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アメリカ、SNS依存症、本牧市民プール(週刊エッセイ:2023年9月 第1週)

8月28日(月)

薫慧の友だちの女性がアメリカから日本に遊びに来たので、彼女を案内するかたちで恵比寿の香り家の板蕎麦を食べに行った。

彼女はアメリカで生まれ育ったが、ベトナム人と台湾人の両親のもとで暮らしてきたので、アジアの文化にも触れてきている。しかし日本に来たのは今回が初めてで、まだ数日の滞在にも関わらず不思議に思うことがいっぱいだという。

「お祭りを見たとき、男性たちは下着姿だったが(フンドシのこと)あれは大丈夫なのか」
「日本人が英語を発音しようとするとき、独自の記号(カタカナのこと)に置き換えてから発音を試みるのはなぜか」
「日本人の子どもは漢字の発音や意味を習得するとき、どういう手順で学ぶのか」

一緒に注文した天ぷらやだし巻き卵と並んで、卓上に次々と質問が乗せられていく。彼女は英語しか話せず、僕は英語が話せないので、質疑応答は薫慧の通訳のもとに行われる。通訳者は蕎麦を味わうどころではないが、僕はユニークな質問をおかずにいつも以上においしい蕎麦を食べることができた。

香り家を出てから恵比寿の町を歩き、喫茶店でデザートを食べて落ち着いた頃、油断していた僕に彼女がやさしい英語で尋ねた。

「これまで、アメリカに行きたいと思ったことはある?」

彼女の質問に、僕は言葉を詰まらせてしまった。それを見た彼女が見透かすような表情で「OK、もうすべてを理解したよ!」と言ったので、その場はたちまち笑いに包まれた。僕は弁明しかけたが、適切な言葉を見つけられず、結局は日本人らしいあいまいな笑顔でその場をやりすごしてしまった。

このとき僕が反応に困っていたのは、アメリカに行きたい気持ちがなかったからではない。彼女に訊かれる瞬間まで、アメリカを訪れるという想像を一度もしてこなかった自分に気づいて、ハッとしていたのだ。多くの人が憧れる場所、映画や音楽、文化の中心ともいわれるその場所に、僕は自分が足を踏み入れる可能性を検討したことすらなかったのである。

神奈川県の横須賀という町で育ったので、高校を卒業するまでは米軍基地のすぐそばで暮らしていた。

学校にはアメリカ人やハーフ(ダブル?)のクラスメイトも珍しくなく、2001年の同時多発テロまでは基地にもよく出入りしていた。特に僕は基地の中の英会話スクールに通っていて、大きな飛び込み台のあるプールで遊んだり、コスプレをしてハロウィンのイベントに参加したりしていた。

吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』という漫画がある。米軍基地のある町で育った日本人たちの複雑な人間観を丁寧に描いた名作だ。僕には主人公・トシほどアウトローな経験はないが、少なからず似たような心情を抱いたことはある。

基地の中で目にするものは、僕にとってアメリカ文化の象徴だったけれど、それが「憧れ」かといえばそうではなかった。「いいなあ」と思うことはあっても、それは横浜や東京に遊びに行って「いいなあ」と思うのと同じくらいの感情に過ぎなかった。

一方で、強い反感があるわけでもない。中学生の頃はイラク戦争真っ只中で、横須賀選出の首相のもとで自衛隊が戦地に派遣されるなど、日本も積極的な関与を続けていた。少年期のごく自然な感情として戦争への反感はあったし、どぶ板通りで酔った米兵と地元住民が揉める様子を見て「めんどうだなあ」と思うこともあったけれど、それがアメリカという国や文化への否定的な感情と結びついたことはない。

憧れでもなく、反感でもない。アメリカという存在は、僕にとってずっとあいまいなままだ。

メディアがアメリカ文化を絶賛しても「そこまで素晴らしいのか?」と疑問に感じ、アメリカの問題点が取り上げられると「本当にそんなに悪いのか?」と思ってしまう。どちらのイメージでも反証する事例がいくつも脳裏をよぎるからだろう。そんなふうにして育ってきて、結局、アメリカという国に対して明確なイメージを持つことなく大人になってしまった。対象が近すぎて焦点を合わせるのが難しかったのかもしれない。

恵比寿からの帰り道、僕は、たとえ間違ったイメージだとしてもアメリカへの強い憧れを持って「おれはいつかアメリカに行くんだあ!」という勢いで勉強できたら幸福だったかもしれないなあ、と考えていた。いまさら学力不足を後悔するわけではないが、憧れの力を借りて、もう少しうまくやる手はあったかもしれない。

これまで数多くの生徒に楽器を教えてきたが、上達が早い人にはかならず憧れの奏者がいる。大学受験のモチベーションを上げるために、オープンキャンパスを通じて憧れを強めることが有効だというのもよく言われる話だ。少年が煙草に手を出すのは映画の中の大人の姿に憧れるからだし、反対に禁煙のコツはその憧れを捨て去り、喫煙者をダサいと思い込むことだと思う。

憧れの力は強大だが、そのうちかならず裏切られる。憧れは対象が持つ魅力ではなく、対象との関係性から自分が生み出したフィクションに過ぎないからだ。けれど、それでいいのだと思う。たとえ虚構であっても、それは人生の難所をよじ登っていくときの手がかりとして十分役に立つはずだ。

8月29日(火)

はてなブックマークで話題になっていた「れきちず」というWebサービスを使ってみた。現代の地図アプリのユーザーインターフェースを用いて江戸時代後期(1800〜1840年頃)の日本地図を閲覧できるサービスだ。僕は地理に詳しいほうではないし、これまで真剣に地図帳を読んだこともなかったので、地形や地名を眺める時間がこんなに楽しいものだとは知らなかった。

れきちず」の利用画面

楽しいと感じる理由は、そこに発見があるからだろう。僕がよく知る地域の横浜、関内・桜木町エリアでいえば、当時の横浜が神奈川湊の近くの漁村だったことや、現在の関内の大部分が埋立地であることなどが「れきちず」から見て取れる。また、山下公園のとなりの「象の鼻」が、江戸時代からの地形と愛称を反映していることにも気づいてびっくりした。

内容だけでなく、開発の進め方も見習いたい点が多い。プロダクト開発の言葉でいえば、このサービスはまだ MVP(Minimum Viable Product)の段階だろう。一般的な言葉でいうところの「プロトタイプ」のようなもので、地図の対象範囲は関東地方の一部に限られている。公式サイトにロードマップが掲載されていて、いまプロダクトがどういう段階なのか、これからどうしていくつもりなのかが示されている。顧客に価値を提供できる最小限のプロダクトを作り、価値を示した上でユーザーの支持を集め、それを推進力にして開発を進めていくという手法を取っているのだ。

MVP の開発はカンタンそうに思えるかも知れないが、最初の段階にプロダクトの核となる体験を見極めて凝縮するのはとても難しい。MVP とは「最低限動くもの」でなく、プロダクトが今後どう拡張されていくのか、そのことでユーザーの体験がどのようにおもしろくなっていくのかを想像させるものになっていないといけない。

「れきちず」はそのあたりのことをしっかりとクリアしていて、まさにお手本のような MVP だと思う。今後をたのしみにしながらプロジェクトを見守っていきたい。

◆ 8月29日:ジャニーズ事務所の設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」は、故ジャニー喜多川前社長の性加害を事実と認定したことを発表。さらに、故藤島メリー泰子の隠蔽行為を指摘し、事務所の体制改革のため現社長・藤島ジュリー景子の辞任を提言した。

◆ 8月29日:キリンホールディングスが、ペットボトルに直接印刷可能なリサイクル対応ペットボトルダイレクト印刷技術(RDP技術)を開発。この新技術をPETボトルリサイクル推進協議会に提出した。

◆ 8月30日:IT分野の外国人エンジニアが日本での在留資格を取得する際の審査期間が短縮される方針が報じられる。これまで最大で3ヵ月以上かかっていた手続きが、最短で約1ヵ月に短縮される見込み。新制度は2023年秋から、国家戦略特区内で適用される予定。

8月31日(木)

SNS を使わなくなる友人が増えてきた。自分は投稿しなくなったけどみんなの動向はチェックしているという者から、アプリ自体をきれいさっぱりアンインストールした者まで様々だが、それぞれが SNS との距離を図り直しているように感じる。

三十代半ばの仕事の多忙さや社会的なつながりの変化は大きいだろう。職場の人間関係や社交のしがらみから、SNS での発信が難しくなるのは多くの人が経験しているはずだ。学生時代はクラスやサークルにおけるメンバーシップを確認するために SNS での活発な交流があったが、社会人になって十年も経てばその必要性も薄れてくる。

僕は大学時代からなし崩し的にIT分野で働くようになり、特にコンテンツ・メディア領域をうろうろと徘徊してきた。だから僕の近いところでは、やれ BeReal だ、Bondee がやってきたぞ、いやいや時代は Threads なのだ、と常に新しいサービスが話題になり、その度に飛びついては社会を知った気になって騒がしくしている。そんな愚かな連中と遊んでばかりいるので忘れがちだが、冷静になってみるといい大人がこんなにも SNS に熱中しているのは異常なことである。

今年の春先に Zenly がサービス終了を発表したとき、一緒にいた大学生たちは「Zenly がなくなるなんて、明日からどうやって遊んだらいいか分からない」と狼狽えていた。彼らは Zenly をチェックして暇そうな友達を見つけて飲みに行く、というのが日常化していたのだ。「しょーもないことで悩んでいるなあ」とオジサンは思っていたが、最近はオジサンたちも Twitter の混乱と崩壊に対して同じように反応していることに気づき、笑ってしまった。それぞれの生息地で、それぞれの天変地異があるのだ。そしてまたそんなものと無縁に心穏やかに暮らしている人だってたくさんいる。

そしてどうやら僕は他の人よりも SNS というものが好きであるらしい。好きというより、SNS中毒、あるいは依存症といったほうが正確かもしれない。若いときはみんな当たり前に SNS をやっていたので気づかなかったが、同世代が SNS から降りていく年齡になってようやく自分の異常性が明らかになってきた。

写真を撮っては Instagram に投稿し、映画を観れば Filmarks に投稿し、楽器を演奏しては TikTok に投稿し、BeReal から指令が届けば務めを果たし、そうして考えたことを Facebook、Twitter(X)、Threads、Bluesky でつぶやき、こうして note にまで長々と文章を書いている。学生ならまだしも、とてもフルタイムで働いている大人の所業とは思えない。何をそんなに発信することがあるのだ、と自分でもよく思う。

よく「承認欲求」という言葉で説明されるが、僕の病状が深刻なのは、「いいね」やコメントがもらえる快楽がモチベーションではないということだ。実際のところ Threads や Bluesky なんて投稿したところでまったく反応はもらえない。じゃあなんでやっているのか。これらのアプリを触っているだけで楽しいからだ。アプリのちょっとしたインターフェースの変化に気づいて、その工夫や意図を想像するのがしあわせなのである。麻雀狂いは打たなくても牌を触っているだけで恍惚とした表情をしているが、あれと同じかもしれない。

そんな性分だからこそ、Chooning のようなプロダクトをつくることを生業にできているのは恵まれているのかもしれない。いや、しかし、酒飲みが高じて飲み屋をはじめたケースっていうのは案外うまくいかないものだったりもする。うーん、やっぱりよろしくない方向に向かっているのかもしれないけれど、いきあたりばったりでやる以外の方法を知らないので、まだまだこの愚かさを抱きしめながらやっていくしかないなあ。

9月1日(金)

僕がデザインした「ロコネ」というスマートフォン向けのアプリがリリースされた。まずは iOS 版からのリリースで、近いうちに Android 版も配信される予定だ。

ロコネは「歩いた歩数に応じてポイントが貯まる」アプリ。貯まったポイントは PayPay や Amazon ギフトカードなどと交換することができる。シンプルだけれど、日々のちょっとした達成感が得られる体験だ。

ロコネ:新しい生活スタイルで毎日の生活に価値と楽しみをプラスしよう!(AppStore

実は、こういうポイントを貯める活動、通称「ポイ活」のサービスは他にもたくさんある。ポイントを貯める方法はさまざまで、アンケートに答えたり、動画を見たり、ゲームをインストールしたり。ロコネと同じように「歩いてポイントを貯める」アプリも珍しくはない。

ただ、正直いってどのアプリも見た目がダサすぎる。そしてダークパターン(ここでは、利用者よりも提供者の都合を優先したUIのこと)の見本市だ。このことがポイ活という体験価値を損ねており、結果として一部の利用者を遠ざけている。

そこでロコネでは、イラストを前面に取り入れ、スタイリッシュで親しみやすいデザインを心がけた。こうした取り組みによって、従来の「ポイ活」のイメージを一新することが狙いだ。

実際に工夫した点については、デザイン画面とともに詳しく書いた記事を出そうと思う。ひとまず、無事にリリースされてよかった!

9月2日(土)

残暑から逃れて涼を取るために、今年リニューアルされた本牧市民プールに行ってきた。

本牧市民プールの全体像(横浜市ホームページより

最初は「まあ、市民プールだし、少し水に浸かってからプールサイドでのんびりするかー」と侮っていたのだけど、流水プールを二、三周した頃にはすっかりその心地よさに取り憑かれ、結局時間いっぱいまで水の中で過ごしてしまった。こんなに素晴らしい体験だと知っていたらもっと通い詰めたのに、今年の営業はなんと明日で終わりだそうだ。悔しい!

僕は人と散歩をしながら横並びで話をするのが大好きなのだけど、流水プールで行う近況報告はその発展型といえるものだった。身体のバランスを取りながら水流に身を委ねつつ、ときどき思い出したようにバタ足したりする。泳ぐことが苦手な友人は子どもたちの水しぶきを浴びるたびにうらめしげな顔をしていたが、その様子も含めて普段と違う一面を見たようで嬉しかった。

プールサイドのBBQスペースやケバブの屋台からは、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。テントを張るスペースもあり、そのあたりには拠点を立てて本格的な休日を過ごしている家族の姿があった。高校生くらいの男女や、部活の仲間たちで遊びに来たふうな中学生もいる。少年たちのナマイキそうな顔が清々しい。

その光景を眺めていた友人が「冬の思い出は成長とともに刷新されるが、夏の思い出は子どもの頃のものが強く残ったままだ」ということを言った。

たしかに、クリスマスや正月も楽しみだったけれど、それはプレゼントやお年玉といった実利的な側面への期待が強く、遊ぶという意味においては花火大会や海水浴のある夏のほうが遥かにワクワクするものだった気がする。冬についてはいまの方がいろいろと楽しむ術を持っているが、夏については少年のときの方が上手に楽しんでいたかもしれない。

プールを出てから浜虎でラーメンを食べ、T・ジョイ横浜で映画『SAND LAND』を観た。大好きな鳥山明の絵がスクリーンで生き生きと動いていて嬉しい。物語は王道中の王道で、まさにジャンプらしい想像力が詰め込まれた世界だった。

帰り道、急激に疲れを感じだした身体から塩素の匂いがする。なんだか今夜は子どもの頃の夢を見そうだな、と思った。

◆ 9月2日:国民民主党の代表選が投開票され、玉木雄一郎代表が前原誠司代表代行を破り、再選された。任期は2026年9月末までの3年間。

9月3日(日)

Netflix オリジナルの実写ドラマ『ONE PIECE』を観た。世界中に多くのファンを持つ、伝説的な少年漫画の実写化だ。こういう企画に挑戦できるというところに、まさにいまの Netflix の力強さが表れている。

僕は週刊ジャンプを購読しているが、漫画『ONE PIECE』の熱心な読者というわけではない。最初の頃は楽しんで読んでいたけれど、次第に繰り返されるテーマの単調さに辟易したのと、世間がそれを絶賛して人生の指南書のように持ち上げている様子を見て「アブナイ」気がして心が離れてしまった。特にここ何年かは、ここまで読んでしまった成り行き上「しかたなく物語を追っている」というのが正直なところだ。

それでも、このドラマはよくできていると思う。原作の核となる価値観を忠実に保ちながら、グローバルコンテンツとして再構築した手腕がすばらしい。初期の物語への懐かしさもあって、現在公開中の八話まで一気に観てしまった。やっぱり Netflix はすごい。

漫画の実写化作品らしいコスプレ大会的な気色悪さもゼロではないけれど、
日本の漫画フォーマットを海外ドラマフォーマットに変換するという挑戦は成功したといえるだろう。もしかすると、ジャンプの週刊連載と人気アンケート方式による話作りの展開は、連続ドラマのフォーマットと相性がいいのかもしれない。

さて、そんな変換がうまくいっているのを見て、改めて僕は「夢と仲間を全肯定&最重要視する」という価値観がこの作品の核心であることを認識した。原作漫画でもドラマ版でも、僕が『ONE PIECE』を苦手だと感じるところはここにある。そのテーマは繰り返される割に、その描き方が一辺倒で、一向に疑われることがない。世間がそれを持ち上げているのも不気味なものを感じる。

ただ今回、偶然にも前日に映画『SAND LAND』も観ていたことで、そんな自分の感覚をもう少し掘り下げて考えるキッカケになった。というのも、同じ価値観をテーマにした『SAND LAND』について、僕はしみじみ「いいなあ」と思って観ていたからだ。

そこで今日は『SAND LAND』には共感できて『ONE PIECE』には抵抗を感じてしまうのは何故なのだろう、ということを考えてみた。

まず「夢」について。ドラマ『ONE PIECE』で描かれる「夢」は「自己実現」のことだ。「海賊王になる(ルフィ)」「世界一の大剣豪になる(ゾロ)」「オールブルーを見つける(サンジ)」など、それぞれがなりたい自分を目指す姿を魅力的に描こうとしている。(反対に、なりたい自分があるのにそれを諦める状況は強く否定される。)

対して、映画『SAND LAND』で描かれる「夢」は、「幻の泉を探す(ラオ)」や「泳いだことのない息子たちを泳がせたい(スイマーズ・パパ)」など、自己実現的でなく、他者を思う気持ちに由来するものだ。主人公・ベルゼブブに至っては、夢ではなく好奇心で駆動している。

次に「仲間」について。『ONE PIECE』では「仲間になる/ならない」「仲間から抜ける/抜けない」ということが重要なシーンとして描かれる。「なりたい!」と本人が口にすることが大事であり、それを「言わせる」ための儀式的なシーンは原作漫画にもよく登場する。ここでは、仲間は「本人の意思で、明示的になる」ものとして考えられている。

一方『SAND LAND』では、同行を依頼するシーンはあれども、そこで仲間という言葉は軽々しく使われない。ベルゼやシーフとラオたちは、旅を通じて気づいたら信頼関係が生まれているのだ。ここでは、仲間は「気づいたらなっていた状態」として描かれている。敵対する立場のアレ将軍やスイマーズも「勝手に」ベルゼたちの仲間として行動するようになる。

こうして二つの作品を見比べてみると、僕が『ONE PIECE』を苦手だと思うのは、自己実現を強く求める強迫感や、「仲間になるのか、ならないのか」と迫る儀式、そこに表れる人間同士の関係構築に対する理解の浅さにあることが分かる。これが『ONE PIECE』がグローバル市場で映像作品として広がっていくときに、いいほうに働くのかどうかは分からない。