目に見えない世界、手に取れない世界で生きる概念への隷属

 「大学」という高尚な響きが大嫌いな鳥です。
なんか「大学」って聞くと、やっぱり高尚な教育機関って気がしますよね。「大学生です」って言うと、いまだに褒められたりするのも事実だし、、、。 
でも、「大学」って別に、高校や中学と変わらないじゃんって思うのです。
というのも、大学で学ぶ知識って別に大学に行かなきゃ身につけられないわけじゃないですよね。その気になりさえすれば、近くの本屋に行けば関連図書があるし、ググれば何万件とヒットするわけで、他の誰かが既に答えを出していて、さらに体系付けられた、ほぼほぼ間違いないであろう知識を学ぶわけです。
大学なんて、少なくとも、僕が生きてきた環境においては、何百万円というお金を払って「卒業」を買う機関にすぎないんですよね。
だから、「オンライン授業になったのに、授業料が据え置きなのはおかしい」って声に僕は同調できません。対面授業だろうとオンライン授業だろうと、教壇に立っている服を着た学歴おじさんが喋る内容は別に変わらないわけで、その環境で得られる知識も変わらないからです。サークル活動に勤しむことや、新しい友達ができること、コンパに興じることは、僕ら学生が勝手に付けた付加価値に過ぎないわけで、例えば、お代わり自由の美味しい和物があるラーメン屋に行って、その日は和物がもう売り切れていた時に、「だったらラーメンの値段をまけろ」という主張と、僕にとっては何ら変わらないのです。
大学に入れたのだって、僕はただ運が良かっただけです。それはセンター試験でたまたま点が取れたとか、個別試験で得意分野が出たという意味ではなくて、僕が努力したことに対して結果を用意してくれる環境があったという意味です。何かを為せば、両親が褒めてくれて、教師が背中を押してくれる、そういう環境が僕には用意されていたから勉強ができたし、大学に入れたわけです。僕の努力を肯定して、何かに繋げてくれる、そういう環境に恵まれていただけ。
その結果、僕は「卒業」という概念を手に入れることになるのです。

 そう考えると、僕らの生活は多くの概念によって形成されていると思うのです。
貨幣制度、時間、社会、政治、法、労働、思いやり、気持ち、心、そして卒業、、、。
挙げ始めるとキリがないほどの、僕より先に生まれただけの人間が〝無〟に名前をつけた概念が僕らの生活を縛っていることに気づくわけです。当然、「無」も「生活」も概念ですが、、。まだ、実態があって確実に存在しているウイルスの方が可愛いもんだとすら思える。そういう目に見えない、手に取れない概念に、僕らの自由、これまた概念だが、それが制約されているのって意味が分からなくなってきます。

 僕はここ一年くらい、僕の家に宗教の勧誘にきた「エホバの証人」のおばさんと定期的に文通をするという意味不明なことをしているのですが、この前、「僕は無神論者だ」と書いたら、その返事に「君のいう無神論とは何か」と書いてありました。なるほど、定義することなく軽率に無神論という言葉を使ってしまったと反省したわけです。確かに、日頃から数珠も着けているし、今年は伊勢詣でまでしといて、無神論者とは都合が良すぎると思う節もあって面を喰らってしまいました。神様が居るか否かの話からID論や洪水地質学の議論にまで波及してしまって少々面倒くさいことになってしまっているのですが、、、。
「パスカルの賭け」の理論のように、もちろん、「パスカルの賭け」には論点先取だという批判があることも承知しているが、神様が存在するか否かは置いといて、やっといて損することはないだろうと思っている部分があることにはあります。でも、それ以上に、僕にとっては、初詣はただのイベントでしかないし、数珠も昔から着けているから何となく着けているだけなんですけどね。やはり神もただの概念だと考えてしまうわけです。

 僕らの周りには多くの概念があって、ただ名前の付けられた〝無〟が僕らの生きている環境を維持しているのです。だから、僕は考えることやめてはいけないと思います。人間は考えることによってのみ、概念を可視化することが出来て、実在している気になると思います。しばしば凄い人を「きっと見えてる世界が違う」と評価することがありますが、きっと彼らはあらゆる事に対する思考を留まることなく続けてるんだと思います。新しい価値や概念はシステムとシステムとの間に生じる違和感から生まれるものだから、考え続けることでシステムとシステムの間にある〝無〟を捉えることが出来ているのだと思うのです。概念だらけの世界で、思考を続ける人たちの瞳にはそりゃ違う世界が映っているに違いありません。思考を全員が考えることをやめれば、もともと何もない概念は弾けて消えてしまう。僕らの思考が概念の輪郭を維持し、概念が僕らの社会を維持している。何だか循環論法のようになってしまいましたが、ただ僕の仮説があっているのならば、一つだけ言えることがあります。それは、自分が納得できないことは考えることをやめてしまえばいいということです。納得できないなら、そんなもの自分の世界から消してしまって、新たに思考を始めて、新しい概念を創造してしまえばいいと思います。それが通用しなければ、その時に既存の概念を受け入れるか、また新たに思考を始めるかを選択すればいい。だからと言って、法律を破っていいとは言ってないです。先述したように、僕らの世界を維持しているのが概念であることは重要な認識です。
でも、物分かりの良い振りをして、既存の概念をただ受け入れるなんて、僕は御免です。
概念の奴隷になんてなってたまるかという反社会的な態度で、僕は明日も概念によって形成された世界で生きていくのですが、、、。

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