日記2024/06/16~22

唐突に日記を書こうと思った。
今まで書いてきたわけではない、むしろちょいちょい書いて急にめんどくさくなるタイプの私なので、今回も大して長続きしないだろうし、「こいつ書かなくなったな」と思われるのがイヤなのでXにも何にも投稿しないし、まあいざとなったら消せるし、くらいの安易な気持ちで今、文章を書いている。

最近漫才を書こうとしている。その時に思い至ったいくつかのことについて。

面白い、ということの最上位に当たるのは、何も理解していない人を見ているときだということ。いわゆる「永遠の無垢」(←とあるところからの引用)で、異常な行為を、それに全く気付いていない人間が行っているのが一番面白い。そして漫才やコントなどの「ネタ」は、それにどれだけ近づけるか競っている、ということだ。
ネタにおける「ボケ」というのは、ネタであるわけだから当然台本があって、それに沿った進行をする必要がある。それゆえに無垢性が保証されていない。観客もそれを分かっている。だからボケは無垢なふりを上手にできるよう上達してウケるようになっていくのであるし、観客はネタの間だけでもボケの「無垢性」を信仰する。このボケは本気でこんなにおかしなことを言っているのだ、と自分に魔法をかける。だから笑えるし、その前提を超越してセリフを噛んだ時が一番ウケる。
はなからそういう話だ。

では、ネタ書きは「無垢性」をどのように担保すればよいのか。
ひとつは当て書きである。つまり、なるべく本人が言いそうなセリフを書くこと。もう一つは演技の上達。コントと違って漫才では素を出せる、と思うかもしれないが、台本がある時点であくまで「セリフを言っている自分」の演技をしなくてはいけない。役自体の人間性にある程度想像の余地、つまり「幅」があるコントにたいして、「素の自分」という役にピッタリハマる演技をする必要のある漫才は、演技という面においては本来難易度の高いものではないだろうか?(もちろん漫才で「自分」役しかできない、という特異な人もいるにはいるが、私はこの演技の難易度の面が、『コントをやる漫才師』よりも『漫才をやるコント師』の方が少ない原因だと考えている。)

で、これを自分に当てはめたときに「当て書き」の難しさに震え上がっている、というのが現在の私の心境だ。
相方が何を喋るか全く想像できないのである。
どうしようね(未解決)。

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