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【解説】江戸幕府が260年間、続いた理由

徳川家康が強固な統治体制を築いた
(江戸幕府:1603年〜1867年)

1.譜代大名の役割
2.井伊家は政治より軍事を任されていた  
3.なぜ家康は江戸を拠点としたのか
4.徳川家康が優れていたこと  
5.家康は慎重に幕府を築いていった


1.譜代大名の役割
一般的に徳川家康は、譜代大名(代々徳川家に仕え、江戸時代になり新たに大名となった家臣)が政治を、外様大名には領地をと振り分けたとさらている。しかし、譜代大名のなかでも政治には一切関わらない者も存在した。それが関東地方や東海地方の守りの要となる譜代大名たちだった。彼らは、譜代大名ながら幕府の政治に関わらず、軍事・防衛を担うことになった。

■参考: 徳川家康は、諸大名を統制するために、以下の3つに分類した。

・「親藩大名」
徳川家一族。特に徳川家康の子を祖とする、尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家「徳川御三家」は、江戸幕府将軍の跡継ぎを輩出できる家柄として別格扱いだった。
・「譜代大名」

代々徳川家に仕え、江戸時代になり新たに大名となった家臣のこと。
・「外様大名」

関ヶ原の戦い以後、徳川家に従うようになった大名のこと。


2.井伊家は政治より軍事を任されていた
この譜代大名の代表的な存在として、「徳川四天王」という呼び方がある。酒井家、本多家、榊原家、井伊家の四家のことである。

この四家は、酒井は庄内、井伊は彦根、また本多や榊原は姫路に置かれている。つまり、いずれも関東・東海地方を守り、外敵の侵入を迎え撃つ重要な軍事拠点に置かれている。

この事実を考えると、実は譜代大名にとっても、政治よりも軍事が上ということになると考えられる。有事の際には城に立てこもり、敵の攻撃を食い止めて、関東・東海地方に敵が侵入してくるのを防ぐのである。

そして、味方が援軍を出す時間を稼ぎながら、いざとなれば城を枕に討ち死にする。そのような軍事的行動を担う譜代大名のほうが、日本全国の政治を執り仕切った老中よりも事実上、徳川幕府においては各位は上と想定できる。

酒井、本多、榊原は、原則として老中など政治の役職に就かず、幕府政治には関わらなかった。井伊の場合は大老になっているが、これは言うなれば名誉職のようなものである。


3.なぜ家康は江戸を拠点としたのか
家康は軍事的にさまざまな備えをしていることがよくわかる。

家康は、関東・東海地方を徳川の譜代大名で固め、江戸を攻められないように画策した。

家康は信長、秀吉とは異なり、京都・大坂といった畿内には近づかなかった。

家康が、江戸を自分の政権の拠点として選んだ理由は、西や北の敵から守りやすかったからではないかと思われる。

家康は1605年、征夷大将軍の職を秀忠に譲り、江戸を離れて駿府に移った。江戸の秀忠、駿府の家康という二頭政治的体制を取ったが、大御所として政治の実権を握り続けた。

家康の後、代々野将軍が、江戸に居住したことで、江戸が徳川政権の根拠地として確立されることになった。


4.徳川家康が優れていたこと
徳川家康は、生涯を通して、飽くことなく勉強を続けた人物だった。


家康は自分の足りないところを補うために、学者や学僧、あるいはヨーロッパ人からも学んだ。儒学者の藤原惺窩せいかの講義を受け、彼の弟子の林羅山を家臣とした。また、僧侶の天海や金地院崇伝、ヨーロッパ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)やウィリアム・アダムズ(三浦按針)らをブレーンとした。

5.家康は慎重に幕府を築いていった
家康は関ヶ原の戦い以降は、大きな波乱を生じさせないで政権を確立しようとした。

島津家や上杉家、毛利家もつぶさなかった。信長のようにドラスティックに物事を進めると当然、反発も大きくなる。一方、家康は石橋を叩いて渡る、大変に慎重なタイプだと言える。

家康による江戸幕府の統治は、家康個人の精神的な成熟もあって、あまり無茶をせず、抑えるところは抑えながら現状を追認していくかたちで行われていったと考えられる。

家康あってこそ、江戸幕府は強固な統治体制を築くことができたりそう言っても過言ではないと思う。


以上

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