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0439:(GaWatch映像編007)『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』

『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』2021年/日本
監督 京田知己

■1.はじめに

 最近、2005年のテレビシリーズ『交響詩篇エウレカセブン』からシリーズ全作を視聴していたことを、このnoteの希少な読者はご存知だろう。そのきっかけは、シリーズ最後の映画『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が年末公開予定と耳にしたからだ。元のテレビシリーズは本放送当時に夢中になって観ていた。その後の劇場版やAOは今回初めて視聴した。残念ながら腰を据えて細部まで鑑賞できたわけではないが、それでも駆け足でシリーズの16年間を追ってきたことになる。

 本日、ようやく映画館に足を運ぶことができた。実は奇しくも同じ2005年にアニメーションシリーズが始まった『ARIA』最新作『ARIA The BENEDIZIONE』とのハシゴとなった。後者の方は可能なら明日以降のどこかで所感を書き留めたい。

 さて。本題に入る前に、ひとつ前提として書いておきたいことがある。私は最初のテレビシリーズを名作級の素晴らしい出来、パーフェクトな物語だと思っている。その後の映画等は、異質だ。いわゆるスター・システム、同じキャラクターを別の設定に置き別の物語を紡いでいる点を指して、ここでは「異質」と呼んでいる。最初は少し戸惑った。しかしBONESの高いクオリティで生み出される各作品はつまらない筈がなく、それぞれに楽しんだ。それでもなお、ファーストシリーズに対するならば、蛇足の思いが拭えない。そのようなある種の偏見を私自身が抱いている、それを踏まえて、以下に所感を綴る。

■2.パンフレットについて(映画視聴前)

 映画館の売店で、まずパンフレットを購入した。私が映画を観る前にパンフを買うかどうかは半々、未知のものは警戒して見終えた後に価値ありと判断すれば購入するし(ファーザーがそのパターン)、期待して映画館に足を運んだ場合は最初に購入して上映前に目を通す(ポンポさんはこっち)。

 本作のパンフはビニール袋に入っていた。一方、同時に購入した『ARIA The BENEDIZIONE』のパンフ(分厚い!)はむき出し。この違いは何かしらん、と軽く気にしつつ袋から中身を取り出すと、ページがちゃんと開かない。左の方に帯封がされているのだ。よく見ると「ご鑑賞後にご覧下さい」と書いてある。その下に「Spoiler alert」(=ネタバレ注意)の文字。私はあまりネタバレを嫌うことはないが、それでも世の中にはネタバレると衝撃を損なう作品が確かにある。「シックスセンス」とかね。念のためalertに従って大人しく袋に戻し、パンフを読まずに本編視聴に臨んだ。

 ──と、この続きをしばらく書いたところで、上記の製作者の意図を汲むのならば、私の所感(どうしても展開が出てくる)を未見の人に見せることも控えた方がいいのでは、と思い至った。そこで次節以下をいったん有料設定したのだが、目的-手段-効果が見合わないと判断して有料設定を解除した(この半日間で購入者がなかったので幸いした)。

 というわけで、以下はネタバレ全開。作品未視聴の方はご留意を。

■3.視聴体験/エウレカとアイリスのこと

 本作の世界もまた、これまでの各作品とイコールではない。一応前作『ANEMONE』の世界の延長とは知っていたが、年数が経っているので観客は未知の状況に投げ込まれる。冒頭からしばらくの間、ジェットコースターのように世界説明・状況説明に当たるエピソードが続き、『ANEMONE』をいい加減にしか観ていなかった私には戸惑いが強く、一歩引いて観ていた。

 しかし転機はすぐに訪れた。ホランド(元の面影のあまりないデザイン──それは多くのキャラがそうだ)の登場から少しして、隕石が接近してくる。それが突然角度を変えた時、予感がした。直後、隕石の中から現れるメカとコクピットのパイロット。間違いない、これがエウレカだ。ゾクッとした。この瞬間に私は映画の中に惹き込まれていた。ここからアイリスを救出するまでの展開は、メカ戦も銃撃&徒手格闘も、むっちゃカッコイイ! 

 映画中盤はエウレカとアイリスの逃避行が中心となる。思いっきり子供のアイリスとそれを持てあますエウレカの関係はとても魅力的だ。最初はすれ違っていた二人の心が次第に触れ合っていく。

 象徴的なシーンがある。アイリスがエウレカと一緒に湯船に浸かり、彼女の体のあちこちにある疵痕、そして右腕の大きな痣に目を奪われる。

 この時私はこれまで十年以上思い出すことのなかった、亡き父の身体の欠損を思っていた。子供の頃、父と一緒にお風呂に入ると、父の背中に大きな傷があり、左の肩甲骨が除去されていた。大正15年生まれの父は、高校時代に結核を患って肺の切除手術を受け、高校を中退せざるを得なかった。それが同時に、兵役検査丙種で戦場に出ることなく終戦を迎えることに繋がった。父は寡黙な人で、その後の人生も地道に中小企業のサラリーマンとして生きてきたから、あまり自分の思い出や趣味を子供に語ることはなかった。しかし肩甲骨がないことだけは、お風呂で何度も口にしていた。小学生の私は「ふーん」というくらいしかなかったけれど、父の人生に自分の知らない大きな物語があるのだということは、よく分かった。洗い場で父の背中を流しながら手を触れた感触、その異形をなぞる不思議な感覚。父とは思春期に仲違いをするが、その前の幼い日の、とても大切な記憶だ。

 アイリスもまた、エウレカの抱えたものを、具体的にどうこうではなく感覚として察したのだろう。

 やがてアイリスはエウレカに憧れ、エウレカのようになりたいと願うようになる。戦闘技術を学びたいと申し出る。そのような機会は映画の中ではなかったようだが、デューイの超能力で宙釣りにされたところから落下する際、自衛隊空挺団の五点接地転回法みたいになってたのが個人的にツボった(分からない方は「バキ 五点着地」などでググってみてね)。

 最終盤。エウレカの絶望の淵に現れた手。最高のクライマックスだ。手だけで表現するのかと思ったが、その後できちんとレントンの全身が描かれ、エウレカと抱き合っていた。ハイエボリューションシリーズの終わりは、やはり二人を再会させなければいけなかったのだろう。しかも、大人になった二人ではなく、ファーストシリーズの少年と少女の姿だ。それは、本作の舞台である仮想世界から本来の世界へ、二人が遷移(帰還)したことを窺わせる。この世界にはアイリスが希望として残される。首輪をし、背中に小さな緑の羽根が生え、「私はエウレカになる!」と叫ぶ少女が。

 うん、良かった! エウレカとアイリスの物語として、素敵だったよ。エウレカとレントンの物語として、しっかり着地をしたよ。


■4.デューイのこと

 一方、本作の悪役は(やはり)デューイだ。岩手の山寺を本居として部下に慕われるテロリスト集団のリーダーでありながら、二人を追い回す様子はターミネーターのような凶悪&執拗さだ。

 実は私はどうもデューイをきちんと受けとめられなかった。なんでそこまで、ということに共感ができなかった。追跡者である時の怪物と、チャールズやレイなどの部下に慕われる上官の、二面性の重なりが理解できなかった。

 6個のピアスが命の数を表しているという設定は面白いと思ったよ。でもそれがかえって、命があるから無茶をする、という思慮の浅い人物に思えてしまったんだ。あんだけ凄惨なヤラレ方を6回も。ドラゴンボールか。

 最後のエウレカとの会話は良かった。メタフィクションに関わる部分は次項に譲るが、最後の最後で軌道エレベーター破壊に踏みきり、部下たちもその指令を忠実に実行する。彼は確かに組織のリーダーだったのだ。 


■5.メタフィクションについて&パンフレットについて(映画視聴後)

 さて。前項に書いたように、私はデューイの動機に当たる部分がどうもしっくり受けとめられなかった。

 デューイの動機の核心に存在するのが「世界観設定」に対する認識であることは間違いない。最初のテレビシリーズに対して以降の作品がスター・システムを取った、それは最初(ポケットが虹でいっぱい)は大人の事情だったのかもしれない。しかし作品を重ねるにつれて多層世界であることは前提となり、前作ANEMONEでこれがエウレカの妄念とも呼ぶべきものがもたらしたものであることが明かされた。デューイはこの世界で、エウレカとアネモネを除いて唯一その真相を知る者だ。

 ここでパンフレットの話に繋げよう。自宅に戻ってからいそいそと帯封を外して、さらっと内容を読んだ。世界観設定の問題を含め、なるほど作品を観た上で読むべき解説がかなりの文字数で掲載されている。「シックスセンス」みたいな作品のそれとは違った意味で、こうしたネタバレをせずに作品を味わって欲しいと製作者側が願った気持ちはよく分かる。

 実際、私は本作を映画館で観たことに、大いに満足している。パンフレットの中で監督が述べている「自立した人間としてエウレカを描くこと」、それは間違いなく成功しており、次世代(アイリス)の成長と重なって、本作の魅力の中核を形成している。理知的な解釈ではなく、映画の視聴体験として、素晴らしいものだった。前述のデューイの存在ですら、「よく分からないモンスター」として圧倒的だった。

 裏を返すと、頭で理解しようと思うと、デューイの動機の問題を筆頭に、躓いてしまうのだ。この世界が仮想世界のひとつだ、うん、それは分かった。それを知る唯一の人間であることがデューイを追い詰めた、ということも、設定としては分かった。でも、それがなぜ、あんなことに? というのが分からず、どうにも落ち着かない気分になる。

 パンフレットの藤津亮太の解説で、終盤のデューイの台詞「我々は世界観設定と呼ばれるルールの上で、物語を成立させるために作られた機械人形に過ぎない」云々を引用し、これをメタフィクションとして読む筋道を示している。メタフィクション作品はSFには珍しくない。フィクションとして作られたキャラクターの気持ち、という点を含めて、『廃園の天使』シリーズや『零号琴』で飛浩隆がうんと突き抜けたことをやっている。今更「だがこの気持ちはなんだ」とデューイに言われても、うーん、と戸惑ってしまう。

 ただ、同じことをレイが言った時には、グッと来たんだ。愛するレントンを失った母の言葉として。アイリスがエウレカの傷から彼女の抱えた物語を窺い知ることができたように、ファーストシリーズから観続けてきたファンは、レイの抱えた物語を共有している。

 デューイに対してはそれがない、ということなのかなあ。


■6.終わりに

 さあて。文句も一杯書いた気がする。

 でも、繰り返す。本作の視聴体験は素敵なものだ。特にこれまでシリーズを観てきたファンならば、映画館に足を運ぶ価値は大いにある。間違いなくハイエボリューションシリーズの掉尾を飾るものなのだから。

 その上で、批判的な視点も含めてあれこれ語り合うこともまた、ファンの愉しみというものだろう。

--------(以下noteの平常日記要素)

■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積161h45m/合格目安3,000時間まであと2,839時間】
ノー勉強デー。どうも余所事ばかりで試験勉強が手につかない。

■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』、上記のとおり。『ARIA The BENEDIZIONE』、明日以降に書きたい。『日本沈没』第8話、東日本大震災をはじめ各種災害を経験し、被災者の状況がSNSで広く知られるようになった今だからこそ、こういう災害時の調整裏話は関心を惹くよね。『月とライカと吸血姫』第4話、今回もあまり真面目に観ず。なんだろう、ちょっと飽きた? 『大正オトメ御伽話』第4話、妻が毎回一回は「絶望したっ!」と叫ぶ。本作は好き、人の善意が伝わる。

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