最近遺書を書いた話

最近症状の悪化と手続き関連での職員の不誠実な対応(これは目に見える障害の方の使う制度ですよ発言※嘘)と猫カフェの推し猫の訃報が立て続けになだれ込んで、楽になりたい気持ちが天元突破したので遺書を書きました。これを書かずに死んでたまるか。

それで楽になれたかというとそうでもなくて、普段はしない自傷をしてしまった腕で作った砂肝の塩焼きを眠剤を酒で煽りながら食べました。バチバチに”決まって”しまって多分人生で一番気持ちよかったです。まぁそれはさておき私の半生。読んでください。後悔させます。


タイトル「とどのつまり」


思えば、理不尽な暴力ばかりが飛び交う家庭で育ちました。

実家は家の周りがすべて森です。お隣さんがありません。先祖が何をどうしたのか、集落から外された所に家がありました。屋号の意味から推察するに、忌み嫌われていたのだろうと思います。
曾祖母の代まで男が生まれない事が何代か続いて、婿として来た曽祖父は大変よく働き、待望の長男は溺愛され、甘やかされて育ったと祖父は後に自分で語っていました。当時、その地域では珍しく車の免許を取得し(今ほど講習が厳しくなかった時代です)、自分の思い通りに遊び、酒に溺れ、夕刻ともなるといち早く農家の作業をやめ、18時頃から晩酌を始め、食事時には息子の嫁の作った料理と誰かに必ず文句を言い、21時過ぎまで飲んでいることもしばしばでした。そんな祖父を嫌い父は仕事が終わってもすぐには帰宅せず、近所の商店の飲食スペースで少し引っかけてから帰るようになりました。一方で祖父は誰からも信頼されていない事を理解していたのか、父に結婚したら正職を辞め、近くの非正規で働き家の農業を手伝うように指示を出し、その通りになりました。前述のとおり家にはすぐ帰らなかったのですが。

姉が生まれ、兄が生まれ、だいぶ離れて私が生まれました。
一番最初の記憶として覚えているのは、未就学児のころ、晩酌をしていた祖父の傍を走ったという理由だけで母親が詰められていた記憶です。自分の子供のくせしてなんでこんな時間までお風呂に入らせず放置しているのかと。当時家族9人分の食事を作り、農業の手伝いと3人の子育てをし、晩酌用のツマミまで用意していた母親の苦労を祖父は知る由がありません。祖父には想像力が欠如していたからです。
小さい頃におやつをくれた近所の優しいおばあちゃんの訃報が夕食時に流れ、泣いていた私を「そんなことで無くお前は頭がおかしい」と祖父に言われたことも覚えています。
その祖父を誰も止めなかったのか、という疑問が当然沸くかと思いますが、曽祖父母は長男の言動はすべて自由にさせており、祖母も祖父の味方に付いた方が自分にとって有利なので黙っていました。父は祖父と対話ができないので基本的に逃げ、母は典型的エネmeだったので別居や離婚は頭になかったと言っていました。

私が成長するにつれ父親の暴力が始まりました。父は外ではニコニコ笑顔を振りまき、解消されない感情を家の中で爆発させていました。説明が下手な父の言うことを聞かず頭を叩かれました。生意気に笑っているだけで床や壁に叩きつけられました。平均よりも身体が大きかった私は、おそらく父の中で怪我をしない程度に八つ当たりをしてもいいことになっていたのでしょう。

幼稚園に入り、私は同じように叩いて人に言うことを聞かせようとしていました。先生に初めて叱ってもらえて、これはダメな事なんだと落ち着いて理解できたのを衝撃的に覚えています。
それとは別に、恐らく当時から発達障害の過集中が出ていました。テレビで見たヒーローの真似をしようとして、園の庭で目の前に人がいるのに気づかず、石を投げて怪我をさせてしまいました。確か腕を引きずられ相当に叩かれ部屋に閉じ込められたと思います。
家の中では絶えずいつも誰かが喧嘩をしていました。だからお風呂に入ったら一人で布団に入り寝たふりをして、ほとんどの大人たちが寝静まった頃にリビングに行き、母親が写真アルバムを作っているのを眠くなるまで姉と見ているのが好きでした。そうすると当然朝が起きられず、登園できない日が続きました。ある日お昼寝の時間先生に呼ばれ職員室に行きました。私の記録表が並べられ、なぜお休みが多いのか聞かれました。私は朝起きても眠いからお休みしていると言いました。そしたら悪い子だと言われました。要は親に聞き取りをしない先生の八つ当たりだったんですが、他の先生が黙っているだけで助けてくれなかったのを覚えています。
皆でおもちゃの作り方を考えているときに、私が(そのやり方は)やめたいと小さく一言言っただけで「〇〇ちゃんはこんなことしたくないの!?」といきなり怒鳴り、腕を掴み私を立たせ椅子を自分の後ろにやり、席に戻せないようにした先生。あまりの剣幕に私が泣くと「ね~皆~泣いてる子って迷惑だよね~?どう思う~?」と皆に「迷惑ー!」と言わせた先生。あなたは当時離婚調停中でストレスが溜まっていたそうですが、私はあなたにされたこと、言われたこと、一字一句覚えています。別の園の園長先生になられたそうですが、私は今でもあなたに手紙を出そうか迷っています。確かその辺りから自律神経がおかしくなり、度々脳貧血からくる眩暈を起こすようになりました。

小学校に入学すると共に、兄も進学しました。私は呼吸器系の持病があり、環境が大きく変わったこともありしばらく入院しました。
兄がおかしくなった、というか、嘘を吐くのが当たり前になったきっかけを覚えています。いつかの日曜日に、揃って昼食を摂っていました。兄は少し風邪気味で、卵かけご飯に鼻水が入ったのです。兄が食事を止め席を立とうとすると、父が「なんだ?まだ残ってるじゃないか」と言いました。兄は「鼻水入っちゃったから…」と返すと父は「いいから食べろ」と怒鳴りました。父は鼻水が入る所を見ていません。父は相手の想定していない言葉が聞き取れない人でした。食べ残しを自分が注意して、相手がそれを聞き入れるという想定した流れを乱されて、怒っていました。兄は無言でそれを食べました。以来、兄は家の中で自分の本音を隠すようになりました。
兄はサッカー部でした。時期を同じくして、エアーガンを手に入れて、とても気に入っているようでした。庭に並べた物を打ったり、私に銃口を向けたりしていました。私が耐えかねて、親に「こんなに危ない物は避けといてよ」と、そのエアーガンを少し遠くへ投げました。すると「なめんなよオラ」という声とともに脇腹を思い切り蹴られました。「手加減しといたよー」とも聞こえましたが、呼吸できないくらいには蹴られていました。泣きながら入ったお風呂で母に「あのね、他人が大事にしているものを投げちゃダメ」と言われましたが、サッカー部で、手加減できるほど蹴り方が上手い人間が知ったかぶって暴力ではないと主張する方が意味が分からなかったです。母は自分の面倒ごとを減らしたいだけに見えました。

家で宿題のできない子供でした。帰宅してから大人たちが家に入るまでの自分にとって僅かな静かな時間を、たいして成績に苦労もしていない宿題の為なんかに使いたくなかったのです。父の前で笑うと、叩かれたり、怒鳴られたり、首を絞められました。全て父の機嫌が悪い時でした。私は「子供は3人産まなきゃ」という謎の価値観のおまけで生まれただけなので、持病もあり手もかかり鬱陶しかったのかもしれません。兄の臨月の時、祖母の命令で田んぼの草取りをさせられた事を母は今でも恨んでいるようでしたが、その後の出産で出血が多く死にかけたのに次の子供を作ったことが本当に意味が分からないです。

兄は、最初は親と並べて寝ている布団の中でした。小声で陰部を触ってほしいと頼まれたのは。そのすぐ後に、屋根裏に子供部屋が増築されたので子供部屋か、ゲーム部屋と化した応接室の中で内容も回数もエスカレートしていきました。今でも自分の身体が汚れている感覚が取れません。行為をやめたのは、兄がし始めた頃の年齢に私の年齢が追いつきそうになった頃でした。このことについて、私が被害者であると知ったのは、学校の近くで拾ったエロ本を男友達と読んだ時でした。一度、祖母に目撃され、怒鳴りながら入ってきたことがありましたが、兄の「お尻が痛いって言ってたから見てあげてただけだよ」の一言でお咎めなしとなりました。農家の長男じゃないから大事にされなかったんでしょうか。兄が生まれた時だけ、祖父母は母の実家を訪問し、お祝い金と子供用の裃付きの着物を渡し、「出産帰省から戻ってくる際にはこれを着てきて欲しい」と頼んだそうです。生まれながらに祝福されていた人間でした。死ねばいいのに、とは思いません。恨み続けている兄に何か不幸があると、少しだけ気が晴れるのです。

曾祖母が祖母の逆恨みからの虐待に耐えかねて家の堤で入水自殺しました。曽祖父が認知症の悪化で施設に入所していた時の事でした。当時の私は毒されていたとでも言うのでしょうか。家に誰もいないとき、祖母が食事をする曾祖母の横に立ち、一挙手一投足に文句を言い続けていた状況を、見ないようにしていました。
私が高校生になった頃、一度だけ兄は私を殴るふりをしました。悲鳴の一つでも期待されたかもしれません。拳が鼻先で止まるのを瞬きもせずに見ていた私に、兄は何も言わずに部屋を出ていきました。それ以来、兄には敬語を使われています。
嘘を吐いて結婚をし子供を儲けたことは幸せでしたか。嫁も子供も出て行った気分はどうですか。自分の虚言に耐え切れず、乖離性健忘症を発症できるあなたの逞しさに感服しています。これからも出来るだけ苦しんで生きてくださいね。

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