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やまびこ

 大学の授業だか、高校の倫理だかで学んだことの一つに、印象深いものがある。自己の存在確認と、アイデンティティの形成の話だ。
 要は他人がいることで初めて自己を認識することが可能になる、自分以外の誰かがいるから、自分を認識できる。人との関わりで、自分と自分以外の差異を知覚したり、取り込むことで、自己が形成されていく。当然のことではあるのだが、この話を聞いた時に何故か少しハッとして、腑に落ちて、希薄な大学生時代の記憶のなかで、何故か輝いている。

 だれかに向けて「よう」という、「おう」と返事が返ってくる。返事が返ってきたことで、自分と他人の情報が整理される。言葉の力は偉大だ。ただ相手と自分の差異を知覚させるだけではなく、時にはそのまま自分に取り込まれていく。というか毎日、ほとんどは自分に取り込まれ、自分の一部として再構築され続ける。外部から渡されたパーツを常に循環させているそれは、果たして本当に自分なのだろうか。昨日までとは全く別の語彙、考え方を持つ自分は、同一人物と、言えるのだろうか。恐ろしい話だ。

 阿部共実の漫画が好きだった。だった、というよりは現在進行形でもちろん大好きなのだが、数年前に抱いていた、あの狂ったようなあこがれや愛情、新刊を待ちわびるあの気持ちがすっぽり抜け落ちていることに気づいたのが、つい先日。少し怖かった。なんだか自分が空っぽになった気がした。
働きたくなかったから、何かを作りたかったから、面白い漫画を描きたかったから、もはや原初の理由の今しがみついている理由すらも思い出せないが、とにかく漫画に必死になっていた時期がある。よりよいものを作るため、ひたすらにインプットと称して漫画を読み続けていた。良かった作品、悪かった作品、なぜ良かったか、なにが印象に残ったか、どこが気に食わなかったか、自分ならどう片をつけたか。そんなことを考えながら、半ば狂乱状態で、もはや漫画が好きで読んでるんだか、試験勉強をする学生の様に、対策と傾向を把握するために読んでいるんだか、自分の無力さを自覚するために読んでいるんだかすら見失い、ひたすら読み、記録に残していた。
読書もまた、自分と外界を隔てるための行為である。作品から受ける感覚を反射したり、取り込んだり。ことその感覚を記録する行為は、より深く自分の中にそれを刻みこむことに他ならない。純粋に趣味嗜好で選んでいた作品から手を広げ、目についた読み切りや世間で面白いとされる漫画に食指を伸ばしてみる。その感想を綴る。そういう行為を続けた結果、どうやらこの数年の自分というものが変化、あるいは摩耗してしまったようで、平たく言えば感受性の方向がねじれてしまった(歳のせいもあるかもしれない)。一昨年、去年、昨日までの自分と明らかに違う。砂糖菓子の様に煌めく言葉の数々、存在しないのに、まるで自分の記憶を追体験するかのような場面、明確に尖った演出、モノローグ、セリフ、表情、効果音の一言一句を追いかける気持ちはどこかに行ってしまった。自分の型をみつけるべく、作品を摂取し、ラベリングを行い、型にはまってみるという行為の中で自分にとって一番大事なものを失くしてしまったのかもしれない、と思った。絶望だ。

 「児玉まりあ文学集成」を読んだ。絵が抜群に好きなわけではない。セリフ回しは美しいが話はやや難解。作者のエゴを煙に巻いているようで、確実に万人受けするような内容ではないことは明らか。でも、美しかった。
シンプルな線の集合で描かれるヒロインは時折、世間にあふれる描きこまれたどんなイラストよりも美しく。泡沫のようにたゆたうセリフの数々は飴細工のようにはかなく、きれいで。その物語は、手に届きそうで、やっぱりとどかない距離感で、心になにか大事なことを訴えかけている。
 初めて阿部共実作品を読んだときと同じくらいの、感情の起伏が起きるのを自覚した。あぁ、こういう作品が好きだったんだな、描きたかったのだろうな、と自分のことなのに、まるで故人を偲ぶような心持ちになった。

 ここでまた、レッテルやラベリングを行うのはまったくもって不適切で、それ以上の思考を放棄することに他ならないのだが、あえて言うならばやっぱり「コミティア系」の漫画が好きなのだろうな、と改めて思う。万人受けのチューンナップはなされていないが、そのガラスのような繊細さで、届くべき人にはかならず深く刺さって抜けなくなる。冷静に、炎が揺らいでいる。

 私もそうありたいな、と思いながら気合を入れてキャンバスに向かう。
 しかし、祈りは無下に、砂のような日々が過ぎ去る。
 あと何年これが続くだろうか。
 いつまで今日思い出した鍵を置き忘れずにいられるだろうか。
 日が明け、眠りから覚めた私は、やっぱり昨日とはまったくもって別の存在だろうな。

浴室の鏡で、自分が想像していたよりもはるかに老いて、だらしなくなった体を眺めながら、そんなことを考えていた。


(2026文字)


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