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モノクロで撮るということ

僕にとってモノクロ写真は人生の塗り絵だ。


写真は映像と比べると、物語やその作品が意味する内容を受け手側にゆだねる部分が多いと思っている。

1枚の写真とそのキャプション。

受け手はこの情報から様々な妄想をし、その写真に秘められた物語を継ぎだそうとする。

妄想するときの手掛かりとなるのが、その写真に写っている人や情景、構図そして色だろう。


写真における「色」は、かなり重要な要素だろう。

同じ写真でも柔らかい色と硬い色では、見る者の受け取り方が随分と変わってしまう。

だからこそ、作り手は自分の中にある物語を色で表現し、それを受け手に伝えようとする。


しかし、モノクロ写真は、写真の数少ない情報の中から「色」という要素を取り除いてしまう。

想いを表現する手段を捨ててしまうのだ。


僕は、このあえて表現する要素を1つ捨ててしまうことに惹かれる。

人は足りない要素と出くわした時、その要素を自分の頭の中で補おうとする。

この場合だと「色」だ。


モノクロ写真を見た人は、自分の中にある色を塗り絵のように写真へと落とし込む。

この時の自分の中にある色とは、その人が生きてきた人生だと僕は考えている。

その人がどう生きてきたか、何を見て、何を感じ、これまでに何を経験してきたかで、完成する写真は変わる。

同じ写真でも赤という人もいれば緑だという人もいるだろう。

写っているモノを知っている人と知らない人では、受ける印象も全く変わるに違いない。

ひとつとして同じ完成品は無いだろう。

だからこそ面白い。


欠損の美学。

受け手によって完成するのがモノクロの良さにあると僕は感じている。


僕はどうしようもなく欲張りなんだと思う。

モノクロ写真を通して、見た人の人生に触れてみたいんだろう。

その人の内側を覗いてみたいんだろう。

自分の知らない異世界に出会いたい。


だから僕はモノクロ写真が好きでたまらない。

撮った人は何を見ていたのか、見た人は何を見るのか。

飽くなく探求心が僕のココロを刺激する。


僕はあなたが何色を見ているのか知りたい。

そして、なんでその色なのかを教えてい欲しい。


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