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《意識》という「戦略」

もし、動物が生存するために、何らかの「戦略」を有しているのだとすれば、われわれ人類の「戦略」は、《意識》なのかも知れない。それは、認識を超えた、動物の複雑な機構に比べて、あまりにも粗雑かつ単純なために、その機構との連携において、様々な「失敗」を繰り返すのである。それを別の言い方にすれば、「経験」ということになる。そのように蓄積された「失敗」を、置換可能な「技術」にするのは言うまでもないだろう。《意識》が、適当に反応していても、そうではないことが、はっきりしていることがある。例えば、自転車に乗れるようになるには、《意識》を忘れなければならない。動物の反応/反射に任せなければならない。つまり、全く認識できない何かに依存しているのである。ともすれば、デカルトは、そのことを確信していたのかも知れない。コギトによって、思考の限界を内包している《意識》が、明晰判明であり、そのことを《意識》するのも「明晰判明」である。という、内面に循環する困難を、回避する手段を講じたのだと考えられないだろうか?

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