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古代東西交流史:テュルク語族vs印欧語族

地球儀的思考

 ヨーロッパだの、アジアだの、百年も前の帝国主義時代の、大陸の両端の低緯度を中心とした二つの地図で考えているから、世界が見えない。世界は、中世モンゴル大帝国の崩壊まで、高緯度のユーラシアハイウェイを中心に動いてきた。地球儀で言えば、それが大陸の両端をつなぐ最短距離だからだ。

 とはいえ、ユーラシア大陸なんて、そもそもみな土地勘が無いのではないか。数十年前まで、そのほとんどが共産主義の鉄のカーテンの向こう側。地政学的にも、最重要地域で、軍事機密。そして、歴史の積み重ねと東西の鬩ぎ合いで、とめどない民族紛争と軍事介入。おまけに、その中心は、じつはウラン鉱石の大産地で、かなりやばい。

 そもそもユーラシアなんていう名前からして、ヨーロッパ+アジアの合成語。ヨーロッパ人の感覚では、ウラル山脈までがヨーロッパ、その東がアジアらしいが、地政学的には、スレイマン山脈・パミール山地・天山山脈・アルタイ山脈・東シベリア山脈という大きな壁がある。この「ユーラシアの壁」の西がヨーロッパ世界、東がアジア世界。

 かつてすべての大陸は一つだった、という百年前のパンガイア理論では、二つに割れたパンガイア大陸の南半ゴンドワナ大陸がばらけて、その一部、インド半島が5000万年前に北半ローラシア大陸に食い込み、ヒマラヤ山脈を作った、というのは有名だが、北半ローラシア大陸からして、ウラル山脈以東と以西が合わさってできたもので、それもこのユーラシアの壁まで。中国や東南アジアは、南半ゴンドワナ大陸のごちゃごちゃと裂けた断片が北半ローラシア大陸に寄ってきて、それを大きなインド半島がぐっと押しつけてくっついた、ということになっている。

 いずれにせよ、ヨーロッパ世界とアジア世界を分けるユーラシアの壁を越えられるところは、「草原の道(ステップロード)」しかない。だが、それこそがアジアとヨーロッパを最短距離で結ぶユーラシアハイウェイだ。

自然地理学的な前提

 地質学的にどうあれ、地理的には、このユーラシアの壁を挟んで、両側は、中央アジアと西域・モンゴルは、双子の乾燥地帯になっている。南に標高600メートルのイラン高原・ヒンデュークシュ高原やチベット高原を控えながら、カスピ海の標高はマイナス40メートル、タクラマカン砂漠に至ってはマイナス130メートル。とんでもない高低差がある。

 おまけに地球の自転で赤道付近に東から西への貿易風が吹くせいで、この中緯度地域は偏西風が吹く。つまり、高原で雪や雨を搾り取られた風がフェーン現象の熱波となって、この低地に襲いかかる。それも、この偏西風は、太平洋の海流しだいで、しばしば大きく蛇行して、とんでもない熱波がこのあたりにずっと居すわることもある。かような事情で、この二つの地域、中央アジアと西域・モンゴルは、大半が砂漠。せいぜい草原(ステップ)。そのくせ、偏西風の蛇行によっては、激しい寒波に襲われ、マイナス20度以下になり、砂漠に雪が降ることも。

 もうすこし細かく見ていこう。中央アジアは、東のパミール山地から巨大なカスピ海へ傾斜している。このために、山の麓には扇状地が広がり、砂漠の中にもアラル海などの塩水湖があって、東から西へ南のアム(オクソス)河と北のシル(ヤクサルテース)河が流れている。これらの河を挟んで、南から、カラクム(黒砂)砂漠、キジルクム(赤砂)砂漠、そして、広大なカザフステップがある。しかし、カスピ海東岸のトゥラン低地は地形的に不安定で、これらの湖や河はしばしば大きく移動してしまう。アム河も古代ではカスピ海に注いでおり、いまアム河が流れ込んでいるアラル海はもはや消えようとしている。

 一方、西域・モンゴルは、西南から東北へ延び、その中ほどを西の天山山脈と東の陰山山脈で挟まれ、西南がタクラマカン砂漠、東北がゴビ砂漠。そして、北にモンゴル高原が控えている。また、天山山脈や陰山山脈の南側には、いくつもの小さな扇状地がある。また、黄河は、大きく陰山山脈まで北上し、崑崙山脈東端の河西走廊へ南下するので、このループの中は、オルドス草原になっている。

人文地理学的な理解

 とにかく水が無い。だから、人が暮らせるのは、山際の扇状地か、さまよう湖や河のほとりだけ。しかし、石器時代、これらのオアシスに人が住み着いた。彼らは、当初は原始的な農業と牧畜を営んでいたが、やがて村の農地を拡大するために、牧畜はオアシス村の外の草原に頼るようになる。

 遊牧民(ノマド)という呼び名は、誤解の元。彼らの生活形態は、あくまでいずれかの地方の定住者。ただ、問題は、水のある湖や河がしばしば大きく移動してしまうこと。そのために、彼らは村と農地を移動させることがある。くわえて、このあたり、夏と冬で寒暖が違いすぎる。このため、農業も外牧も、夏は暑さを避けて山の高原、冬は寒さを避けて麓の山裾に。ただし、夏営地と冬営地は、それぞれの一家で決まっており、あちこちに移動するわけではない。

 また、この地帯、東西交易がさかんで、水に余裕のある大きな扇状地にはオアシス都市ができ、その周辺の農業開発も大規模に進む。このため、都市の大商人などは、自分の牧畜をその外の遠い草原まで連れて行く余裕がなくなり、これを、どのみち自分たちの牧畜を外牧する周辺のオアシス村に委託するようになる。

 やがてオアシス村の中には、中心オアシス都市の外牧受託専従になって、農業などはオアシス都市やその交易に依存するものも出てくる。また、オアシス村も、肉や革、毛織物などの商品をオアシス都市に出し、さらには、都市間の交易輸送、その武装警備などの役務を引き受けるようになる。

 彼らは輸送にもっぱらラクダを使った。乾燥圏に適したフタコブラクダは、偶蹄と肉球で砂をつかんで、二百キロもの荷物を積んで、一日に百キロも歩ける。前のコブを足で挟めば人が乗れないことはないが、もともと右前後足、左前後足と、左右交互に出す側対歩であるために、これが走ると、脚力ではなく、両後足をハの字に開いて背筋と腹筋で砂を蹴って飛ぶような形になり、頭から背中まで龍のようにうねって、人を跳ね飛ばしてしまう。(伝説の麒麟の元か。)そもそも、ラクダは、どこに進むかわからない。だから、ラクダの鼻輪を前のラクダの尻尾とつなぎ、トレインにして、その先頭のラクダの鼻輪を徒歩で引いていく必要がある。

 かくして、個々のオアシス都市に、それぞれの周辺のオアシス村が数多くぶら下がる社会形態となった。これらのオアシス村は、同じオアシス都市の外牧や輸送の役務受託において、たがいに商売がたきであり、同じ地域にあっても、部族として仲がいいわけではない。つまり、民族としての統一性など、一時的な防衛連合でもないかぎり、成り立たない。

 その一方、客人は歓待し保護した。それは、客人が公益上の利得をもたらすからというだけでなく、その背後にどれだけの勢力が控えているかわからないからでもある。あしざまにあしらうと、その報復は自分たちを滅ぼしかねない。また、オアシス都市でも、彼らは文字を持たなかった。これは文化的に遅れていたからではなく、つねに多言語で、文字にする以上に変化が早く、また、へた文章を残すと、継承者が不定で危険だったからだろう。だから、彼らはつねに一期一会の現物決済で、情勢が変われば、かんたんに約束も変わる。

 そもそも、○○人、という呼び方からして、人種や民族の問題ではない。それは、ある時代のある地域での生活形態にすぎない。いわばアメリカ人が多様な出身の人種を含んでいながら、アメリカ人らしい生活と気質を持っているようなもの。おまけに、彼らは、地域内部族間の対立で離散しやすく、また、どこでも周辺民と血統や文化を吸収混交していく。このせいで、彼らは、場所を遷ると生活形態も変わってしまい、名前も別のものになってしまう。

大水害と二つのプロト民族

 しかし、このあたり、最初から砂漠だったわけもない。かつてはパミール山地やチベット高原からの豊かな雪解け水で、大きな湖の周囲に緑の野原、それどころか鬱蒼とした森が広がっていただろう。だが、伝説だと、前5600年ころ、北極海の氷河が融け、西シベリア低地や地中海・黒海からとてつもない量の海水が流れ込み、天山山脈とコーカサス山脈だけを残して、この一帯すべてを水没させた。(それが、ノアの大洪水などの話のもとになった、とか。いまでもカスピ海は、北極海の記憶として、海水魚のニシンが泳ぎ、これをアザラシが食べている。)

 時期はともかく、中央アジアや西域・モンゴルは、かつて巨大な内陸海になってしまったことがある。これがまずいのは、ただでさえ山(かつては海底)から岩塩が流れ出しているのに、内陸海が乾燥で干上がると、塩分濃縮によって植物が全滅し、土壌細菌さえも生きられず、死の砂漠になっていってしまうから。このあたりで素朴な農耕牧畜を営んで人々のほとんどがこの大水害で死滅し、生き残っても干魃と飢饉に襲われ、わずかに天山山脈やコーカサス山脈のあたりに移り逃げた人々だけが助かった。

 この逃げた場所によって、その後の言語系統も大きく二つに分かれたようだ。天山山脈に逃げた人々は、プロトテュルク語で、膠着語(接尾格)でSOV文型。一方、コーカサス山脈に逃げた人々は、プロト印欧語(PIE)で、屈折語(格変化)でSVO文型。いずれにせよ、四大文明より前、前3600年ころからパミール山地西側・天山山脈北側、すなわちシル河源流、現キルギス、河西走廊の山麓扇状地、および、南ロシア平原、すなわち、現ポーランドから黒海北、ウラル山脈までの広大な地帯に、新たな人々が広がっていった。

 プロトテュルク族は、いち早く文明化し、商業化した。彼らは、それぞれの山麓扇状地に、周辺のオアシス村の外牧民とともに大規模なオアシス都市文明を築き、周辺に農地を拡げるとともに、中国から中央アジアに至る交易路をつないでいく。牧畜の羊は、彼らにとって主要タンパク源であり、また、寒暖差の激しい高山山麓にあって必需品の毛皮や毛織物の元で、財産そのものだった。また、彼らは、輸送にはもっぱらラクダを使い、羊やラクダは都市大商人は、その飼育や運用を周辺の外牧民に委託した。

 一方、南ロシア平原のプロト印欧語族ヤムナヤ人は、原始的なままだった。野営ながらも定住して村をなし、農業や牧畜、狩猟を営んでいた。家畜としては肉食用の牛や羊、ヤギが主で、鋤や車を持ち、農耕や運搬に牛や馬を使っている。しかし、馬はまだ、乗れてもロバ乗り(胴輪を掴んで骨盤に乗る)で、単独での騎乗疾駆はできない。また、彼らはすでにウラル山脈で採れる銅を知ってはいたが、柔らかすぎたため、ふだんは石器や木材、動物の骨や角、牙を使っていた。

青銅器の文明変革

 きらびやかな金や銀は、早くから装飾用に用いられていた。しかし、柔らかすぎて、金属器としての用をなさない。銅は、金銀の5倍の硬さがあるが、それでもかんたんに曲がる。鉄はどこにでもあって銅の1.5倍以上も固いが、当時はまだ1500度に達する炉が無く、溶かすことができなかった。

 しかし、前3000年ころから、エジプト、ついでメソポタミア、そして中国で、青銅が発明される。これは、銅の錫(スズ)との合金で、銅や錫が柔らかいのに、これらを溶かし合わせた青銅は、鉄並みに固く、石よりも加工しやすい。融解も銅の1000度でいける。それゆえ、青銅は、武器の素材となり、四大文明圏での王権の支配を劇的に拡大し、高度な文明を発展させていく。(ただし、青銅武器は貴重なので、王の独占。一般兵卒はあいかわらず木製の弓矢と棍棒。)

 かくして、錫は、文明の興廃を握る最重要戦略物資となった。とはいえ、錫は、金以上に希少だった。というのも、錫は、新期造山帯、つまりユーラシア大陸の接合部分にしか無いからだ。エジプトやメソポタミアは、アナトリア半島北西部ケステル鉱山から錫を得た。中国の黄河文明は河西走廊の天然化合物を使い、インダス文明は北のパミール山地から調達した。また、天山山脈周辺のテュルク人は、東のアルタイ山脈のものを広く交易で手に入れた。そして、これらの文明では、鉱山を抑え輸送を握ることが生き残りの鍵となった。

 しかし、大地が古い黒海北岸のあたりは、錫が無い。それで、前2400年ころ、ヤムナヤ人の一部は、プロト・ギリシア人として、セルビア山中で錫が採れるトラキアに移住。彼らは、ここで作った青銅の武器とともにさらに南下し、ギリシア諸都市を興す。また別の一部は、カスピ海東岸トゥラン低地を抜け、イラン高原東北コッペダーク山脈に沿って東に移動し、テュルク語族を押しのけ、前2000年ころ、アーリア人として、やはり錫が採れるバクトリアに住み着く。

 また、前十八世紀、セム語族アッシリア人が、アナトリアの錫を、トレインにしたロバに乗せ、小石だらけのシリア平原をバビロニアまで引いていく輸送で台頭。しかし、前1680年ころ、ここにもヤムナヤ人の一部が黒海東岸を南下してきて、アナトリアからアッシリア人を追放し、錫鉱山の利権を奪って、ハットゥシャ(ヒッタイト)人として建国。

 ところが、その後、東のテュルク側からもフルリ人がイラン高原に侵入し、シリア北半にミタンニ王国を作って南のエジプトと同盟、北の印欧語族ハットゥシャや、エジプトとの間のシリア南半のセム語族アッシリアと対抗。しかし、ハットゥシャは、その隙間をぬって東南のメソポタミア方面に拡大し、前1595年、古バビロニア王国を滅ぼしてしまう。

 同じ前1600年ころ、中国でも、まだ石器を使っていた夏朝(現洛陽市)を、青銅器を得た南の殷(現武漢市)が滅ぼす。敗れた夏朝残党は、黄河沿いに上流へ逃げ、モンゴル高原の南、陰山山脈山麓の鹿城(現包頭市)を拠点に、テュルク語族が支配するユーラシアハイウェイの中国側窓口となって、勢力を残存させ、後に匈奴となる。

 このころ、中央アジアでも、バクトリアの錫で青銅の武器を得た印欧語族アーリア人が、前1500年ころ、ヒンデュークシュ高原カイバル峠を越えて、インダス河流域へ侵入。しかし、なんらかの理由で、当時すでにインダス文明は衰退してしまっていた。このため、侵入アーリア人の一部は、西のシスタン盆地に戻り、また、一部は、さらに東のガンジス河流域へ進み、バラモンとして原住民を支配するカースト制の諸国を開く。

鉄器時代の到来

 前1400年ころ、ハットゥシャ新王国が鋼鉄を発明。鉄は、銅や錫とちがって、どこにでもあるが、ふつうには5%もの炭素を含み、高温でようやく溶かせても、脆い鋳鉄にしかならない。ハットゥシャは、銅鉱石の精錬で、そのケイ素を抜くのに鉄を使っており、偶然に炭素1%以下の柔軟で強靭な鋼鉄を作ってしまったのだろう。

 その後、地元の石炭を使って鉄から炭素を抜く方法を考案するが、これには、ふつう1000度で燃焼する石炭を、鋳鉄の溶解温度1300度まで上げる必要がある。そこで、彼らは山脈上に炉を作り、エテジアンと呼ばれる東北からの強く乾いた夏の季節風が吹き込むようにして、高温を得る工夫をした。この技法は、門外不出もなにも、中央アジアから地中海へ吹き抜ける季節風を遮る半島のアナトリア高原だからこそ可能だった。

 ハットゥシャ新王国は、この鋼鉄によって、青銅器よりも強靭な武器と、馬の疾駆にも耐えられる戦車を作った。ただし、この戦車は、二輪で、馬につなぐ轅(ながえ)棒は中央に一本のみ。その左右に馬を二頭立てでつなぐ。というのも、当時、馬はまだ胴首輪のみであり、手綱で左右それぞれの馬の速度を制御することによってしか曲がれなかったから。

 それでも、鉄製武器とともに、鋼鉄で補強された戦車は、小石だらけのシリア平原で、圧倒的な力を発揮した。ハットゥシャ新王国は、前1330年ころにはミタンニ王国を征服、さらに前1274年ころには、2500両の戦車で、その背後にいるエジプトを地中海東岸カデシュの戦いで撃破。だが、エジプトは、レバノン北部の森の遊牧民アムル王国や、イタリア・ギリシアから来た海の遊牧民「海の民」を傭兵として反撃。戦況は膠着し、平和条約が結ばれた。

 ところが、この後、「海の民」は、前1230年ころ、ギリシアのミケーネ文明を崩壊させ、その残党を吸収して地中海東岸への上陸侵入襲撃も激しくなり、ついには前1190年ころ、ハットゥシャ新王国を滅ぼしてしまう。さらにエジプトを攻撃して、これを地中海東岸から退け、前1080年ころ、東岸パレスティナにペリシテ人として住み着き、現地のイスラエル人を奴隷にしていく。これにイスラエル王国初代サウルが戦うも破れ、前995年ころ、ダビデ王が立って対抗。

 これと前後して、足踏み紐引上げを左右交互に行う革張双壺フイゴが発明され、自然の季節風に頼らなくても、小型の高温炉で鋼鉄がどこでもつねにかんたんに作れるようになり、世界は鉄器時代を迎える。また、インダス文明の衰滅でインド洋貿易ができなくなった紅海のセム語系フェニキア人が、混乱する地中海東岸に入り込み、各種の残存勢力を取り込みつつ、イベリア半島まで地中海全域に及ぶネットワークを張り巡らし、海運貿易商人として活躍するようになった。

中央アジアと天山山脈の諸民族

 ヘロドトスの『歴史』によれば、前十世紀以前、中央アジアには、諸民族がいた。西から、キンメリア、スキティア、マッサゲティア、アルギッピア、イッセドネス、アリマスピア、グリフォンの地、ヒュペルボレウス。その比定地には諸説あるが、これがユーラシアハイウェイに沿っているとすると、次のようになる。

 まず、キンメリア人は、ウラル山脈・ヴォルガ河の東、カスピ海北岸。スキティア人は、カスピ海東岸のトゥラン低地からカラクム砂漠(現トルクメニスタン)にかけて。そして、マッサゲティア(残留アーリア人)人は、アム河上流バクトリア。これらは印欧語族で、黒海北岸ヤムナヤ人が青銅器の原料、錫を求めて東に広がったものだろう。

 しかし、その先は、テュルク語族。カザフステップのアルギッピア人は、禿頭とされるが、おそらくテュルク語族独特の弁髪で、当時、ソグディアナ(現サマルカンド市など)の交易にも係わるものの、大半は北の豊かな奥地(現ヌルスルタン市のあたりか)で半農外牧を営み、大麻(繊維型)やケシ(アヘン)も作っていた。

 イッセドネス(烏孫(イゥッソン)、サカ、塞(さい))人は、中央アジアと中国とをつなぐ谷の要害、現キルギスのイッシク(温)湖付近。ここは、標高1600メートルもの寒冷な高地だが、温泉のおかげで、この谷筋は温暖。(しかし、その後、イッセドネス人はアリマスピア(月氏)に追われ、街も湖底に沈んでしまい、謎となる。)

 アリマスピアは、シルクロードの玄関、敦煌市だろう。その名は単眼国という意味だが、強烈な日差と砂嵐に襲われる西域のタクラマカン砂漠を控え、ここの人々が目を守るために一本スリットのサンドゴーグルを使っていたことに由来するのではないか。

 この先についてヘロドトスは、リーパイオス山の黄金を守る半鳥半獣のグリフォンのみの無人の地としている。じつは、アルタイ山脈は、黄金の山脈という意味。実際、ここにはボロー金山があり、また、このあたりには猛禽類のような頭を持った恐竜プロケラトプスが8000万年前に生息していて、砂中からその化石も多く出土していたので、これを怪物グリフォンの骨と見まがったのだろう。

 そして、最後のヒュペルボレイオス人は、北風の向こう国という意味で、中央シベリア高原、ツングース語族のことだろう。ここは錫をはじめとする鉱山資源の宝庫で、青銅器時代になってから、テュルク語族とのユーラシアハイウェイでの交易が盛んになった。

テュルク語族の弓騎馬革命(前十世紀ころ)

 ヒュペルボレイオス人は、移動や狩猟のために、雪の上でも歩ける偶蹄目のトナカイに騎乗していた。そのオスの角は、繁殖期に戦うために春に生えて秋に落ち、そのメスの角は、子育ての栄養となるエサを雪の中から掘り出すため、秋に生えて春に落ちる。つまり、年中、どちらかに角がある。この角がなぜ重要か、というと、馬具無しに角をハンドルにしてトナカイの向きを変えられるから。

 頭の向きを変えれば、走る方向を変えられる。この習性を、テュルク語族は馬に応用した。馬の口は、草をちぎる前歯と、それをかみつぶす奥歯の間に大きな隙間があり、ここに青銅器のハミを噛ませて、その左右に手綱を付けることで、馬の頭の向きを変えられるようにした。そして、これにさらに鏡板をつけ、アゴを支点とすることで、馬の頭蓋骨全体を大きく操作できるように。さらには、頭だけでなく、首から向きを変えるように、乗馬位置を、操作の支点となる首のつけねの近く、馬の肩甲骨のすぐ後に鞍(軟式、アブミはまだ無い)を乗せた。

 これとともに、弓にも大きな改良が加えられた。それまで矢を遠くに飛ばすには、より大きな弓が必要だったが、木材に骨材などを貼り合わせ、また、W型に上下を逆に反り返らせることで、矢先を支えながらより大きく引ける、短く強い複合弓を発明した。これは、騎乗でも扱いやすく、これによって、敦煌のアリマスピア人は勢力を拡大してユーラシアハイウエイ東半を握り、北西のイッセドネス人を西へ追いやった。

 アリマスピア人の騎馬はまた、カザフステップの草原の道を回らず、西域を抜け、パミール山地の峻厳な谷筋道を越えて中央アジアに最短直行する天山南路を可能にし、西側のバクトリアの印欧語族マッサゲティア人(インドに行かなかったアーリア人)を圧迫した。同じころ、鋼鉄製造法を手に入れたセム語族の新アッシリアは、前934年、鋼鉄製の武器と戦車で、近隣諸民族を征服再編し、中東に帝国を築く。

 このため、バクトリアの残留アーリア人(マッサゲティア人)の一部は、イラン高原を渡り、銅や錫、鉄や石炭の取れる東部ザグレブ山脈西北部に住み着いてメディア人となり、また、インドから出戻った侵入アーリア人も、シスタン盆地(アフガニスタン南西部)からイラン高原を渡って、同山脈東南部住み着いてペルシア人となった。また、ハットゥシャが滅びた後のアナトリアには、黒海西岸トラキア側から新たに印欧語族フリギュア人が入り込んだ。

弓騎馬民と諸民族の激動(前九世紀~前四世紀)

 敦煌のアリマスピア人をはじめとする天山山脈のテュルク語族は、新たな騎乗法と複合弓で、バクトリアを取り戻し、行動攻撃範囲を劇的に拡げ、前九世紀ころ、キジルクム砂漠からアム河南のカラクム砂漠まで支配を確立、カスピ海東岸の印欧語族スキティア人も追い払う。そのため、スキティア人の一部は、カスピ海南岸イラン高原のメディア王国に合流。セム族の新アッシリア帝国は、これを脅威として前835年ころから遠征を繰り返し、前737年にようやくメディア王国を併合。

 スキティア人の別の一部は、カスピ海を東岸沿いに北上。しかし、この一帯には、敦煌のアリマスピア人に追いやられたイッセドネス人(塞、サカ)も逃げてきており、スキティア人はさらに西進を強いられる。このため、カスピ海北岸にいた同じ印欧語族キンメリア(ギミッラーヤ)人は、前714年ころ、黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈を越えて南に逃げ、新アッシリア帝国と衝突。そこで、西のアナトリアへ向かい、フリュギア、そしてリュディアを侵略したが、前640年ころ、やはり新アッシリア帝国に滅ぼされてしまった。

 メディア王国(テュルク語族にバクトリアを追い出された印欧語族アーリア人)は、新アッシリア帝国に併合されてしまったものの、ザグレブ山脈東南部の同族ペルシア王国(インドからの出戻り印欧語族アーリア人)を攻撃して吸収。その上で、同じく帝国内のメソポタミア低地のバビロニアやアナトリア半島のキンメリアなどの残存反帝国諸勢力と連係し、前612年、新アッシリア帝国を滅ぼす。これによって、メディア王国は、一時的ながら、アナトリア半島東半からシスタン盆地(現アフガニスタン西南部)まで広がるイラン高原の支配者となった。

 しかし、前550年、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシアのクル(キュロス)二世が、このメディア王国を滅ぼし、アナトリア半島西半のリュディア王国、メソポタミア低地の新バビロニア王国も吸収。さらに、中央アジアに侵攻し、北部サカ人(旧イッセドネス人)を支配下に納め、大麻で酔わせて東部の新マッサゲティア人(バクトリアを取り戻した天山山脈のテュルク語族)を殺害捕獲。しかし、前529年、女王の猛反撃で、ペルシアのクル二世は戦死。

 ところで、このころ、インドガンジス河流域では、ヴァルナ、いわゆるカースト制が敷かれ、征服アーリア人(印欧語族)が第一位のバラモン(僧侶)、原住帰順民ドラヴィタ人が第三位のヴァイシャ(平民)、そして敗戦民が第四位のシュードラ(労働奴隷)とされていた。では、第二位のクシャトリア(武人)はというと、ペルシア帝国の拡大で、後からインドに逃げ込んだ弓騎馬民(テュルク語族?)であり、その過剰が十六大国の分裂内戦をもたらしたらしい。そして、その争いのさなかの前480年ころ、サカ(シャーキヤ)族の王子として、シッダールタが生まれる。

 一方、ペルシア帝国に負けて捉えられたメディア人やリュディア人、バビロニア人、サカ人などは、奴隷傭兵とされた。この大量の兵力を得た皇帝ダーラヤワウ(ダレイオス)一世(522BC~486BC)は、北のコーカサス山脈をおびやかす黒海北岸のスキティア人を背後から追うべく、前513年、黒海西岸トラキアへ遠征。しかし、スキティア人は、東に逃げてしまって、戦闘にならない。

 続くペルシア戦争(499BC~449BC)では、皇帝ダーラヤワウ一世(522BC~486BC)は、西のギリシアと戦ったが、その間に、黒海北岸のスキティア人が逆に南下し、トラキアを奪取。そして、彼らは、四世紀、荒れるギリシアに代わって、アドリア海に抜けるバルカン半島横断ルートを支配し、スキティア王国としての繁栄を謳歌。しかし、南のマケドニアにピリッポス(フィリップ)二世(382BC~36BC)が登場して、このスキティア王国を攻撃。ヨーロッパの原住民、ケルト人がこれを黒海北岸へ押し返した。

アレクサンドロスの東征と影響(前四世紀~前二世紀)

 前四世紀後半、マケドニアのアレクサンドロス大王(356BC~323BC)が東征。ペルシア帝国を滅し、バクトリアを経て、前329年、中央アジア、ソグディアナのサマルカンド市まで到達。同地のマッサゲティアを服属させ、その族長の娘ロクサネと結婚するも、シル(ヤクサルテス)河北のサカ人(旧イッセドネス人、サカ、塞)は頑迷に抵抗。その一部は、ヴォルガ河を越えて逃げ、黒海北岸のスキティア人を吸収し、サルマティア人となる。

 アレクサンドロス大王が去った後、後継者争いの末、その帝国の地中海東岸からインダス河までをセレウコス朝シリア(312BC~63BC)が継承。しかし、同じころ、チャンドラグプタ(?~c298BC)がインドを統一して、マウリヤ朝を建て、前305年ころ、インダス河の西、スレイマン山脈までを奪還。前三世紀半ばにはアショーカ王が登場し、版図を南へ拡大し、仏教を隆盛させる。

 このころ、天山山脈は、中央アジア側を新マッサゲティア人、中国側を月氏(アリマスピア)が抑えており、無人のモンゴル高原ゴビ砂漠を挟んで、東北にはツングース語族の東胡(ヒュペルボレイオス)がおり、また、モンゴル高原ゴビ砂漠の南、黄河が大きく北に回り込む陰山山脈南麓の鹿城(現包頭市)には、前1600年ころに青銅器の殷朝に敗退した前夏朝残党、匈奴(ヒュンヌ)が暮らしていた。ところが、その鹿城の80キロほどの真北、内モンゴルのバヤンオボー(豊穣な神の山)で、露天掘りのできる巨大鉄鉱床が見つかった。これによって、匈奴は大量の鉄器を手にして、戦国時代(403BC~221BC)で混乱する中国に騎馬で攻め込むようになる。

 同じアレクサンドロス帝国後継国のセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトとがシリアで戦っている間(274BC~241BC)に、前256年、アレクサンドロス大王によって植民されたギリシア人が東部のヒンデュークシュ高原(現アフガニスタン東北部)でグレコバクトリアとして独立。また、前247年、カスピ海東岸の印欧語族スキティア人の残党の一部が南下し、イラン高原北部にパルティアを建国。前212年、セレウコス朝シリアは、パルティアおよびグレコバクトリアへ遠征し、かろうじて両国を支配下に回復する。

 一方、中国では、ようやく統一を果たした秦の始皇帝(221BC~210BC)は、鹿城に至る直道と、国境の長城を築いて匈奴に対抗。しかし、匈奴では、前209年、バガトル(冒頓)が父王を殺して政権奪取し、中国東北部のツングース語族の東胡を滅ぼして、さらに中国を浸食。秦を継いだ前漢(206BC~8AD)は、匈奴を攻めるも失敗し、かえって毎年に貢納を収めるはめに。匈奴は、さらに敦煌の月氏(アリマスピア)も追いやって、西域へも進出。かくして、匈奴は、モンゴルから中央アジアに渡る大帝国を誇るようになる。

 スキティア人残党が興したパルティアは、前202年、第五次シリア戦争でエジプトに勝利するも、第二次ポエニ戦争(219BC~201BC)でカルタゴを潰して勢いづくローマとの戦い(192BC~188BC)に敗退して、内紛に陥った。このころ、匈奴に追われた月氏(アリマスピア)は、中央アジアに入ると、ソグディアナに残っていたサカ人(旧イッセドネス人(乙))を追い出し、さらに、南にできたグレコバクトリアやパルティアと衝突していた中央アジアの新マッサゲティア(大夏(ダイゲ))人に合流して、大月氏となる。

 このため、その支配下にあった旧マッサゲティア人(残留アーリア人)の一部は、北のカザフステップに逃げて康居(印欧語族)を建国。そのせいで、黒海北岸のサルマティア人(スキティア人を吸収した旧イッセドネス人)がさらに西に追いやられ、アラン人と呼ばれるようになった。また、大月氏にソグディアナを追われたサカ人(旧イッセドネス人)の一部は、パルティアに逃げ込んだ。

 グレコバクトリアは、パルティアと同盟して守りを固める一方、インド・マウリア朝の衰退に乗じ、前200年、ヒンシュークシュ山脈を越えてガンダーラ地方へ拡大し、インドグリーク朝を建国。しかし、パルティア(カスピ海スキティア人残党の国)は、このすきにバクトリア西部を奪取。また、シリアがユダヤ反乱に追われている間に、アルメニアやメディアがシリアから離反したため、パルティアは、前155年、メディアを奪い、前141年にはバビロニアをも征服。また、大月氏も、配下諸部族を使って、前140年ころ、グレコバクトリア本国を征服してしまい、敗退した残党はインドグリーク朝に逃げ込み、内戦に陥る。

戦闘部族としての匈奴とサカ人(前二世紀~後一世紀)

 中央アジア側のバクトリアで宿敵の大月氏(かつて匈奴を支配していた敦煌のアリマスピア人)が勢力を取り戻したことに対し、匈奴は、シル河北に残っていたサカ人(旧イッセドネス人)を支援して、印欧語族アーリア人(旧マッサゲティア人)の康居を西に押しのけ、本来の居住地であるイシク湖周辺に烏孫(イゥッソン)国を再建させ、大月氏を北から牽制。

 しかし、前漢の武帝(141BC~87BC)は、むしろ外交官の張騫を大月氏に派遣して、匈奴の東西からの挟撃を打診。だが、大月氏は、西のパルティアとの対立でそれどころではなかった。そこで、武帝は、前119年、こんどは張騫を烏孫に派遣し、匈奴から離反させて同盟を組もうとするが、烏孫は留保。

 同じころ、イラン高原では、セレウコス朝シリアのアンティオコス七世が、パルティアの征服したバビロニアやメディアを奪還。しかし、メディアに反乱が起こり、これに乗じて、前129年、パルティアのフラハート(プラアテス)二世はアンティオコス七世を殺害。

 ところが、こんどはパルティア内で、給与未払いに怒った傭兵サカ人が反乱を起し、その鎮圧に向かわされたシリア兵捕虜が寝返って傭兵サカ人側に加わり、同前129年、フラハート二世を殺害。次のアルタバーン一世も、前124年ころ、大月氏配下部族トカラ人に殺されてしまう。

 シスタン盆地(アフガニスタン)のサカ人は、混乱するインドグリーク朝に、東のスレイマン山脈を越えて侵入し、前90年ころ、インドサカ朝を開く。また、中国では、前72年、匈奴に攻められた烏孫に、前漢は五万騎の援軍を出し、西側から総勢二十万で反撃。おりからの大雪で匈奴は大敗を喫し、一気に弱体化。周辺諸国も離反し、前漢は、匈奴から内モンゴル、ついで西域も前59年には取り戻した。

 一方、パルティアは、ローマとの抗争で弱体化し、大貴族がかってに東方に私領を拡げ、インドサカ朝を吸収して、インドパルティア王国として独立。同じころ、大月氏の内部でも、配下のクシャーナ族(インドからバクトリアに出戻った印欧語族アーリア人のクシャトリア?)が他の四部族を滅ぼして政権を握り、前25年、中央アジアに大国クシャーナ朝を開き、南下してインドパルティア王国からシスタン盆地(アフガニスタン)をも奪う。

 中国北部の大帝国、匈奴は、政情不安に陥り、紀元48年、南北に分れて内紛。北のモンゴル高原では、支配下にあった東胡残党の鮮卑(クシァーンベーイ)が盛り返し、後漢の遠征で91年に北匈奴は敗走。一方、南匈奴は後漢に服属して、鮮卑に対する防衛に当たらされる。

安定の後二・三世紀と隠れ匈奴

 後二世紀になると、地中海世界をローマ帝国、中東をパルティア王国・サーサーン朝ペルシア帝国、中央アジアをクシャーナ朝、モンゴルを鮮卑、中国を後漢・三国、と、それぞれの地域世界を大帝国が安定して支配するようになる。逆に言うと、これまでの諸部族は、これらのいずれかに吸収された、ということであり、また、大帝国と大帝国が接するところでは激しい紛争がつねに続いていた、ということでもある。

 これらの大帝国の外に残されていたのが、ユーラシアハイウェイの北側。西から、黒海北岸のアラン人(スキティア人+イッセドネス人)と、カザフステップ東半の康居人(印欧語族旧マッサゲティア人)天山山脈北側西部の烏孫人(復興イッセドネス人)。これらは、半農外牧で、夏営地と冬営地を往復移動する、いわゆる遊牧民的な生活を営み、落ち着いていた。

 さて、鮮卑に中国を追われた北匈奴が、フン族としてヨーロッパを襲撃する四世紀半ば年まで、二百年以上、どこかでひそかに勢力を温存、それどころか拡大していたとすれば、カザフステップの西半しかない。ここへなら、追撃する鮮卑を避けてユーラシアハイウェイの天山山脈北側より手前で西北に抜け、西シベリア低地に近い草原を通ってたどり着くことができる。

 もとより匈奴が中国北部で台頭した理由は、鋼鉄の量産。じつは、ウラル山脈の東、西シベリア低地との境、コスタナイにも、露天掘りができる巨大鉄鉱床がある。おそらく彼らはここ鉄鉱石を採って鋼鉄の武器や馬具を大量に作り、武装強化する諸大帝国に販売していたのではないか。実際、このあたりは地の利がある。ヴォルガ河経由で、ローマ帝国につながる黒海にも、パルティア・ペルシアにつながるカスピ海にも出られる。重量のある鋼鉄の武器や馬具を運ぶには、ラクダより水運だろう。

 馬具として決定的だったのが、彼らの発明したアブミ。中国の馬に対して、中央アジアの馬(いわゆるフェルガナ馬)は大型で、それに乗るためには足かけが必要になった。だが、これを鞍の両側に付け、騎乗して立つと、馬の振動を足で吸収して、弓射の精度が劇的に向上した。しかし、アブミを付けたとしても、それで正確な騎乗弓射ができるようになるには、相応の訓練が必要だっただろう。

 だから、鋼鉄の武器や馬具以上に隠れ匈奴の中心的な仕事になったのは、ローマやパルティア・ペルシアへの弓騎馬傭兵の派遣業だろう。このころ、東西交易路は、サマルカンドから西は、大型の戦車や荷馬車が通れるクシャーナ朝、パルティア・ペルシア、ローマの整備された交通網を使うように、南へ大きく迂回してしまった。このため、カザフステップと黒海北岸を抜ける従来のユーラシアハイウェイ西半は廃れ、ラクダのキャラバンなど時代遅れになってしまった。

 このため、定住農業の拡大、人口の増加にもかかわらず、ユーラシアハイウェイ西半の肥沃なオアシス都市(シル河沿いの都市、黒海・カスピ海・アラル海の三角州都市)の交易は失われ、これにぶらさがるアラン人や隠れ匈奴人、康居人などの周辺のオアシス村も、その大商人たちからの外牧や輸送、護衛などの役務委託を得られなくなった。しかし、彼らの農業も牧畜も、過剰な穀物や羊毛など、商品化を前提としており、南の諸大帝国への輸出だけでなく、人間の輸出、つまり、傭兵として出稼ぎもせざるをえなかっただろう。

 幸い、この時期、大帝国相互の国境競り合いは激しかった。ローマ帝国では、かなり前から自弁重武装の国民兵など集めることなどできず、二世紀になると、帝国そのものが縮小に転じ、周辺征服民を兵卒として徴用することさえできなくなっていた。また、この時期、戦い方からして、最終決戦型の歩兵戦ではなく、定期巡回型の騎馬戦がつねとなっていた。(いわば国境警備防衛の主力が常駐の戦車隊からスクランブル発進の戦闘機に変わったようなもの。)

 それゆえ、ショット&ランができる弓騎馬傭兵は国境警備防衛に最適で、ウラル山脈東の隠れ匈奴は、旧ユーラシアハイウェイ西半の過剰外牧民たちを弓騎馬傭兵に仕立て、鋼鉄の武装(カタフラクト)込みで、黒海やカスピ海の船を使い、ローマとパルティア・ペルシアの双方に大量供給していたのではないか。

フン族来襲の目的(400年ころ)

 その隠れ匈奴が、四世紀後半、フン族として突然に再登場する。しかし、ほんとうに突然だったのか。フン族がウラル山脈・ヴォルガ河を越えて黒海北岸、アラン人を征服するのは、370年ころ。しかし、彼らの最初の襲撃目標は、東ゴート人。これが、375年にローマ帝国の保護を求めた、というのが最初の記録。

 ゴート人は、もともと現ポーランド、バルト海沿岸にいた。しかし、ここは、南ロシア平原の西端ながら、内陸のヴィスワ河流域は、痩せた砂地(つまり、乾燥していないだけの海没砂漠)で、農業も牧畜もできない。だから、彼らは、本来、漁民だった。それが、二世紀、南下移住を始め、ヴァンダル人とサルマティア人の間に割って入り、黒海北西岸に到達。北ロシア湿原のスラブ人なども吸収し、三世紀にはさらにバルカン半島へ下って、さかんにダキア(パンノニアとトラキアの間の山地、金銀などの鉱物資源の宝庫であり、ローマ帝国繁栄の生命線)の侵略を試みて、地中海にも進出している。

 つまり、彼らはもともと、先のフェニキア人、後のノルマン人などと同様の海の遊牧民であり、貿易か漁労の状況の変化で移動したのだろう。黒海や地中海の沿岸漁村を急襲する海賊は得意だったのかもしれない。だが、内陸ダキアでの陸戦はどうしたのか。それも、相手は、先進文化のローマ大帝国。記録には無いが、隠れ匈奴、フン族の弓騎馬傭兵に頼った、としか考えられない。

 海の遊牧民として、彼らは、かつてのスキティア王国以上に、トラキアからバルカン半島を東西に横断してアドリア海に出るルートを必要としていた。そのために、ダキアの鉱物利権、ないし、そのローマの補償金という未収資産を担保にするLBO(レバレッジド・バイアウト、奪う資産で返済を約束)で、フン族から弓騎馬傭兵を借りたものの、いっこうに成功せず、フン族の取り立てを食らったのではないか。それが、敵対していたローマに逃げ込んでも、よい扱いを受けられるわけがない。

 ローマ側に関しても同じような状況で、四分統治を強いられるほど、内政にまとまりを失っていた帝国が、全方位に広がりすぎた周辺国境をすべて自力で守れたわけがない。やはりフン族の弓騎馬傭兵を使って、ゴート人の侵略に対する防衛を行っていたのだろう。そして、これもまた支払いができず、フン族アッティラ王は、東ゴートに続いて、取り立てのためにローマに来襲し、433年、鉱物資源の宝庫であるダキア山地を含むパンノニア(現ハンガリー)を差し押さえ、そのうえで、帝国から、毎年金250キロ(十億円相当くらいか)を貢納(返済)する約束を取り付ける。

 この後、アッティラ王は、サーサーン朝にも取り立てに行くが、コーカサス山脈の南で敗退。この隙に、ローマは姑息にも、教会を使ってパンノニアに入り、フン族の神聖な墳墓を暴いて、そこに隠されていた財宝を奪う。アッティラ王はいよいよ激怒してヨーロッパに取って戻り、バルカン半島を南下。443年、首都コンスタンティノープル市を攻囲。皇帝は、金2000キロの賠償金と毎年金700キロの貢納(返済)を認め、アッティラ王に引き上げてもらった。いずれにせよ、このことからフン族の目的は、破壊や略奪ではなく、カネだったことがわかる。

 ところが、ローマは、449年、アッティラ王の暗殺を試みて失敗、翌450年には貢納も止めてしまう。451年、カタラリウム(パリ市の東100キロ)で、ローマ大帝国は残る配下のゲルマン人フランク族や西ゴート族、ブルグンド族、サクソン族を掻き集め、アッティラ王と決戦。双方の消耗に終わり、翌52年、アッティラは続けて西ローマ分帝国の首都だったはずのミラノ市を襲撃。しかし、西分皇帝は逃亡した後。そこで、アッティラ王はさらにイタリア半島へ南下し、帝国の原点ローマ市をめざす。もはやローマ大帝国側には、なんの手駒も無い。にもかかわらず、ロンバルティア平原のポー川の手前で、皇帝ではなくローマ教皇レオ一世が会見し、ふたたびアッティラ王を引き上げさせることに成功した。

 とはいえ、教皇の威光でアッティラ王が引き上げた、などというわけがあるまい。コンスタンティノープル市攻囲を解かせたとき以上の破格の条件をローマ大帝国が提示し、これをローマ・カトリック教会が裏書保証した、というのが真相だろう。

 しかし、あまりに多くの部族を配下に収め、慣れないヨーロッパのあちこちを駆け巡ったフン族の中では、疫病が蔓延。翌453年、パンノニアに戻ったアッティラ王も、自身の結婚式の席で死去。おそらくローマ側による暗殺。翌年には、配下の部族から反乱が起こり、フン族帝国は瓦解。歴史から消えてしまう。

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