小説を全く読まない男が書く超々短編

猫が死んでいる。轢かれたのだろう。潰れた頭に、飛び出た臓器、まだ乾いていない血。極めて酷い光景だが、見慣れた光景でもある。生きている時は避けなかったくせして、クルマたちがその死体を避けて走る。汚いものには触らない。生より醜く、死より尊いものは無いと一瞬よぎったのはボクが変わっているせいなのだろうか。そんな死骸をただ茫然と見つめるボクの側を人々が平然と行き交う。死んだ猫に気付くどころか、この人混みの中で唯一、立ち止まるボクのことでさえ、その目に留まっていないのであろう。少し奥の方で死んだ猫を指差し、同情している少女がいたが、乾いた母親に腕を引っ張られ、通りの向こうへと歩いて行った。やはり汚いものには触れたくないらしい。車道と歩道を隔てる少し傾いたガードレールが何か境界線のように思えて仕方なかった。乗り越えてみようかと思ったが、ボクの名を呼ぶ友人の声が聞こえたせいで、ボクの決意はいとも容易く鈍った。
「どうかしたのか」
「いや、なんでもないよ」
こいつの目にも猫は写っていないようだ。
こいつは大学で唯一の友人だ。付き合っている彼女の誕生日が近いのか、プレゼントを買うのに付き合ってくれと頼まれて講義の後に街へ出てきた。全くどうしてか、ボクは人間が嫌いだから態々少し田舎の大学を選んだっていうのに、知らない女の為にこんなところに来なくちゃいけないのか。田舎者というのは一人で百貨店に入れない生き物であるから、おそらくこいつもボクのセンスに期待しているわけでは無いのだろう。第一、ボクより顔の悪いこいつに彼女がいるのが気に食わないのに、こいつが気張った物を買うための上等な外套になんてなる気もない。だからボクは草履を履いて来てやったのだ。そんなボクの抵抗にこいつが気付くはずもなく、間もなくボクらは百貨店の前に着いた。
しかし、百貨店というのはどうしてこうも慠慠としているのだろうか。自動ドアの前に立つと、大講義室のドアを開けるときと似たような緊張感に襲われたが、草履を履いた今のボクはアバンギャルドな男なのだと意味の解らない言い訳で百貨店の城門を通る。やはりこうも煌びやかな世界は苦手である。入ってすぐの四機のエスカレーターはまるで堀を超えた先にそびえる土塁のようだが、気負わないように上がると化粧品の匂いが立ち込める。下品な匂いに満ち、ボクの苦手な人類たちが世界の中心は自分であるかのように闊歩する。
「まるで道長のクローン行軍だな」
「そんなことばかり言うから、俺以外の人間に懐かれないんだ」
「構うものか」
「そんなことより急にトイレに行きたくなった。少し待っててくれ」
「本屋じゃないんだ。こんなところに独りで取り残されたら四面楚歌じゃないか。さっさと済ませてこい」
独りで敵陣に残されたボクがひそひそと歩いていると、少し先にあるボクでも知っている驕慢な店から大将のような女が出て来て、見送る二人の店員を背にこっちへ向ってくるのが見える。なんて高いヒールなんだ、十五センチくらいあろうか。こちらからでも見える真っ赤な靴底が妙に禍々しくて武者震いでも起こしそうだ。別にその先に目的があるわけでも無いのだから方向を変えたっていいのだが、変な意地でボクは足を止めはしない。勝手な切迫感が濃厚に立ち込める中、ボクが歩を進めると、女とすれ違った時に彼女の匂いがボクの鼻を打ち、急に緊張感が解かれた。なぜかどうも落ち着くような、それでいて何かが晴れるようなそんな香りだ。気が付くとボクは彼女が出て来た店に入っていた。
「今の人、彼女が付けてた香水はありますか」
急に話しかけられた綺麗に飾った店員はきょとんとした後に吟味するかのようにボクの頭の先から爪先までを見た。草履のせいか一瞬、気怠そうな雰囲気を感じたが、目一杯の愛想で案内して、べらべらと得意げに話した後にボクの右手首の裏に香水を振ってくれた。あぁこの匂いだ。冷静に考えれば、彼女の香水がこの店のものという確証なんてなかったのだが、どうしても彼女の香りをボクのものにしたかった。案内された香水は理解し難いほど高価だったが、買わずに帰るのも店員にやっぱりと思われそうで癪だった。もちろん財布にそんな大金が入っているわけなかったが、前に口座を開設するときに、対応した銀行窓口のババアがしきりに勧めるもんで、結局断りきれずに作ったクレジット機能付きのキャッシュカードが幸いにも入っていた。あのババアに感謝するのは今日が最初で最後だろう。
「一括で」
ここで分割にできないのがボクという人間だ。
店を出るとちょうど友人から着信があった。
「長かったな」
「すまない。何か買ったのか」
「気に入ったフレグランスがあったんだ」
ボクは彼にさっき貰ったムエットを差し出した。
さっきまでと世界が違って見えるのは、香水に入っている没薬のせいだろうか。さっきまでは無意味な社会への対抗心で周りの人間を見下していたが、今は違う。彼らは彼らで、ボクはボクなのだと研ぎ澄ませれた感覚だ。ある種の精神世界に没入したみたいだ。そういやさっきの店員が没薬はキリストが産まれた時にも贈られた貴重な香料とか太陽神がなんとか言ってたな。なるほど、分かる気がする。今のボクなら、きっと猫にも気を止めまい。そう思うとボクの口元が緩み、不思議と口角が上がる。
「今なら月さえも自分のものだと勘違いしそうだ」
そう言うと、ボクは大きく歩き出した。草履なんて履いて来なければよかった。

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