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0477:やくみん覚え書き/「「民族誌を書く」小説」という構造

 昨日アップした公務員小説「やくみん! お役所民族誌」第11回で、ようやく標題の「民族誌」に触れることができた。本文のみを読み進めて来た人には「民族誌」の意味の一端がここで明らかになっただろう。

 この作品のキモは、単に公務員小説として公務職場の姿をリアルに描くのではなく、役所の外部と内部の中間に主人公を置いて、その目線から役所を描く点にある。まさに文化人類学における民族誌だ。ただ更に捻りが入り、「「主人公が卒論として民族誌を書く」という設定で小説を書く」作品だから、視点はメタのメタにまで及ぶ。

 そうした「メタのメタ」として、第2話以降で人文・社会科学の大学教員たちがみなもの見聞を肴に盛り上がる「法文妖怪会議」が要所要所で登場するし、主役級の登場人物たちの考えをその他の登場人物がサポートしたり疑問を呈したり時には激しく拒絶する。これは、県庁というひとつの組織、家庭というひとつの単位が、決して同質同色ではなく多様な人間によって構成されていること、その状況を描くことが文学作品としての本作の意図するところだからだ。

 本作の登場人物には幾ばくかのモデルがいる。もちろん、ある特定の実在人物をある特定のキャラクターに割り当てることはしていない。Aさんの容姿、Bさんの口調、Cさんの性格、Dさんのエピソードが入り交じって、一人のキャラクターになる。執筆の過程では脳が目まぐるしく回転し、例えば1行目で二階堂の立場になりきった次の行では柳楽の立場になりきって言動を組み立てる。

 民族誌という営みが他者と触れ合うところで生まれるのに対し、小説を書くことは個人の内面の作業であり、大きく違うのは確かだ。けれども不思議なことに、自分の中で他者と会話をし、思いもよらない表現や展開が掘り出されなければ、小説は生まれないとも感じている。

 ところで、私自身は文化人類学を専攻したことはない。その辺りの話は以前に記した。

 今回のやくみん本文で文化人類学の小難しい解説を書いたが、執筆にあたって確認的に手元の参考書やネットを多少確認したけれど、大半は自分の知識を元に勢いで書いている。ということは、正確でないのはもとより、下手をすると専門家が見たら「致命的に間違っている」表現があるかもしれない。現在のnote連載は「下書き」のような段階なので、今後必要な手直しを積み重ねていくことになる。なので、お気づきの点があれば御教示いただけると有り難い。

--------(以下noteの平常日記要素)

■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積194h45m/合格目安3,000時間まであと2,806時間】
実績108分。講義動画3本視聴。「10分後の自分に情報を届ける」受験の実用テクニックだ。

■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『刀語』第3話、敵キャラをこれだけ魅力的に描いてあっさり殺すのか、と思ったらそれ自体が主人公のキャラ付けという。『吸血鬼すぐ死ぬ』第8話、ジョン……ジョーン! 『その着せ替え人形は恋をする』第1話、予告を見て期待しながら見始めた。うん、むっちゃ面白い。今期期待作のひとつかな。『桜蘭高校ホスト部』第22話、序盤でさらっとギャグに見せかけた「ま゛」がラストに繋がる。こういうキレなんだよな、榎戸脚本は。『先輩がウザい後輩の話』第8話、なんかいいねえいいねえ。

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