自由意思と自我
皆さんは、自由意思はあると思いますか?
「そんなの答えるまでも無いじゃん!」
と思われるのは当然ですよね。だって日々「私」が選択してますもんね。
では、「自由意思は無い」と言ったらどう思われますか?
こんな事を言ったら大抵の人は否定してくると思います。だけど、、、、、
真理は、「自由意志は無い」のです。
では、何故、自由意志があるように錯覚するのでしょうか?
それは「自我」があるからです。
自我とは世界との分離した意識の事です。
普段、我々が「私」と思っている存在です。
この分離した意識によって、自由意志と言う錯覚を生み出すのです。これは逆も然りです。
自由意思があるから自我という錯覚が起こるとも言えます。
自我と自由意志は相互関係で成り立っています。
片方がなければ成り立ちません。
では何故そのような事が言えるのか?を凡人並みに説明してみようと思います。
実は簡単に説明できます。
意識を拡張してみて下さい。
まず、私(A)と他人(B)を同一の存在だと思って下さい。こうした場合、行動や思考の回数は2倍になります。当然ですよね。私が1人から2人に増えたのですから。
ですが、これだけでは自由意志は作用してしまいます。何故なら、私が2人に拡張した所で世界との分離があるからです。
では、次はもっと規模を拡張します。
日本人全員=私にします。
でも、どうでしょうか?日本人全員が私になっても、他の国の人との分離はありますよね?
「他の国の人と、どうやって交流しよう?」
「戦争に巻き込まれたら嫌だな〜」とか
では、全世界の人=私になったらどうでしょうか?
ここでも自由意思は働きます。
確かに、人との関わりでは愛を持つ事ができるかもしれません。ですが、人とそれ以外で世界の分離があります。
「地震を自力で止めようだったり(悪い事ではない)」
「人間の邪魔をする生き物は排除しよう」
だったり。
お分かり頂けましたか?
どんだけ自分を拡張しても、世界との分離がある以上、自由意思が作用してしまうのです。
それでは、自由意思という錯覚はどこの段階で消えるのでしょうか?
それは.…
真我(心)に到達した時
???となった方もいらっしゃると思いますが、
真我(心)とは全てなのであります。つまり、全てを満たした状態なのであります。
先程、「私(個)」の意識を拡張して説明しましたが、
さっきの考え方は外側に目を向けたやり方なのです。外側を拡張したら最終的には全てを満たす事になると思いますが、実はその全てが身近にあったのです。
心に意識を向けて下さい。そこには静寂があるはずです。
その静寂の中に「私」という個人はいるのでしょうか?
どこを探しても居ないはずです。ただそこに静寂があるだけです。
私が居ないならば、
「全て満たしている」
と言えませんか?
意識を拡張しても、「私」がある以上、世界との分離が働きました。ですが最終的に拡張した意識が全てを満たした時、比較(分離)がなくなります。
そこに静寂が生じるはずです。
そして、そこで個人の自由意志というものは無いと気づくはずです。
その静寂は、心に意識を向けたときに生じた静寂と全く同じなのです。
静寂とは全てなのです、そしてそれが真理なのです。
自由意思は、冒頭で分離があるから故の錯覚だと書きました。
そうなんです!全て満たした存在という事を忘れて生きているから自由意志があると錯覚するのです。
静寂とは神そのものです。「どうしよう」だったり「〜したら楽しそう」だったりなどの個人的な思考が神から起きますか?
神は全てなのですから、あり得ないのです。
何度も言います。全てだから、あり得ないのです。
そのような思考すら内包しているのです。
そして、我々は神なのです。
Part2に続く.…