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幸多からんことを。

今日は親愛なる、そして敬愛なる大切な友人の誕生日。

彼女は誕生日は嫌いだ、と言っていた。

TLでもそっと背中に手を置いてあげたくなるような出来事が綴られていて、しかし干渉するのも違う気もして、いいねを押したのはついさっきのこと。

この世界─少なくとも現代日本─において、「誕生日」という事象は祝い事、つまりハレの日とされている。幸運にも自分は今年もさまざまな人から祝いの言葉をいただくことが多く、その節は本当にありがとうございました。

しかしながら彼女のように、「誕生日が嫌いだ」とか「誕生日を迎えるのが憂鬱だ」と言う人もこの世界には割といると思う、ある歳を過ぎると後は老いていくだけだから誕生日が嬉しくない、なんて人は割と散見される有名な理由だろう。

つまるところ、お祝いの言葉を伝えるのは、俺は少し違う気がした。しかし、苦難はあれど産まれてきてくれたことで俺と貴女がこうして出逢えたことは記念すべきことなのだと俺は思いたかった。

「自分の誕生日を好きでいなければならない」とか「いつか誕生日を好きになってほしい」とか、そういった類はこちらが傷つかずに、かつ顔色を窺わずに、絶対的に喜んでくれるプレゼントや言葉を与えたいがために、いわゆる常識をもってして理由づけする一種のエゴではないだろうか、と逡巡して、今日一日は「おめでとう」を言わないようにしようと決めた。

当たり前というのはこの世には存在しないし、相手の常識は誰かの非常識でもあるし、普通を押し付けて自らを正当化するのは、令和において一般的な帰属の誤りだと個人的には思っているので、尊重したい。

誕生日なんて大っ嫌いでいいんだよなぁ。

誕生日を迎えて嬉しくったっていいんだよなぁ。



今日も生きててくれてありがとう。

貴女と出会ったことで俺の人生はいい方向に変わった気がします。

明日もその先も、幸多からんことを願います。

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