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プロデューサーはペテン師か?

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九州、大分、日田。田舎に暮らしつつ、全国で多様な分野のプロデュース。そんな日々の問わず語りを13年、1300話以上のブログを書いてきた。noteにも徐々に新旧記事を転載中。htt…
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2019年8月の記事一覧

忙殺の理由。 2019.8.12

僕らは、いまや週休2日が当たり前になり、労働から解放されているように言われているが、本当にそうだろうか?世間を眺むるに、仕事にまつわる作業って、どんどん増えているように思えるのだけれど。50年前に比べ、果たして僕らは自由を手に入れているか。 間違いのないように、あるいは仕事をした証として、膨大な資料が作られる。公共事業に至っては、山脈のような報告書の話を側聞することがある。えっと、こんな感じで、はいはいではそれで。なんて応酬はあり得ないらしい。いいじゃん、期待する結果が出れ

職漁師誕生。 2019.8.5

ずっと釣りが本業とうそぶいてきた。ヤマメのフライフィッシングは今季が39年目。鮎の友釣りは、今季が13年目。一生幸せになりたければ釣りを覚えろと喝破した中国の古諺を引き合いに出すまでもなく、釣りを知らない人よりはきっと幸福なんだろうと思っている。 ただ、永年大赤字なので、バイトでプロデュースをしているともふざけてきた。もう漁師ですね、なんてくすぐられると、隙だらけの笑顔を振りまいていた。僕には鮎釣りの師匠がいるが、彼らの周辺は釣った鮎を活かしたまま、日田の料理屋や旅館に卸し

習いと学び。 2019.7.29

他人様に教えるなんて、消え入りたいくらいおこがましい心持ちになる。まずこれが前提。でも、振り返って見ると、曲学阿世の身ながら、あっちで喋り、こっちで話し、教師としての仕事がとても増えている。そんな中で想うことがある。突出した人材は育てられるか? こんな人材がこんな才能がもっといればと、世には教育によって計画的に望む人材を育成しようとする傾向がある。こうした情動は、古今東西繰り返し現れる。でもどうだろう?一定のプログラムを履修したら、自動的に画期的人材がそこに立ち現れるなら最

常識を脱ぐ。 2019.7.23

常識に囚われてはいけない、などと言う。一方で、そんなの常識でしょ?とも言われることもある。常識から本気で自由になると不自由なことも多々。常識とは、生きていく上で覚えておくべき社会的なルールや作法でいながら、その中に住むと不便で退屈なことがある。 学生たちには、常識の手前にいるのは非常識に過ぎず、そこを超える超常識であれと言っている。知った上で、無視する柔軟さと強さがあるか否か。プロデュース業でなくとも、仕事の多くは課題解決がその本質だが、普通の生活を行うために必要な常識が、

テレビの時間。 2017.1.24

30代の頃までは、いわゆるチャンネルフリッパー、次々と面白そうな番組を渉猟していた。それが、いつの頃からかさっぱり興味が持てなくなって、スポーツイベント以外はテレビを付けなくなっていた。ネットの普及もあったと思う。家族団らんもテレビは消えたまま。 それが、昨秋から始まった2拠点生活のお陰で、僕は逆単身赴任状態が普通となり、誰もいない家に戻ってきたり、話し相手のいない食事などをすることが圧倒的に増えた。すると、僕は無意識にテレビを付けていたのである。ラジオがないのも手伝って、

呼吸の深さ。 2017.1.16

新陳代謝。栄養摂取と排出。学習と見識。インプットとアウトプット。さまざまな出し入れには、ストロークに長さがある。浅く小さな呼吸のとき、僕らの心身は悪循環を起こしている。自分で寝息が聞こえるような夜は、僕らのカラダは心地よく疲労を脱いでいる。 情報にしても、現代ほど浅く広く、容易に多様な情報を手にできる時代はなかった。ソースに直接当たることなく、見知らぬ誰かに編集加工された情報を居ながらにして見ることができるのは、こそばゆい便利さと薄ら寒いような危険に満ちている。一方で、じっ

紺屋の白袴。 2017.1.8

仕事では、口酸っぱく「情報発信ほど重要なものはない」「更新しないサイトは開店休業の店と同じ」「ブログ更新は最低週一以上」などと、クライアントにしつこく言い続けてるこの僕が、さあどうしたことか、昨年くらいから、ブログ投稿に息切れが目立つのだ。 FBもインスタもやっているから、すべての情報発信を怠けているわけでもないんだが、まあ紺屋の白袴、医者の不養生と言われても仕方がない。かと言って、現在の4日に1度の更新ペースも維持は明らかに難しい。型にこだわりすぎるのも滑稽。ここは思い切

2017 謹賀新年。 2017.1.1

濃霧と霜の元旦。境内を抜けるとき、参拝客はまだまばらだった。 年が明けた。2017年の初日、僕は61歳になった。30歳以上の自分が想像できなかった20代の頃、まさか自分がこんな老いの領域まで生きながらえるなんて、思いもしなかった。到達してみれば、肉体はともかく、気持ちは高校生の時と、ほぼ変わらない自分がいる。 とはいえ、長いような短いようなわが人生にも、大小の出来事が積み重なり、いつの間にやら身過ぎ世過ぎを覚えてしまった。仕事もまた、思うままに、考えるままにやってきた。修

淡路再訪。 2016.12.29

大分別宅から朝一で日田へ。立ち寄ったPAから見る別府湾が美しかった。 久々に淡路へ行った。この春までスーパーバイザーとして関わっていた淡路はたらくカタチ研究島。厚生労働省の雇用創出事業を活用したプロジェクトのその後を見に来た。大阪MEBICの5週連続講座の最終回に合わせ、前日に淡路入り。懐かしい面子に再会した。 同じ事業は、これまでいくつかプロデュースをしてきた。基本3年間の期限付き事業で、長くとも2期6年。そしてほとんどの事業は、どれほど成功していようが継承はされなかっ

連続講座。 2016.12.25

時はクリスマス。仏教徒の家に育ったが、サンタのようなこともする。 今年もMEBICの5週連続講座が終わった。昨年の冬の終わり、同じ年の秋。そしてこの初冬が3回目。過去の2回は、25名の定員を大幅に超えて、倍の50名にしてもキャンセル待ちが出るという、にわかには信じがたい人気講座となったが、今年もまたまたお声掛かり。 講座タイトルは、「総合デザインとプロデュース」。僕の仕事、プロデュースは総合デザインをもって実現が図られる。誰かに師事することもなく、無手勝流で積み重ねてきた

言葉の旬。 2016.12.21

大阪は晴れ。MEBICの5週連続講座が終わった。ホテルから見上げる空。 いつの間にか、言葉の人である。いやいや、ずっとそうだったと言うべきか。子どもの頃から、作文は得意だったが、大学を中退し、家業を手伝い、公務員になり損ね、紆余曲折を経てコピーライターになったのが、30歳。天職と思った。作文で暮らせるなんてね。 その後、なんの因果か、モノから始まりすべてに関わるプロデューサー稼業となっても、あらゆるプロセスで「言葉化」が大きな推進力となる事例をたくさん見てきた。企画書、会

霜が降りる。 2016.12.17

竹田からの帰り、久住の先輩の住み処に寄った。今季、初薪ストーブ。 日田は盆地である。夏暑く、冬寒い。その前に住んでいた過疎の村では、厳寒期は度々氷点下の朝を迎えたものだが、あまり変わらない低温の冬。諦めていた霜の鑑賞が引き続きできるのは、実に喜ばしいことだった。霜が降りると、散歩の時間がつい長くなる。 寒ければ寒いほど、霜の結晶は大きくなる。多くは、霜は朝露が凍ったもの。そのまま水滴のように凍るケースもあれば、結晶が伸びて、透明の棘がびっしり刺さったように見えるケースもあ

大分シフト。 2016.12.13

降ったり止んだり。昨日はボルダリング。今朝はジョギングのはずが。 昨日も今日も大分市内で目覚めた。先月からこちらにも拠点ができたのだ。半年前には、予想もしなかった2拠点生活の始まり。僕は、日田で逆単身赴任生活。数えれば、30年ぶりの一人暮らし。大分の別宅の妻子も、自分自身も早くペースを作らなければならない。 発端は、スポーツ推薦で大分市内の高校に進学した長男。入寮し、新生活が始まったが、成長期只中の食生活への心配が絶えず、通いのサポートでは限界も見え、市内での同居が選択肢

メディア弁当。 2016.12.9

日田はモミジの終盤。地表を赤く染めるもの、いまさら黄色に染まるもの。 日田きこりめし弁当が、また賞をいただいた。ウッドデザイン賞2016とそのコミュニケーション部門奨励賞。少し前には、Forest Good2016~間伐・間伐材コンクール~で、間伐推進中央協議会会長賞もいただいていいる。たかだか、880円のいわゆる弁当なのだが。 ヤブクグリが結成されたのが2012年。その翌年には、日田きこりめし弁当は誕生している。多少なりとも、活動資金の足しにと、首謀者牧野伊三夫の発案を