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NETWORKSこそが音楽である(2015.4.29 落合soup雑感)

NETWORKSを知ったのは2012年。Twitterで友人が絶賛していたことで興味をもって後日TSUTAYAで借りてきたのが最初のアクションだった。「何を借りてきたの?」という別の友人からの問いに対しての返信が過去ログにあったので引用。

で、聴いたら光の速さで怒りに近い感情が沸いてきた。

ヤバスギル…Σ(゚д゚lll)

TSUTAYAでCDを借りて済ますことを良しとした自分を全殺しにしたい気持ちにしかなれなかったので後日ちゃんと購入を果たした。その後、実際に観たらやっぱりすごく楽しくてどんどん好きになっていった。とはいえ、そんなに頻繁に行っているわけでもなくて。今回の詳細が発表された時も特別に気合をいれるというよりも単純に楽しみだなという気楽さをもったまま当日を迎えた。

5年ぶりの新譜発売を祝福するという趣旨だったり、落合soupのキャパ的な問題もあるとは思うけど、フロアは比較的アットホームな雰囲気に包まれていたように思う。前述のとおり俺も開演するまではのほほんとしていたし、携帯の電波が掴みにくい環境ながらも今日はここです…Σ(゚д゚lll)的なツイートをする余裕もあった。

NETWORKSの音楽性を語るうえでのキーワードといえば、変拍子、ポリリズム、トランス、ミニマルといったいかにもそれっぽいものだったり、本人たちが語る「楕円運動のダンス音楽」「最終的に祈祷になること」という言葉の意味はよくわかんねえけどとにかくすごく神秘を想起させるものだったりが浮かび上がってくるのが一般的であろう。俺も人に聞かれれば知ったかぶってそう答えるだろうし、「すしざんまい」に派手に競り落とされて解体を待つだけの巨大マグロも自ら海に逃げ狂ってかつての泳ぎを思い出すくらい生命を肯定したくなる音楽だよなんて素っ頓狂なことも言いたくなる。だけど、今回のライブを体感していた時の俺はそれとは全く別次元の感覚に陥っていた。

シンセ、ガットギター、ドラムという3枚の合わせ鏡の向こう側をのぞいてみたら、反復や反射によって彩色された音そのものが光かがやく美しい光景が広がっていた。NETWORKSそのものがもしかしたら千変万化という名の万華鏡なのかもしれない。それはさておき。

洋邦ジャンルを問わずかつて観てきた数多くのライブのなかでも、これほどまでに音楽と俺との間に不純なものを一切感じなかったことは極めて稀である。不純というのとは少し違うかもしれないんだけど、例えば俺が普段好んで行くようなものはグルーヴが肉体に直結するようなフィジカルなものだったり、アーティストの人間性が滲み狂っているようなエモいものだったりするものが多い。それこそ俺が今までに書いてきたTwitterやnoteなどを読み返してみれば常に自殺願望丸出しで爆裂・悶絶・発狂・地獄・鬼なんていう言葉だらけだ。

ところが今回のNETWORKSのライブでは、ちょっとすげえあれな言い回しになるんだけど、演奏されている音楽と聴いている俺そのものがひとつになりたかった。申し訳ないことは自覚しているけれど、バンドの人間性とか新譜が完成するまでのストーリーといった情報はもとより、吉野さんのVJでイメージが限定されてしまうことも、彼らが演奏している姿を見て鳴らされる音の根拠がはっきりしてしまうことも全て拒否したくなった。もともと装着していたマスクで嗅覚を塞ぎ、体表面に何も触れないようにして触覚の作動を防いだ。どセンにいるくせに終始目を閉じていた。音の粒子を一粒もこぼすことなく全てを聴きたくなったので、滑稽ではあるがそうまでして全感覚を耳に集中させていたのだ。地獄の聴取モードが発動した状態で聴いていて強く思った。余計な意味づけも頭でっかちな知識も全く必要としないんだなって。彼らの音楽は振動そのものであって、ただそこに身をおいているだけで脳内に無限の美世界が広がって別世界を堪能できるんだから、これはもう多くの人が体感すべきものとしてステマだろうがなんだろうが派手に宣伝し狂いたさがある。

\NETWORKSこそが音楽である/

もう本当に全ての人にNETWORKSを聴いてほしいんだけど、とくに聴くべきであろう人を最後に数人挙げてみる。

・聖徳太子(10人の話を瞬時に聞き分けたという伝説の持ち主)

・rei harakami(初めてNETWORKSを聴いた時に彼のことを思った)

・映画「セッション」を観てドラマーってすごいと勘違いしちゃった人

いますぐ濱田さんのドラム聴けよ…Σ(゚д゚lll)



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