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プロデューサーはペテン師か?

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九州、大分、日田。田舎に暮らしつつ、全国で多様な分野のプロデュース。そんな日々の問わず語りを13年、1300話以上のブログを書いてきた。noteにも徐々に新旧記事を転載中。htt…
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#デザイン

習いと学び。 2019.7.29

他人様に教えるなんて、消え入りたいくらいおこがましい心持ちになる。まずこれが前提。でも、振り返って見ると、曲学阿世の身ながら、あっちで喋り、こっちで話し、教師としての仕事がとても増えている。そんな中で想うことがある。突出した人材は育てられるか? こんな人材がこんな才能がもっといればと、世には教育によって計画的に望む人材を育成しようとする傾向がある。こうした情動は、古今東西繰り返し現れる。でもどうだろう?一定のプログラムを履修したら、自動的に画期的人材がそこに立ち現れるなら最

コンペの冷や汗。

コンペティション。競争入札と言うヤツ。価格だけを比べるものとか、企画内容を比べるプロポーザルとか、いくつかのパターンがある。コンペは、自治体の仕事に多い。競わせていいアイデアを得るだけでなく、公平性の担保に重宝される。でも、なんだかなあ。 一見合理的のようだが、実はそうでもない。コンペ受けするアイデアというのがあるからだ。地道なアイデアが最善と思っても、ライバルが派手な提案をするのなら、負けては意味がないので、つい飾ったアイデアを盛り込んだりしがちだ。どの業者に依頼するのが

脱線教室。

20年程前から福岡のデザイン専門学校で、数年前からは大阪の芸術系の大学でも教壇に立っている。一度も習ったことがないことを、他人様に教えているという不思議はともかく、例によって、王道からは外れたちょっと変わった授業をやっている。白熱ならぬ脱線教室。 そもそも専門学校では、生徒のアタマの中を掻き回して欲しいとのオーダーだったし、大学はデザインプロデュースという造型から若干距離を置いたレクチャーだし。教科書で読めるような内容を授業で話すのはもったいなさ過ぎる。また、純粋なデザイン

破調と余白。 2018.9.8

感覚の復権は、僕の中ではここ数年の大テーマだ。過剰な数値化、それ以外の無謀な切り捨て。冷徹な合理性に見えて、実は未熟な科学に止まっているような気がしてならない。その違和感を伝えたくて、さまざまな表現を探っているのだが、今回はこの言葉に辿り着いた。 破調は、安定したリズムの中の心地よい乱れとも言うべき何か。余白は、空きスペースをいたずらに埋めることなくそのままにした空間的余裕のごとき何か。破調は、崩しという言い方もできる。整いすぎることの退屈。乱れが産み出す色気。余白は、遊び

料理はデザイン。 2018.8.1

料理はまさにデザインそのもの。僕があちこちでばらまく繰り言のひとつである。まったく同じ食材が、料理人の見立てと技術によって、実に多様なメニューに変化する。デザインの本質をこれほど言い表せる切り口はない。ここが豊かだと、僕らの人生も豊かになる。 20代終盤は料理をしていた。いまから1年半ほど前から、また料理をしている。逆単身赴任が理由だが、昔とは状況が違うので、また新たに食事のパターンを考える必要があった。日々買い出しなんてできないし、その中でできるメニューを捻り出した。これ

クリ旅00回。 2018.4.21

クリ旅。「クリエイティブは旅に出よ」の略。きっかけは飲み会だった。酒場で盛り上がると電話魔になるDさんが、話題に出た人気デザイナーをコールしたのが具体化の発端。もっとも、テーマそのものはここ数年、僕のアタマの中でずっと転がっていた素材だった。 これだけ世の中にあまねく存在する方法論にも関わらず、クリエイターが社会システムに組み込まれているケースがとても少なく思える。クリエイティブが前提、あるいはクリエイター参加が前提となるプロジェクトがもっと多くてもいいのではないか。なにも

2人の美女。 2017.8.6

何をもって美女と言うか。僕は、造作よりも表情。スタイルよりも立ち居振る舞。さらに、キャラ、哲学、生き様といったあたりの総合的魅力を美女の基準としている。すると、年齢や職種、在所に関係なく、美しい方々と出会うのである。思い浮かぶあの顔この顔。 先頃、福岡市の大濠公園で毎日曜日開催されているユニオンマーケットに、小さなコロッケ屋がブースを出した。山の牛蒡コロッケ。昨年から通っている福岡県広川町のプロジェクト、ひろかわ新編集のサポートで出店にこぎ着けた案件だ。これを担い、牽引して

行政とデザイン。 2017.7.7

いつも多分野のプロジェクトが動いているが、僕は必ずそこにクリエイティブの導入を心がけている。一般には、デザインと呼んだ方がわかりやすいかも知れない。人は誰しも、感覚で生きており、そこに働きかける表現手法が、デザインを含むクリエイティブだ。 世界のコンサルタントの間で、デザイン思考という概念が広まったりしているものの、数値化が困難なクリエイティブは、いまだ社会の中心でオーソライズされているとは言い難い。なかでも行政は、その傾向が根強かった。写真は、昨年から取り組んでいた日田市

司会はライブ。 2017.6.25

いつ頃からだろうか。人前でお喋りすることが、仕事の一部になっている。デザインの専門学校で教壇に立ったのは、もう20年も前だ。強い縁でそうなったのだが、自分の考えを整理するんだとか、教えるんじゃなく学ぶんだとか、なんとか理由を探してみたものだ。 最初は、とてもとても緊張した。それまでは、人前で喋るのは非常に苦手だった。聴衆が10人を越えると、心臓バクバク、心ここにあらず。ただ、それは徐々に解消され、慣れていなかっただけであることに気付かされる。いまや、講義の他に、ファシリテー

続・暖簾づくり。 2017.6.10

先日、暖簾づくりと題して、ブランディングについて持論を書いた。ごくごく基本的なことだけを述べたので、もう少し書き込んでみる。ブランディングは、他所からやってきた新しいアイデアでもなんでもなくて、古今東西どこにでもある商売上の「信用」のことだ。 そして、この信用を構築することをブランディングと呼び、日本では暖簾づくりと言う。この商品なら安心、あの店なら間違いない、といった確かな信用をどんどん盤石にしていったらどうなるか?何度も買ってくれる顧客が増え、商売はより堅実になる。その

連続講座。 2016.12.25

時はクリスマス。仏教徒の家に育ったが、サンタのようなこともする。 今年もMEBICの5週連続講座が終わった。昨年の冬の終わり、同じ年の秋。そしてこの初冬が3回目。過去の2回は、25名の定員を大幅に超えて、倍の50名にしてもキャンセル待ちが出るという、にわかには信じがたい人気講座となったが、今年もまたまたお声掛かり。 講座タイトルは、「総合デザインとプロデュース」。僕の仕事、プロデュースは総合デザインをもって実現が図られる。誰かに師事することもなく、無手勝流で積み重ねてきた

メディア弁当。 2016.12.9

日田はモミジの終盤。地表を赤く染めるもの、いまさら黄色に染まるもの。 日田きこりめし弁当が、また賞をいただいた。ウッドデザイン賞2016とそのコミュニケーション部門奨励賞。少し前には、Forest Good2016~間伐・間伐材コンクール~で、間伐推進中央協議会会長賞もいただいていいる。たかだか、880円のいわゆる弁当なのだが。 ヤブクグリが結成されたのが2012年。その翌年には、日田きこりめし弁当は誕生している。多少なりとも、活動資金の足しにと、首謀者牧野伊三夫の発案を

段取り八分。 2016.5.28

薄陽から薄曇り。朝晩は涼しいが、日中は半袖に頼りたくなる。 職人などの世界では、俗に段取り八分という。仕事の8割は、準備や仕込みで決まってしまうことを言い当てた至言。この指摘は、限られたジャンルに止まらず、我々の営みのほぼすべてに通用するだろう。ただ、その本質は作業ではなく、思考ということになる。 奇遇にも、僕はデザインについても、類似のことを言い続けていて、その付合に膝を打ったことがある。デザインワークの80%は思考だと。分野を超えて、こうした原則が導き出されるのは興味