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かわいいを纏うことを許した日。

物心ついたころから周囲に押し付けられる「おんなのこらしさ」というものに反発してきた。一番古い記憶を掘り起こせば、幼稚園年中の頃には「(青と赤があるけど)女の子は赤を持って」という先生に対して怒りの感情を抱いて反抗していた記憶が思い出される。まだ黒と赤以外のランドセルを背負っている子が全学年で片手で数えられるほどしかいなかった時代に深緑のランドセルが欲しいと思っていたが、伯母が赤いランドセルを買ってくれて非常にがっかりした記憶もある。グループでの習い事をしていたので発表会などでは着ざるをえなかったが、可愛いワンピースなどもあまり着てこなかったように思う。小学六年生ごろにジャンスカを着たら珍しさから友達に騒がれた記憶があるのでそうなんだろう。
この頃は「おんなのこらしい服は着たくない」と思っていたはず。

そして中学生になるにつれてむくむくと太り驚くほど不細工に成長する。当時の写真を見た時、家族どころかわたし自身でさえ自分がどこに写っているのか見つけられないほど現在のわたしとは別人の姿だ。あまりにも違うので笑ってクイズに出してもいいくらいである。見た目の変化により周囲の態度も変化して、軽くちょっかいをかけられるようになった。内容を話すと「イジメでは…?」とよく心配されるが、イジメにカウントしていない。わたしに構ってもらいたかったんだな、めんどくさい奴らめ!と思っていた。ちなみに黙ってやられているタイプではないので安心してほしい。口も手も足も出る子どもだったので、ちゃんと撃退して、そのあと関係は修復している。
ちょっかいをかけてくる奴らはまだいいのだが、やはり周囲の有象無象の態度があからさまに異なるのを様々な場面で感じ取るので、段々と俯いて過ごすようになっていた。この頃が一番鏡を見ていないし、写真も残っていない。
当然(※)かわいい服など似合わないので「わたしなんかがかわいい服を着られるはずがない」に変化していた。
※見目が良い人だけがかわいい服を着ることを許されるということではない。当時の自分はそう思い込んでいたという話である。

高校は女子校を選択した。親の転勤により複数の中学校へ通った経験から、共学へ進んだら見た目のジャッジによって酷い扱いを受けるだろうなと思ったのも理由の一つだった。この選択は正しくて、中学三年間で知らぬ間に傷ついていたわたしの自尊心は少しずつ回復していく。修学旅行の部屋割りを誰と一緒になってもいいからいっそくじ引きで決めようというほどクラスみんな仲が良くて、三年間楽しかった。
この頃ロリィタファッションと出会うが、「似合わないからダメ」と親の許可がおりず眺めているだけであった。校則によりアルバイト禁止なうえお小遣いも少なかったため、洋服は親に買ってもらっていて、そのため許しが出たものしか買ってもらえなかった。けれど本当に着たい系統の服は買ってもらえていたのでそこまで不満はなかった。
「かわいい服は似合わないので着てはいけない」に変化していた。

そのまま大人になった。自分で洋服を買えるようになっても、やっぱり「かわいい服は似合わないので着てはいけない」ものだった。特にワンピースである。スカートやジャンスカは大丈夫になってきたが、膝丈フレアワンピースはおんなのこの象徴だった。相変わらず見目は良くなかったので、要約すると老けているだとか、かわいい子の引き立て役だね、と複数人に言われるなどしていたが、まあそれは事実であったから言ってきた人を責めるつもりはなく、当然だと思って受け止めていた。今思うとまた知らぬ間に傷ついていた時期だった。
いわゆる「モテ」を嫌悪するタイプで、好きな人に振り向いてもらいたいから「おんなのこらしく」着飾るなど以ての外(そんなことでこちらを振り向く奴はキライだし、着飾ってなお見向きもされないのは余計にみじめに感じる)だったので、恋愛漫画のようにチャレンジするタイミングもなかった。

それでも特にかわいい服に対して我慢しているつもりはなかった。かわいい服は眺めているだけで満足だった。だってずっとそうやって過ごしてきたから。
ところがある日、もうこれは十年近く前のことなのではっきりとは思い出せないが、TwitterのRTか何かで回ってきたあるブランドの新作コレクションの画像を見て気持ちが変わった。

地面に横たわった物語のワンシーンのような写真。
(衣装のようにかわいらしい。これを日常で着られるんだろうか?)

胸下切り替えのフレアワンピース。
(痩せていない自分の体型では似合わないに決まっている)

薄紫に見えるような灰色のストライプ。
(かわいい紫の服なんか着たことない、きっとこの色は似合わない)

白地に小さいドットのセーラー襟、ウエストには同じ布のリボン。
(セーラーにお腹のリボンなんて、二十歳前後ならともかく、もう年齢的にアウトでは?)

即座にたくさんの否定の言葉が脳裏に生まれる。それでも、その言葉たちを掻き消す勢いでそのワンピースがどうしても欲しかった。何がそれほどまでに自分の胸を打ったのか、いまもよくわからない。それでも、それまでに見た洋服たちの中で一番かわいい服だった。そのブランドの服は以前にもネットで何度か見ていたが、かわいい子のための服だな、と眺めているだけだった。でも今回ばかりはじっと画面越しに見ているだけなんてできなかった。
どうやったらそのワンピースを購入できるのかすぐに調べたところ、複数箇所で開催される予約会で購入できるようだった。その中に自分の誕生日が含まれる期間があった。その日ならば店頭に行ける。
しかし、どうしても欲しいと思いつつも、大前提として「かわいい服は似合わない自分」がいる。試着しても似合わない自分が容易に想像できる。似合わなくてショックで落ち込むことも容易に想像できる。試着は諦めて、ひとめ見るだけでも予約会に行ってみようか?他のお客さんが若くてかわいい人たちばかりで、ひとり浮いていたらどうしよう。ぐるぐるとマイナス思考に襲われながら日々を過ごす。とりあえず、見るだけ。見てみるだけでも行ってみようと決めて、予約会の当日、自分の誕生日に、意を決して店頭へ向かう。
想定していたよりもお客さんはまばらだった。その数時間後にデザイナーさんが来店する日だったので、どうやらそのタイミングを狙って来店する人が多かったようだった。ラックにかけられている例のワンピースをじっと眺めていると店員さんに声をかけられる。普段は店員さんから逃げるように服を見てまわっていたので、慣れない会話に若干おどおどしつつ「かわいくて、気になって来てみたんですけど。でも似合わないだろうし、見るだけ…」と伝えると「そんなことないですよ!試着してみましょう!?」と勢いよく返ってきた。接客業なのだからその返しは当然である。これはこちらが強制的にそう言わせたに等しい。でもそう言ってもらえたのでなんとか試着室に挑むことができた。
灰・紺・黒の三色展開だったので、自分にとって最も無難な色である紺色と、一目惚れした灰色を試着させてもらうことにした。どきどきしながらもぞもぞと着替えて、意を決して鏡を見る。

意外と似合った。しかも、紺色より灰色の方が。

そう、意外と似合ったのである。安心よりも驚きの方が大きかった。
そしてバチッと音を立てて思考のスイッチが切り替わる。
わたしはこの服を諦めなくていい、このかわいらしいワンピースを着てもいいのだと気づいたのだ。
別に、そのワンピースを着た鏡の中の自分が完璧なわけではなかった。服に恥じないようにもう少し雰囲気に合わせた化粧をしたくなったし、髪型ももっとベストな長さがあるはずだし、膝下のラインもスッキリさせたい、あぁ、とにかく、このワンピースに恥じない自分になりたいと思った。この、自分の見た目から派生する自信のなさを少しでも払拭して、胸を張って歩きたいと思った。下を向いて歩くなんてこの服に似合わないと思った。そしてそれらは全部、これから自分次第で変えていけることだった。

着てもいい、とはわかったものの、長年自分で自分を縛り付けていたため踏ん切りがつかず、試着後に店員さんにあれこれ相談しながら悩みになやんで、無難な紺色ではなく、どうしても欲しかった灰色を予約した。
そうして、指をくわえて眺めているだけのはずだったものが、手に入った。
洋服に対する気持ちが、自分の外見を諦めて荒んでいた気持ちが変わった日だった。


その日わたしは自分で自分の一番かわいいものを選びとって、ずっと遠ざけていた「かわいい」と和解したのだった。


「かわいいなんて、だいきらい!」
着せられていたものと、仲直り。

女の子が生まれたときから押し付けられる、
いわゆる可愛らしさ、女の子らしさといった社会からの”縛り”への
反骨精神がブランド創業の根底にあります。
お仕着せの象徴的な「制服」というモチーフを使って、
年齢、性別、国籍をも飛び越えてしまえるような、
普遍的で自由な可愛らしさ、美しさを持ったスタイルを楽しんでいただければ幸いです。


http://girls-otome.com/exhibition/2014SS/neb-aaran-do.html


このワンピースはわたしと一緒に棺桶に納めると決めている。



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