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プロデューサーはペテン師か?

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九州、大分、日田。田舎に暮らしつつ、全国で多様な分野のプロデュース。そんな日々の問わず語りを13年、1300話以上のブログを書いてきた。noteにも徐々に新旧記事を転載中。htt…
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#暮らし

手描き復活。  2021.3.17

ずっと気になっていた。PCを触り始めてもう何年になるだろう?いつのまにやら作文は、ペンと原稿用紙ではなくて、キーボードとモニターの作業になってしまった。筆と和紙が、万年筆と洋紙に変わったような、いわゆる道具の変遷とは少し違う。いや、だいぶ違う。 決定的に異なるのは、一部の脳の不活性だ。端的に言えば漢字を忘れる。これはもうおぞましいばかり。教員などをやっていると、板書の機会が少なからずあるが、ボードに向かったまま手が止まる。かつては、反射的に手が動いていたが、動かない。改めて

技術の手前。 2021.3.12

タイトルを、「情報の手前」にしようかとも考えたが、言いたいことはこちらにもっと近いなと思い、技術の手前にしてみた。情報も技術も、何の前触れもなく忽然と現れるわけではなくて、情報は探している人が見つけ、技術は求めている人が引き出すと思っている。 こんな情報があればいいなとか、あるんじゃないかとかいった感覚。または、こんなことできたらいいなとか、できるんじゃないかといった妄想。超然とした夢物語ではなく、情報であれば微かだがボンヤリ見えているような、技術なら図面は描けないけど恐ら

毎朝の味噌汁。  2021.3.5

ほぼ毎朝、朝食を作っている。数年前の逆単身赴任がきっかけで、元の暮らしに戻っても、なぜか僕の役回りになった。簡単なオカズを作ることもあるし、女房様が拵えた作り置きが出ることもあるが、味噌汁は必ず作る。いろんな野菜を具として、すり味噌を溶いて。 以前は、インスタントも試したが、やはりちゃんと作るに勝るものはない。ただ、味噌漉しが面倒だった。片付けが。そんなことを考えていると、すり味噌という商品もあるではないか。米やら麦やらの繊維質が、ごっそり捨てられる違和感もあって、試してみ

半年ボーナス。 2020.10.12

遂にその日がやって来た。長男の旅立ち。ほぼ1年前にも似たような状況があったっけ。そのときの行き先はオーストラリア。半年の語学留学。水泳のスポーツ推薦で入った高校では、3年間水泳しかしなかった。そんな学力で大学を選ぶなんて馬鹿げてる。てなわけで。 いや、わかってる。自ら子どもは所詮旅人だと昔から言ってきた。子どもは、どこからともなくやって来て、必ず旅立っていく。引き留めようと思ったことは一度もない。どころか、早くから海外に出そうと考えていた。オーストラリアは、刺激的な体験だっ

川キリギリス。 2020.10.5

釣り人はいつも魚泥棒だ。年柄年中、川や海にいる魚を釣り上げることばかり考えている。僕はもう40年来の川の釣り人で、大きなヤマメやアユを一匹でも多く釣り上げることに没頭してきた。何よりも釣りを優先し、少しでも川に居ようと悪だくみを絶やさない。 仕事が一段落したらなんて考えない。時間は作るものだし、スケジュールはこじ開けるものと心得ている。他人様が働いている最中に、のうのうと竿を出す。イソップ寓話のアリとキリギリスよろしく、労働に勤しむ人々を尻目に、生産性のない遊びに精を出して

日常と足下。 2020.9.28

詰まるところ、大事なことはそこだろう。非日常のお祭りではなくて。いつか行ってみたい遠い外国ではなくて。繰り返される日々と、僕らが立っている足下。そこをかたちづくっていくことこそが、何よりも確かな未来を導くのではあるまいか。確信は強まるばかりだ。 地域系のプロジェクトをいくつもやってきた。やればやるほどはっきり見えてくることは、宝は常に足下に埋まっているということだ。ただし、それはあくまでも原石で、磨かれればという条件が付く。すべてのローカルがそのままで素晴らしいわけではない

茶室憧憬。 2020.9.21

茶室のような空間に住みたいとずっと思っている。極小で、シンプルで、そぎ落とされた質素な美しさを備える住まい。ル・コルビジェのニースに近いカップマルタンの別荘、カバノンを知ったときは、洋の東西を問わず、突き詰めればそこなんだと合点がいった。 ここで言う茶室とは、あくまでも比喩であって、本当の茶室仕様の空間を指しているわけではない。例えば、そこには超高速のWi-Fiが飛んでいるし、机の上には一冊の薄いPC。水屋はコンパクトな厨房で、食事は小さなカウンター。シャワールームとトイレ

読書は交際? 2020.9.14

僕はずっと、読書は対話だと言ってきた。著者の言説を聞き、そうかあなたはそう考えるのか、翻って僕はどうだろうと自問自答を繰り返す。本の種類にもよるが、多くは著者の思想や世界観が露出するわけだから、結果そんな展開になる。対話は延々と続いている。 先日、松岡正剛氏の人気企画、「千夜千冊」の秘密を語るとするオンライン講演があった。その窓口サイトにあったフレーズ。読書は交際。松岡氏の洞察と考察の深さ広さは、その質量で常に僕を驚かせるのだが、実はこの知の巨人は、その表現力においてもあり

鈍亀の如く。 2020.9.14

そろそろ6年目に入る。ジョギングの話だ。まさかこんなに続くとは思わなかった。走るのは、登山と同じくらい嫌いなのに、登山はここのえ低山部をずっとやっているし、ジョギングはこんなことになっているのである。人生は楽しく哀しく、ときに不可思議だ。 散歩は毎日しているが、それだけではやはり衰える。ジムに通った時期もあるが、もっとシンプルで継続が可能なスタイルを探していた。理屈で突きつめて行くと、どう転んでも下半身と心肺機能の強化が必須になる。逃げようにも代案は見出せなかった。背中を押

真夏の昼休み。 2020.8.12

そもそも昼休みなんて概念がない。始業も終業もそうだ。曜日も仕事関係のやり取りで意識することがあるくらいで、自分の中では平日か休日かの区別程度。起きてから寝るまで、仕事は常にしてるし、一方でクライアントが絡む打合せや会議以外はいつでも休みになる。 これが夏になると、昼休みは特別な意味を持つ。3月から5月迄は、僕の関心事はヤマメ釣りだが、気温が上がる6月以降は対象はアユに変わる。筑後川が貫流する大分県日田市は、全国的なアユの名川でも知られる。朝夕にピークが来るヤマメと違って、ア

コロナは啓示? 2020.4.19

まずます深刻化するこの問題については、1回の投稿ではとても足りない。「コロナは摂理?」の続き。今回の騒動は、いくつかの象徴的な特徴を持っている。これまで、人類が積み上げてきた主要な方法論が、通用しなくなっている。このままじゃダメだよと。 そのひとつが、誰かのせいにできず、すべての人に等しく害が及ぶ可能性があること。近代は、政府や行政に対して要求が集中し、結果複雑な状況を生み、社会的コストを引き上げた時代だと感じているが、今回の発生と広がりについてはその限りではない。他人の中

鍋とリール。 2020.1.7

料理をすることが増えた。我が家の事情でそうなったのだが、それが日常になってくると、いやでもスキルは上がる。味噌汁を作る鍋、炒め物などをするフライパン。鍋類で多用するのは、だいたいこのふたつ。鍋はともかく、フライパンは片手で振り回すことになる。 パスタなどは、茹で上がった麺を、具を準備したフライパンに投げ込み、一気に和える。その時、フライパンは左手で保持、右手で菜箸を操るのが相場。卵焼きも、溶き入れた卵を右手の箸で返しつつ仕上げていく。勢い、フライパンは左手で操るのがやりやす

2020 謹賀新年。 2020.1.1

年が明けた。この朝、大分日田は雲ひとつない快晴。二度寝で大寝坊し、完全に陽が上がっての散歩となった。大晦日夜更かしの妻子はまだ白川夜船。そっと家を出た。あちこちに霜が残っているが、気温はにわかに上昇中。境内はすでに大勢の初詣客で賑わっていた。 今日くらいは参拝をしよう。100円玉の賽銭を投げて、ガラガラを鳴らし、二礼二拝一礼をしたら、干支の鼠の置物を買って帰宅。屠蘇を飲み、お節を食べる。そうそう、今日は僕の64回目の誕生日でもある。友人が焼いたチョコケーキに蝋燭を立て、型ば

ある夜の旅。 2019.12.5

それは突然だった。セルモーターが回らないのだ。釣り仲間の忘年会で、阿蘇の産山村に一泊した翌朝。帰路、ホットコーヒーを啜りながら帰ろうとコンビニに寄った直後。日田に戻り、ジョグをして大阪に発とうと思っていたのに、すべてが崩れた。一寸先は闇。 ロードサービスのお世話で日田に到着。ギリギリの時間で高速バスに乗り、無事大阪へ着いた。プロ向けの講座や大学の授業で2日を過ごし、いつものさくらで新鳥栖駅まで帰り着いたら、某案件で八女へ。同行する懇意のデザイナー氏にクルマでお迎えをお願いし