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あの時から、一人でしか生きられない

ゆうすけさん、こんばんは。今日も飲んでますか?
私は、ついに今週から在宅勤務になりました。
よって、今夜もへべれけです。

私の初恋は、小学校1年生の頃ですね。
同じクラスのピアノが弾ける福田くん(通称フック船長)に、となりのトトロの"さんぽ"の楽譜を書いてもらったことがきっかけで、好きになりました。(この、優しくされたら好きになるという悪い部分は今でも治っていません笑).

とはいえ、小学1年生。好きだったという記憶しか無く、それ以外のエピソードを何も覚えていないのです(笑)

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今日は、少し昔の話をしましょうか。

今、コロナの影響で色んなことが制約され、未曾有の事態で狭苦しい思いをしている中
「人生で一番辛い時期かとおもいますが」というコメントをTwitterでいただいた。

それで思い出したんだけど、人生で一番辛い時期、私は21歳の数ヶ月間でした。

私は20歳で結婚した。
若かった。

当時付き合っていた6歳年上の遠距離の彼氏が、離島に転勤になったということと、当時東京で就活中だったけれど、震災直後で思うように就活が進んでいなかったという、そんな理由で深く考えずに離島に移住した。

同棲して少し経った頃、一緒に住んでいた元旦那に「結婚していないとこの社宅には住めなかったみたい」と言われ、大して何も考えずに籍を入れた。

その結果、1年半で離婚しました(笑)
しかも、同居期間は僅か半年。

理由は色々あるけど、ここでは触れないでおく。

最後の半年間は別居していた。
別居といっても計画的な別居ではない。

ある朝突然プツンと自分の中の何かが切れて、当時アルバイトで働いていたコンビニを無断欠勤し、少ない荷物を突発的にリュックにまとめ、その夜の船に乗った。

その数日前、私にドラムを教えてくれた専門学校の友人が、江ノ島でのバイク事故で死んでしまったというのが最後の追い討ちだった。

今でもはっきり覚えている。
その日の船には島の学生たちが大勢乗っていた。鹿児島本島へ、部活の試合にでも行くのだろう。
楽しそうな、明るい笑い声が、その夜の私には耳障りで煩くて仕方なくて、イヤホンで耳を塞いだ。
夜の海は暗くて、気持ちも極限まで沈んだ。

鳴りまくるスマホ。怖いという気持ちはあったけれど、不思議と清々しい気分だったよ。

翌朝鹿児島県へ到着し、鹿児島本線を乗り換え、肥薩おれんじ鉄道に乗った。

列車は、なんの変哲もない海沿いをずっと走る。
午後3時。その日は雲ひとつない快晴で、太陽がとても眩しくて。
離島で毎日見ていたのと同じ海のはずなのに、こんなに違うなんて。

淡々としたスピードで走る列車に乗りながら、世界はこんなに広かったんだなあなんて、あまりにもありがちなことを考えていた。

肥薩線に乗り換えて、山道を進んだ。

車の往来が殆どない深い山奥にも、民家がぽつぽつと建っていて、明かりがついていて、私はどうしようもなく悲しい気持ちになった。

男はつらいよ 第8作「寅次郎恋歌」から

 
>>> 例えば、日暮れ時、農家のあぜ道を一人で歩いていると考えてごらん。
庭先にりんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている農家の茶の間、灯りがあかあかとついて、父親と母親がいて、子供達がいて賑やかに夕飯を食べている。
これが・・・・・・これが本当の人間の生活というものじゃないかね、君。<<<

この、寅さんの言葉を思い出した。

私は、一人になってしまったんだな。自ら一人になったんだなと、そんな取り留めのないことをボーッと考えながら、気付くと人吉駅に着いていた。

それから1〜2カ間ほど、住所不定で九州の鉄道を乗り回して放浪していました。

今の私なら、現地の人と仲良くなれると思うのだけど
当時は沈みまくっててただただ一人でいたくて、誰との出会いもなかった。

私がそんな不毛な旅を続けている間、学生時代の同級生たちは音楽の道に進んでいて(今では殆ど皆サラリーマンやOLに転職しているけど)当時は胃を切られるように辛かったです。

それから何とか福岡に家を借りて、1年ほど住んでいたけど、北海道に移住して、それからまた2回引越しをして今に至ります。

あの時期以上にしんどいことは、この先ないと思う。

色々書こうと思ったけど、この期間は濃すぎてうまくまとめられなかった(笑)

まあ、あれです。九州の鉄道にはわりかし精通していると思うので、旅行に行かれる際には是非聞いてください。笑

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ゆうすけさんが今まで行った場所で、一番好きな場所を教えてください!