「人が混んでくると、自然と、目の前だけを見つめがち」

 おはようございます。先日、いつもの道を散歩していると、普段よりも大勢の人たちで、込み合っていました。

 なにかイベントがあったのだと思います。詳細は今も知れませんが、普段は自由に歩けていた、一本の道を、左右に人が別れるように進んでいました。

 いつもその道を歩く時は、じっと足下を見て進みます。歩数や、タイルの枚数を数えることもあるのですけど、その日は顔をあげて、前の人の背中を見て、歩調を合わせて進むことになりました。

 一方、反対側の列に、人波に逆らうように、早歩きで進んでいく男性がいました。やはりしっかりと顔をあげてはいましたが速足です。自然と、真正面からやってきた相手の方が、その人とすれ違う時だけ、足を止めて道をゆずっていました。

 この人を、「迷惑だな」と思う人がいるかもしれません。

 でもその人は、わたし達とは違い、前の人を気にして、歩調を合わせて進む必要がありません。ズンズンと速足で進めば、正面から来た人波は、モーゼの波のごとく、勝手に道が開けてくれるのです。

 すれ違った相手からすれば、迷惑かもしれません。しかしこの道は、普段は人が少なく、一方通行という、ルールも制定されてはいません。

 むしろ「人が増えてきたから、一列に並んで歩きなさい」という暗黙のルールが付与されることが、見方によっては、ある種の押しつけのように映る場合もあります。

 どちらにせよ、このような人が現れれば、対する人は、たった半歩分を隣に避けて、1秒だけ立ち止まれば、すべてが済む話です。

 決まった列の中で、前の人とぶつからないよう、背中を見ながら歩く、わたし達。そんな我々からすれば、「危ないな」とか、「ズルいな」とか思うかもしれません。あるいは「羨ましい」と感じられるかもしれません。

 けれど、人波に逆らうといった歩き方は、一人だからこそ、できることかなと、思ったりもしました。

 自分以外の誰か、手を繋いだ相手が、一人でも隣に立っていると、波の向きに従い、前の背中を見て進まざるを得なくなります。

 その相手の荷物を、自分が背負っていれば、尚更のこと。波に逆らっても泳ぎきり、一歩でも早く、対岸に辿りつきたいという思考は、危険性との兼ね合いで断念せざるを得ないことも増えます。

 他人よりも速く、まっすぐに進みたければ、そもそも「他人」という荷物を背負うことが、デメリットです。組織や団体に所属した時点で、波に逆らっている人がいれば目につきます。

 こうした人を、元の順列に戻そうとすると、不満の種を植え付けることになりますし、当人に本気で競争する覚悟と気概があるなら、最終的には『個人』という立場に収まった方が、往々にして有利な側面もでてくるのかもしれない。等と考えたりもしました。

 問題は一点。現在は、波の流れが、かなり速いです。

 結婚しない成人の人間が増えているということは、波に逆らって歩くという人々が多いのだと考えられます。また、長期的なビジョンを持つ人が少ないという事にもなりますので、瞬間的な『投資額』も、従来より莫大になるのでしょう。

 ただしこれは、けっして『景気が良い』という話では、ありません。

 結婚をしない未婚の人間がいくら増えようが、全体としての金銭的なリソースが増えているわけではないので、時期的なブームが去る、あるいは他に推移すれば、一瞬で産業が壊滅するおそれがあります。

 今の日本のエンターテイメン業界は、昭和のバブル経済時期と、どこか似たような傾向があるのではないか。と思います。

 とりあえず、普段とは違った量の人波を抜けて、落ち着いたあと。またいつものように足下を見つめ、時には空を見上げて、お天気を確認しながら、ゆっくりと自宅に帰りつきました。あったかくして、お布団に入って寝ました。

 外出さえしなければ、なにも悪くない世の中です。
 誰にも、どこにも、ぶつかる事はありません。

 本当にすごいのは、毎日外にでて、働いている人たちです。隣を歩く人たちと手をつなぎ、他人の荷物を一緒に背負い、列からはみ出さずに、社会システムを継続してくれている。

 そうした人がいてくれないと、そもそも、この世は何も成り立ちません。その事実が、ひたすら、ありがたいです。