見出し画像

連合国最高司令部

GHQ (General Headquarters)


1.GHQとは
GHQとは、日本が敗戦した1945年(昭和20年)からサンフランシスコ平和条約が行われる1952年(昭和27年)まで、日本にあったアメリカ中心の連合国によって日本を占領する連合国最高司令部(General Headquarters)のことです。このGHQが、戦後の日本を推し進めていきました。


2.GHQができるまでの経緯 
①ポツダム会談とポツダム宣言

1945年7月、ベルリン郊外のポツダムで降伏しかけていた日本の戦後処理について話し合ったポツダム会談が開かれました。

ここで日本は無条件降伏し、二度と戦争ができなくなるまで連合国によって占領することが決定します。

なお、当初はドイツのようにアメリカ・中国・イギリス・ソ連の4国によって軍事占領される予定でしたが、アメリカのトルーマン大統領が土壇場でソ連を敵対視し始め、アメリカ中心の間接統治という形に変更されました。

そして8月15日に日本はポツダム宣言を受諾。9月2日に無条件降伏し第二次世界大戦は終わりを迎えました。


②GHQの設立
連合国は、ポツダム宣言の内容に沿うように日本を占領する組織である極東委員会が設立されます。

これはアメリカやイギリスなどの連合国が日本をどう統治していくかを会議する組織で、GHQはその会議で決まった意見に従って日本で実際に政策を行う組織として誕生しました。

日本政府は、存続は許されたもののGHQの意見には絶対に逆らうことができなくなり、簡単に言えば従属国としての立場を取らなくてはいけなくなってしまいました。

GHQの総司令官にはダグラス・マッカーサーが着任しました。

3.GHQの行なった政策(改革)
①東京裁判と公職追放
GHQの最大の課題であり、最大の目的が日本の非軍事化でした。


GHQからすれば、日本に軍事能力があれば再び軍国主義となって、アメリカにはむかう可能性があるかもしれないと考えたからです。

そこでGHQは、第二次世界大戦で日本を主導していた軍人や政治家などを逮捕して、軍事裁判にかけました。これを極東国際軍事裁判(東京裁判)といいます。

また、戦時中に大政翼賛会(戦争に勝つために国民と政府が一致団結することを目的として設立)に加担した人もGHQによって議員になることなどの社会の表舞台立てなくしてしまう公職追放も行われました。

②日本国憲法と非軍事化
1946年、GHQは軍事的要素が強く、さらに天皇中心の憲法であった大日本帝国憲法に変わり、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を基本とする日本国憲法を作成するように日本政府に命令します。


日本政府は、GHQの意向を受けながら1946年に公布、翌年には施行され、今の憲法が完成しました。

また、この憲法の第9条には戦争の放棄が書かれているように日本はこれから軍を持つことが禁止されました。

③経済の民主化と改革
GHQは、日本がアメリカのように「民主化」できるように、経済や農業の改革を推し進めていきました。


その中でもマッカーサーが、特に日本政府に実現するようもとめた、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5つの改革のことを五体改革指令といいます。

さらにGHQは、これまで日本の農業を支えていた地主の勢力をなくすために、農地改革を開始させました。これによって、これまで地主の下で働いていた小作人に土地が分配され、小作人たちは自由になりました。

一方、経済の方では戦前の日本の経済を握っていた財閥(三菱・三井・住友・安田)を解体させました。さらに独占禁止法を制定して、アメリカをモデルとした経済の民主化を推し進めました。

※アメリカとしては日本の力を無くすための政策だったのですが、この政策のお陰で、日本はソニーやホンダなどの戦後新しくできた企業の力が伸び始め、経済大国となっていくことになる一因となるのです。

④教育改革
GHQは、戦後の日本に適応できるように教育改革も行います。

この改革によって、日本は小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年になり、そのうち小学校と中学校を義務教育とする学校制度が新しく設けられ、現在のスタイルが形成されました。

また、戦前には必ず覚えなければいけなかった教育勅語も廃止されました。

※この時、アメリカは日本の公用語である日本語をローマ字で表すという計画が立てられましたが、日本の識字率があまりにも高く、アメリカよりも上だったため、この計画は断念されることになりました


4.転換する政策「逆コース」
米ソの冷戦が起き、日本での共産主義の広がりが早いことを受けて、GHQはアメリカのいいなりにするのではなく、アメリカの同盟国として、共産主義に立ち向かう防波堤にする方針にへ変わっていきました、

GHQは公職追放をした人たちを復帰させ、共産主義者を抑え込むという『逆コース』を突っ走っていくことになっていったのです。

また、1950年に日本に近い朝鮮半島で朝鮮戦争が起こると、日本の工業と産業をなるべく早く復活させ、日本は朝鮮戦争の物資を送る役割を果たし、朝鮮特需という一大好景気が起き、日本は戦後の不景気から抜け出し経済大国への一歩を踏み出すことになりました。

GHQの最大の目的であった非軍事化もなかったことにされ、警察予備隊(のちの自衛隊)や海上保安庁を設立し、日本は再び軍を持つようになりました。

5.GHQによる占領の終了
1952年、アメリカの日本を独立させて西側諸国の立派な一員にさせるという思惑を利用して、当時の首相であった吉田茂は、アメリカに講和7原則を持ち出したことによってサンフランシスコで講和条約が結ばれることになりました。


日本は、朝鮮半島と台湾の放棄やアメリカの沖縄、小笠原諸島支配を認めた上でサンフランシスコ講和条約が締結されました。日本はついに主権を回復し、立派な西側諸国の一員になりました。

これと同時にGHQは廃止され、7年にわたる支配が終わりを迎えたのです。

ただし、これ以降、日本では日米安全保障条約にのっとって在日米軍が日本にとどまることになりました。 


以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?