光学的である、ということ。

フェルメールによって、純粋な光学状態から、絵画が可能になることが示された。それと、ほぼ同時に、西欧の絵画は、光学的秩序から逃れられなくなったと考えられる。それが関連しているかどうかは別にしても、人類最後の東洋的、絵画様式の開拓であった『夷酋列像 』が、フランス・ブザンソン美術考古博物館所蔵となっていることは、頷ける。というのも、俗耳に響く「浮世絵」や「ジャポニズム」の「影響」を超えて、モネの「印象 日の出」は、カメラ/光学的な、呪縛から解き放たれた歓喜に満ちているからである。つまり、古代的な様式の洗練という方法が、奇跡的に極東の絵師たちの手に残っていたのだ。「光学/レンズ」的に集光された「光」からの帰結を凌ぎ、まだ、絵画に可能なことがあったということの喜び、そこに印象派の基体があるのではないだろうか。

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