きていた時代では、寺に属する
人々や僧に対して動向規制がかけられていた
時代でした。

民衆への布教活動を禁止していた時代でした。
この時点で普通に考えた場合、おかしな事だと
誰もが思うはずです。

日本人でありながら、日本の主な宗教の活動を
禁止するのは、世界的に見ても異例でしか無い
と言えるからです。

行基はその禁止された事に対して、その禁止を
破り、自らを主とした行基集団を結成して、
近畿を中心にして、仏教の布教活動をした人物
でした。

当然、仏教徒であるので、布教活動だけでなく、
困窮者への救済活動にも力を入れました。
当時、│布施屋《ふせや》と呼ばれていた、
現在で言うと、赤十字等をもっと親身になって
助ける場所のようなもので、宿泊は勿論、
その他、食事や物資の支援などを行う当時の
仏教寺院の活動の一つでもありました。

行基が活動していた時代は飛鳥、奈良時代で、
当時の民衆は遠出するには歩くか農耕用の馬
しか使用する事は認められていなかった為、
今のように整備されてない道を何十日もかけて
歩く事もよくあり、歩けなくなる人たち等を
助けるためや、水の確保もままならない時代
でしたので、溜池という言葉は今でも通用する
言葉ではありますが、溜池等も作り、民衆の
助けを大々的に行いました。

他にも道場や寺院等を建設して多くの人々を
助けていました。

しかし、朝廷としては当然、禁止している行いに
当たるので、度々、弾圧行為を受けていましたが、
行動自体は悪いどころか、大勢の人を助ける行い
をしていた為、支持者は日に日に増えていき、
圧倒的支持を受けてその弾圧に屈する事無く、
活動を続けました。

ここで少しおかしな点が生まれている事に
お気づきの方もおられると思いますが、
仏教徒の活動を禁止したのは、朝廷でした。
しかし、日本の朝廷というのは、ちょっと
変わった立ち位置にいつもいます。

分かりやすいのが戦国時代になるので、
例としてあげます。
戦国時代、京を制する者が天下を取ると
言われていましたが、それが何故か?
要するに朝廷を押さえるという意味に
なるのです。
朝廷の命令に逆らえば、逆賊の烙印を
押されます。
事実、信長も危うい状況の時は朝廷を
利用して停戦させたりしていました。
敵が有利でも、敵はそれに従うしか
なかったのです。

それを踏まえて先ほどの文章を見て
ください。歴史には朝廷からの弾圧
と書かれています。
しかし、それは朝廷では無いのです。
朝廷はいつの時代でも利用されて
きました。

特に日本の今では天皇陛下一族は、
世界で一番古い家系だと言う事だけは
事実です。実際どこまでが本当なのか
は分かりませんが、卑弥呼だと言う説も
あれば、更に│遡《さかのぼ》って神話的
な所までの意見もあります。

だから2000年辺りまでは、一族の血しか
入れずに結婚してきましたが、血を濃く
するのは知っての通り、あまり良くあり
ません。

兄妹などが結婚できない理由の大きな
理由はこの辺りも強く関係しています。
事実、過去に天皇陛下に就いた中には、
数年で身を退いた人もいました。

朝廷、天皇の力が世界で非常に強いのは
世界で一番古き一族だからです。
日本が第二次世界大戦に敗北した時、
アメリカ本土からのマッカーサーに命令
が下されました。
その時の命令の中に、天皇陛下を殺すと
いう命令も入っていましたが、
マッカーサーはもしも天皇を殺せば、
日本を世界が終わりを迎えるまで敵に
回す事になると、アメリカの命令に対して
抗議しました。

その結果、天皇陛下は殺されませんでした。
これは当時を生きた父や叔父などから
聞いた話ですので、事実です。
当時、私の一族は強大な力を誇っていました
ので事実になります。

要するに朝廷からの弾圧とありますが、
厳密に言えば朝廷からの弾圧では無いです。
今では政治にどこまで関係しているかは
分かりませんが、当時に関しては朝廷は
利用されていました。

当時の事は複雑な状況だったという事だけ
は分かります。理由の1つとしてまず言える
のは、行基が作った集団は圧倒的な支持を
民衆等から受けました。度々来る弾圧にも
負けずに逆らい続けました。

その結果、行基は聖武天皇により僧侶の
頂点とも言うべき大僧正に任命されました。
日本で初めて生まれた僧侶のトップになった
のは行基になります。大僧正が生まれたのは
行基の功績とも呼べるものでしょう。

その後、仏教徒に対する弾圧は当然のように
終焉を迎え、行基は奈良の大仏で有名な東大寺
の建立の責任者として聖武天皇に直接、招聘され
ました。東大寺の建立に特に貢献した仏教徒四人
のうちの一人として、行基の名もあります。
一般的には四聖と呼ばれ、聖武天皇行基
インド出身の行基が招いた│菩提僊那《ぼたいせんな》
そして仏教界に貢献した│良辨《ろうべん》の四名が、
東大寺建立の四聖と呼ばれています。

昔の事なので、色々な問題があった事がこの四名
からも察する事はできますが、行基に至っては、
揺るぎない事実であると思われる功績があるので、
行基に関しては、確かな証拠もある以上、仏教界を
救ったと言っても過言では無い存在だと言えます。

大僧正という僧侶の頂点の最初の人物として、
扱う事を朝廷が決めたと言う事は、絶対的な存在で
あったからだと言う事になるので、それが証とも
言える事になります。

彼の人生の多くは、やはり仏教の普及を禁止されて
いた時代に、それを良しとせず、自ら先頭に立って
抵抗する一団を作って、多くの民衆だけでなく、
差別なく権力者たちも助けていき、弱き者を助け
つつも、抵抗するために道場等も建設して、盤石の
力をつけた結果、弾圧できないほどの力を持った
事により、大僧正という位が生まれ、仏教がより
高い位置に属される事になった事だと言えるでしょう。

ただ、これもよくある事ではありますが、行基は
確かな後継者を育てていなかったというのが問題
になりました。

彼の死後、宗教団体は国家の援助を与え、
民衆への布教を禁じ規制を再び強めてしまいました。
彼の立ち上げた宗教団体が、降り出しに戻す事になり
本末転倒してしまったという事に尽きるでしょう。

仏教団体や教理などの表面から消えていき、
民衆の伝承や寺院の開基伝承などに伝えられる事に
最終的にはなりましたが、行基の求めていたものとは
違ったものになってしまった点は残念ではありますが、
こういった事はよくあります。

よくある事ではありますが、知る度に残念な気持ちに
なります。

春秋時代を書いた司馬遷も、多くの功績を残した人々が
余りにも惨い死に方をした人の多さに対して、司馬遷は
「天を呪う」と言ったほど、悲運な事はいつの世でも
起きています。

そして、それは今も変わる事無く、それは続いています。
人の世である限り、これは根絶できない問題です。


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