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第五章 四カ国紛争の混迷(385~360 BC) 第三節 盟主無き閉塞 (382~c360 BC)

 プラトーンの第三回シチリア島訪問 (362~60 BC)

 シチリア島東岸南部のシュラークーサー将国の青年将主ディオニューシオス二世は、アテヘェネー市のアカデーメイア学園で交際を広げる叔父義弟ディオーンを羨み恐れ、父王ディオニューシオス一世と同じく、多くの知識人を宮廷に招きました。その中には、ディオニューシオス一世以来、シュラークーサー宮廷に出入りしているアフリカ北岸東部(現リビア)の「キューレーネー学派」の老アリステヒッポス(約七三歳)もいました。

 しかし、多くの知識人たちと会えば会うほど、ディオニューシオス二世には、かえって、[尊敬できるのはプラトーンだけ]との思いが強まっていってしまいます。そこで、六二年、ディオニューシオス二世(約三三歳)は、ふたたびプラトーンをシュラークーサー将国宮廷に招聘しようとします。

 ここにおいて、彼は、イタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース市士国のピュータハゴラース政治教団将軍アルキュータース(六八歳)に仲介してもらうこととし、その弟子のアルケヘデーモスに、[プラトーンが来てくれれば、ディオーンも許す]との手紙を持たせ、大きな三段櫂船で迎えに行ってもらいます。そして、翌六一年、老プラトーン(六六歳)は、ディオーンとも親しい甥のスペウシッポス(約三四歳)らとともに、やむなく三たび、シュラークーサー将国を訪問することにします。

 同六一年、アテヘェネー市では、政治家カッリストラトス(約五九歳)がふたたび弾劾され、彼はマケドニア王国に亡命してしまいました。こうして、もはやアテヘェネー市には、定見ある政治家はいなくなり、混迷はいっそうひどくなっていきます。一方、マケドニア王国王ペルディッカース三世は、こうして亡命してきた政治家カッリストラトスの協力によって財政を改革し、勢力を拡大していきました。

 将主ディオニューシオス二世(約三四歳)は、いやいやとはいえ招聘に応じてくれた老プラトーンを大歓迎しますが、肝心のディオーンのことになると、うやむやのままでした。そのころ、天文計算学者エウドクソス(約四七歳)が日蝕を予言しましたが、シュラークーサー宮廷にいた老アリステヒッポス(約七四歳)もまた、「将主ディオニューシオス二世とプラトーンも、そのうち衝突するだろう」と予言しました。

 はたして、将主ディオニューシオス二世は、[国外にいるディオーンの財産は、その息子のものである]とし、[息子に父親が不在の場合、その伯父が代わって財産を管理する]として、結局、ディオーンの財産を自分のものにして売却してしまいます。というのも、ディオーンは、彼の異母妹の婿だったからです。この処置に怒って老プラトーン一行が帰国しようとすると、将主ディオニューシオス二世は、傭兵部隊に命じて、一行を軟禁させてしまいます。

 しかし、もとより傭兵たちは、老プラトーンによって政体が改変されると自分たちが解雇されてしまうと恐れており、捉えた一行の暗殺と謀ります。そこで、老プラトーンは、イタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース市士国のピュータハゴラース政治教団将軍アルキュータースに手紙を書き、救出を求めます。この状況を知って、将軍アルキュータースは、ただちにディオニューシオス二世に圧力をかけ、こうして、翌六〇年、老プラトーン一行はようやく帰国することができました。

 ディオニューシオス二世は、未練がましく、帰国直前まで熱心に老プラトーンの機嫌を取ろうとしていました。そして、いよいよ帰国となって、彼が「お戻りになられたら、さぞ私を悪くおっしゃるのでしょうね」と言うと、老プラトーンは「それほど暇ではありません」と、つれなく答えました。

 老アゲーシラーオス最後の活躍 (362~60 BC)

 エジプト王国は、征服民族パールサ大帝国と長年の緊張関係にありました。しかし、パールサ大帝国第七代皇帝アルタクシャティラー二世(約六八歳)は、すでに老年で求心力を喪失し、メソポタミア内陸シリア州や小アジア半島東部カッパドキア州など各地で離反が続出。同半島西南部カリア州総督マウソーロスも、同半島中部プフリュギア州総督アリオバルザネース(約六八歳)も、すでに独立将主のようになってしまっていました。エジプト王国王テヘオス(タクホース、?~即位363~60 BC)は、この機にパールサ勢力をエジプトから撃退すべく、その海軍基地プホエニーカ地方の攻撃を計画します。そして、高名なスパルター士国エウリュプホーン家老王アゲーシラーオス(八二歳)に傭兵参謀としての協力を依頼します。

 もっとも、このころ、パールサ大帝国では、名門延臣プハルナバゾスの息子アルタバゾス(c390~就任c362~引退28~? BC 約二八歳)が、小アジア半島に乗り込み、同西岸南部ロドス島出身の義弟(妻の弟)メントール(c395~c40 BC 約三三歳)とその弟メムノーン(c390~33 BC 約二八歳)を傭兵隊長に取り立てて、六二年頃には、東部カッパドキア州総督将主ダタメースも、中部プフリュギア州総督将主アリオバルザネースも追い払ってしまいます。また、これには、傭兵軍人カハリデーモス(約三三歳)も参戦し、大いに活躍します。

 青年アルタバゾスは、プフリュギア州を世襲所有してきた名門延臣プハルナバゾスと皇帝アルタクシャティラー二世の皇女との間の子であり、したがって、皇帝の孫です。

 スパルター士国は、ペロプス半島西南部メッセーニア地方の喪失とテヘェベー民国の侵攻によって、このころもはやひどく窮乏していました。そこで、老王アゲーシラーオス(八三歳)は、エジプト王国王テヘオスの依頼に応じて、六一年、王子アルキヒダーモス三世(約三九歳)にエウリュプホーン王家王位を譲り、高齢にもかかわらず、ひとりエジプト王国へ向かいます。エジプトの人々は、高名なアゲーシラーオスに多大な期待を抱いていましたが、港に着いたのが、あまり見映えしない小柄で貧相な老人だったので、とても失望します。エジプト王国王テヘオスも、やむなく自分で総指揮を執り、アテヘェネー民国から再び招いた傭兵将軍カハブリアース(約五九歳)に海軍を任せ、老アゲーシラーオスには傭兵部隊しか預けませんでした。

 富裕軍人カハブリアースは、八〇年代末、エジプト王国傭兵将軍として活躍し、パールサ大帝国エジプト鎮圧軍を撃退しており、敗退続きのスパルター士国王アゲーシラーオスとは信用が違いました。

 こうして、エジプト王国軍は、パールサ大帝国の海軍力の中心である地中海東岸プホエニーカ地方へ遠征に出発したのですが、そのうち、ネクタネボス二世(?~360~41 BC)が軍事クーデタを起し、傭兵将軍カハブリアースや傭兵隊長老アゲーシラーオスに協力を要請します。これに対し、カハブリアースは国王テヘオスの側に残りましたが、老アゲーシラーオスは、スパルター士国の利益を理由に、ネクタネボス二世側に寝返り、国王テヘオスは傭兵たちに見捨てられて逃げ出します。

 クーデタは、仏語で「coup d'Etat(国家の打撃)」です。これは、人員だけ変更して政体は維持するという意味で、政体ごと変革する「革命(レヴォリュション)」とは区別されます。もっとも、中国の伝統的な「革命」は、実際は、クーデタに近いものかもしれません。
 米国は、行政の長である大統領や州知事の交代とともに、行政官職も勝った政党がぶんどる猟官制(スポイルズ=システム)を採っており、これによって、旧官僚が罷免され、新人材が登用されるようになっています。つまり、これは、言わば、民意を反映するために、クーデタを政治体系にあらかじめ組み込んだものです。江戸時代の日本も、名目上は世襲制ですが、実際上は御三家の政党制で、将軍が代われば官僚も代わったのであり、猟官制になっていました。

 けれども、今度は、さらに別の人物が蜂起して、ネクタネボス二世と対立。ネクタネボス側に就いていた老アゲーシラーオスは、急襲を進言しましたが、信用されず、籠城戦になってしまいます。しかし、食料の備蓄が足らず、兵士たちはもはや突撃玉砕を望むようになりますが、老アゲーシラーオスは慎重にこれを留め、ヘッラス人傭兵たちで陣形を守って、一気に反撃し、打破します。この一件以来、ネクタネボス二世は、老アゲーシラーオスをおおいに信頼し、ずっとエジプトに留まるよう懇願しましたが、老アゲーシラーオスは、貧窮するスパルター士国に報賞金を届けるべく、すぐに帰国。しかし、その途中で亡くなってしまいます。

 樽のディオゲネース (362~60 BC)

 アテヘェネー市北のデーリオン市出身のヒケシアースは、遠い黒海南岸中部、シルクロードのヘッラス系植民都市シノーペー市の両替商で、六二年以降はパールサ人総督に代わって貨幣を作るほどになっていました。そして、その貨幣は、良質で信用が高く、エーゲ海~小アジア半島で広く普及していました。ところが、その息子ディオゲネース(c404~323 BC 約四四歳)は、貨幣を改鋳して、質をごまかし、このことが発覚すると、老父ヒケシアースは投獄され死亡。一方、息子ディオゲネースは、どこかへ逃亡してしまいます。

 シノーペー市は、ヘッラス人が植民する以前から、シルクロードの要衝として、大いに繁栄していました。

 アテヘェネー市に乞食として流れ着いたディオゲネースは、キュノサルゲス(白犬)体育場の「キュニコス学派」の老アンティステヘネース(約九五歳)に入門します。そして、師アンティステヘネースよりも徹底して清貧に努め、ボロ袋ひとつにわずかな全財産を入れ、まさに犬のような生活を送りました。彼は家を持たず、いつも酒樽をねぐらにしていたので、「樽のディオゲネース」と呼ばれることになります。

 トルストーイ(1828~1910、同名作家が三人もいるので注意)の童話に「王様のシャツ」(1875)という話があります。あるとき、王様が重病となりました。医者は、幸せ者のシャツを着せなければ治らない、と言います。そこで、王様は、どこかに幸せ者はいないか、国中を探させました。ところが、傷んだ粒のないザクロはないように、誰もが何かの不幸不足、不平不満を抱えています。ようやくたった一人、ほんとうの幸せ者が見つかりましたが、彼はシャツすら持っていませんでした。

 もっとも、ディオゲネースは、昔のソークラテースに劣らぬ強烈な毒舌皮肉家で、人々が財産や他人の話ばかりして、自分自身の霊魂の世話をしないことを強く非難していました。たとえば、このころ、アテヘェネー市では、あいかわらずデーメーテール教のエレウシース神殿の秘儀が小市民たちの間ではやっていましたが、ディオゲネースは、「エパメイノーンダスやアゲーシラーオスのような立派な人物が冥界で苦しみ、秘儀を受けただけのクズどもが幸福の島で楽しむなどというわけがない」と言って、侮蔑していました。

 また、ある金持が彼を招いて、新築の豪邸を延々と自慢したときも、彼は急にせき込んで、その金持の顔に痰を吐き付けました。そして、「ごめんごめん、そこ以外はみんな立派だからね」と言いました。また、彼は、昼間からランプをかざし、「誰か人間はいないか」と大声で叫び歩いたので、みんな何事かと顔を出すと、「おまえらは人間の数に入らない」と言って棒で追い払いました。

 老プラトーンの耄碌 (c360 BC)

 ペロプス半島西北エェリス地方の六〇年の「オリュムピア祭」には、シュラークーサー将国から帰国したばかりの老プラトーン(六七歳)一行も見物に出かけ、ここで亡命中のディオーン(約四八歳)に会いました。しかし、彼の故国のシチリア島シュラークーサー将国で将主ディオニューシオス二世が彼の財産を詐取し、彼の妻も別の男と再婚させたことを話すと、彼は怒りに狂ってディオニューシオス二世の倒伐を誓います。老プラトーン本人は、高齢と思慮ゆえに協力を断りましたが、アカデーメイア学園でディオーンと親しんだスペウシッポス(約三五歳)やカッリッポス(約三五歳)らは、勇んでともにその計画を練ります。

 また、このころ、ペロプス半島西南メッセーニア地方では、テヘェベー民国の主導で新都メッセェネー市の建設が継続されており、人々は、その憲法起草に老プラトーンの協力を希望しました。しかし、老プラトーンは、自分の理想とする財産共有政体を彼らが否定しているので、これを謝絶しました。また、アテヘェネー市では、前六一年にエジプト王国のクーデタで失敗した傭兵将軍カハブリアース(約六〇歳)が死刑の告訴を受けていましたが、老プラトーンは、ひとり勇敢にこれを弁護して救援しました。

 これまでアカデーメイア学園は対論や自習が中心で、ほとんど講義はありませんでしたが、このころ、老学長プラトーンは、とつぜん、公開講義をやる、と言いだします。これには、上級弟子のスペウシッポス、クセノクラテース、アリストテレースらはもちろん、一般の人々も数多く集りました。主題は〈善〉についてでしたが、難解な論理数学的方法でただひたすら〈善〉の唯一性を論じるもので、〈善〉の内容や、それを手に入れる方法については語られず、結果、嘲笑と侮蔑を浴びたたけの惨憺たる失敗。このため、老学長プラトーンみずからが講義することは、後にも先にもこの一回限りのものとなりました。

 言葉は、ただ真理を写し取るものではなく、あくまで人に語り掛けるものであり、論文を嫌って、あえて対論形式の著作を好んだプラトーンなら、このことは熟知していたはずです。なのに、なぜ彼がこんな一方的な公開講義を行ったのか、とても奇妙です。
 一説には、ここで彼は、対論篇にない秘伝奥義と言うべき〈理念数(イデアー数)〉の構想を解説した、とも言われます。それは「不文の教説(アグラパ=ドグマ)」と呼ばれ、アリストテレースがプラトーンの教説としながらもプラトーンの著作に見られない謎の理論です。それは、〈理念(イデアー)〉をそれぞれの事物の本質原因と見なし、多様な〈理念〉の一般要素として、さらに実在(ウーシアー)の原理(アルケヘー)である個物限定の〈一〉と、質料(ヒュレー)の原理(アルケヘー)である大小不定の〈二〉と考え、[〈一〉と〈二〉の組合わせによって、すべての〈理念〉が論理的に構成されうる]とするものであったようですが、詳細は不明です。
 いずれにせよ、この老学長プラトーン自身の公開講義以降、アカデーメイア学園において講義が増え、それとともに、硬直した教条主義的な風潮が強まっていったことが想像されます。そして、それが、後にアリストテレースの離反を招く原因となったのでしょう。

 老プラトーンの権威失墜 (c360 BC)

 このころ、エーゲ海中央のデェロス島の太陽神アポッローンの祭壇を倍の大きさにするように、との神託があり、この問題がアカデーメイア学園に持ち込まれ、学長代理の天文計算学者エウドクソス(約四八歳)らがその解決に当たります。ここにおいて、彼は、かつてエジプトで学んだような土地や建物の測量方法を工夫して、この問題を解消しようとしましたが、老学長プラトーン(六七歳)は、それを純粋崇高なる理念的数学に不純卑俗な経験的誤差を交える邪道な解決として激しく非難しました。というのも、数学は純粋理念的でなければ、霊魂浄化としてオルプヘウス教的な意味がない、と彼は考えていたからです。

 しかし、この非難は、エウドクソスが専門とする《天文計算学》の根本にも関わっていました。後の『ティーマイオス』(c357 BC)で明らかになるように、老プラトーンは、[一切の観測を無視して、純粋な観念だけで考察してこそ、天文の真相が解明されうる]と考えており、彼からすれば、エウドクソスのように角速度の観測を基礎として軌道や周期を考えるなどというのは不純で、科学の根本を理解していない、と思われたのです。しかし、逆に、エウドクソスからすれば、プラトーンの思弁的な《天文神学》こそ、まったくの妄想の産物であり、彼の嫌いな《占星術》よりひどい最低の疑似科学でした。

 かくして両者は決裂。学長代理のエウドクソスは学園を辞め、さっさと小アジア半島西岸南部の故郷クニドス市に帰っていってしまいました。一方、クニドス市は、人格的にも高潔な博学者エウドクソスの帰国をおおいに歓迎し、彼に憲法の起草を依頼。以後、彼は、故国の政治家として活躍します。

 また、先ごろから「人間」を探していた樽のディオゲネースは、このころ、生きたニワトリの羽根を力づくで毟り取って、アカデーメイア学園に駆け込み、「やっと人間をみつけたぞ」と言って、痛さに暴れ騒ぐ裸ニワトリを老プラトーンに投げ付けました。というのも、老プラトーンは、講義で、人間を「羽根のない二本足の動物」などとと定義していたからです。

 以後、プラトーンは、人間を「羽根のない二本足の、つついたりひっかいたりしない動物」と定義し直しました。この「羽根のない二本足の動物」という定義は、『政治家』(c360 BC)の初めの方に出てきます。

 また、老プラトーンが町を歩いていると、道端に樽のディオゲネースが座り込んで、一つのイチジクを食べようしていました。そして、ディオゲネースは、「イチジクを分けてやる」と言います。そこで、老プラトーンがうっかり貰って食べると、ディオゲネースは、「全部やるとは言っていない」と言って、猛然と怒り出しました。

 しばらくして、こんどは樽のディオゲネースが突然に老プラトーンの家を訪れ、「ワインを分けてくれ」と言います。老プラトーンは、先日のこともあったので、彼に樽ごとくれてやりました。すると、ディオゲネースは、「全部くれとは言っていない」と言って、また猛然と怒り出しました。そして、そのとき、ようやく老プラトーンは、ディオゲネースが自分の《理念(イデアー)論》の分有説をからかってけなしているのだ、と気づきました。

 マケドニア出身でアカデーメイア学園上級弟子の秀才青年アリストテレース(二四歳)は、かつてこれまでは、習作対論篇『グリュロス』(c360 BC)を書くなどして、老学長プラトーンの教えどおり、演説術は真の技術ではない、と論じていました。しかし、彼は、もともと思弁的でオカルト的な老学長プラトーンよりも、理性的で現実主義的な学長代理のエウドクソスに学問的に共感し、また、前者よりも後者を人格的にも尊敬しており、両者が決裂してエウドクソスが去って以後、彼は老プラトーンの意向を無視して、イーソクラテース学校と対抗すべく、アカデーメイア学園で《演説術》をかってにみずから講義するようになってしまいます。そして、その内容は、後に『演説術(レートリケー)』(c360~55 BC)としてまとめられることになります。

 アリストテレースは、華奢な体つきながらなかなか派手好きで、髪は短く刈り込み、目立つ衣裳を着て、大きな指輪を填めていました。まあ、学長プラトーンやアカデーメイア学園の性格と、こういう様子からおおよそ想像がつくように、彼も同性愛者で、同じく学園にいた去勢解放奴隷のヘルミアース(約二五歳)と恋仲にあったそうです。
 プラトーン(六七歳)は、愚直なクセノクラテース(約三五歳)と気鋭のアリストテレース(二四歳)とをよく比較して、「一方には拍車が必要だが、他方には手綱が必要だ」と言いました。これと同じ台詞は、『論語』にもあります。
 アリストテレースが六七年に一七歳でアカデーメイア学園に入門した後しばらくは、学長プラトーン(六〇歳)は、シチリア島東岸南部のシュラークーサー将国にかかりっきりで、学園はほったらかしであり、実際に彼を指導したのは、学頭代理のエウドクソス(約四一歳)でした。これでは、彼がプラトーンに共感を持たないのも当然のことです。
 アリストテレースの著作には、対論篇と講義録とがありましたが、後者の講義録は、脱線や反復、さらには、その後の書き加えや書き直しも多く、書籍としては未整理未発表のままであり、死後も長らく知られることはありませんでした。このために、それらの著作年代は、ほとんど判別不能です。しかし、そんな中で、この『演説術』は、かなり整理されており、引用から著作年代も想定できるまれなものです。しかし、アテヘェネー市の演説論争史の最後を飾る華々しいフィナーレは、むしろ、この後にこそ盛大に騒々しく開花するのです。
 アリストテレースの講義録を含む蔵書は、死後、蔵書収集に熱心なペルガモン王国に没収されないように小アジア半島スペプシスに埋め隠され、その後、アテヘェネー市に持ち帰られ、前八六年のローマ民国将軍スッラによるアテヘェネー市占領でローマ市に奪い取られ、ロドス島出身のアンドロニコスによって、ようやく整理され公刊されることになります。
 しかし、ペルガモン王国やエジプト王国は、高値で書物を買い集めていたために、古典、とくにアリストテレースのものとして、数多くの偽作がこのころ著述されてもいます。その一方、上述のような伝承事情から、アリストテレースの著作の中には、他書に引用されながら未確認の欠落作品も多く、一八九一年にも、エジプトの砂中から欠落作品『アテヘェネーの政体』の紀元一〇〇年ころの写本が発見され、大変な話題となりました。今後、『喜劇論』など、砂中から彼の「新しい」作品がさらに発見されるかもしれません。

 いずれにせよ、このように、アテヘェネー市はもちろん、アカデーメイア学園の中においてすら、もはや老プラトーンの権威は失墜しつつありました。師ソークラテースが、アテヘェネー市民の多くに愛されたのに対し、もともとプラトーンは、いけ高かで、愛想もなく、かならずしもあまり人々に親しまれていたわけではありませんでした。

 樽のディオゲネースの旅行 (c360 BC)

 「キュニコス学派」の祖である老アンティステヘネース(約九五歳)が肺病にかかり、弟子の樽のディオゲネース(約四四歳)がしばしば見舞いましたが、六〇年頃、亡くなりました。以後、ディオゲネースは、ボロ袋ひとつで、気ままにオリュムピアー市やスパルター市など、ヘッラス各地を旅行し、「世界市民(コスモポリーテース)」と自称しました。

 「世界市民(コスモポリーテース)」は、狭い出身地の利害習慣にとらわれない生き方で、後に巨大ローマ共国で流行します。しかし、このころすでに、多くの傭兵軍人たちが、故国にとらわれず、どこの国にでも従軍しており、ディオゲネースだけがなにか特別な生き方だったわけではありません。

 ある所に海難除けの神殿があり、そこには、この神殿に祈って助かった人々のお礼の品々が、大量に贈り納めてありました。これを見た樽のディオゲネースは、「この神殿に祈って助からなかった人々が呪いの品々を投げ込んでいたら、もっと多かっただろう」と言いました。

 宝くじ売場によく「ここで一等が出ました」などと書いてありますが、ハズレはもっと多かったことでしょう。同様に、占いで、前に並んでいる常連風の人に、よく当たるのかなどと聞くのはムダです。ハズレた人は二度と来ていません。また、占術師は、どんな客でも「あなたは、いま何か悩んでいる」と言えば、かならず当たります。悩んでいないのに、占ってもらおうなどという人はいないからです。。

 しかし、ディオゲネースは、旅行の途中で海賊に遭って、奴隷としてエーゲ海南のクレーテー島に売られてしまいます。けれども、奴隷商人に、「何ができるか」と聞かれると、ディオゲネースは、「人を支配すること」などと、あいかわらず人を舐めたことを答えていました。ところが、たまたまそのとき奴隷市場を通り掛かったコリントホス市の富裕商人クセニアデースは、「これはよかった、私はいま、誰かうちの主人になってほしいと思って、ちょうど探していたのだ」などと言い、彼を買い受けていきます。

 そして、富裕商人クセニアデースは、ディオゲネースをコリントホス市に連れ帰ると、ほんとうに彼を主人にして、家業の経営も、子供の教育も、みな預け任せてしまいました。しかし、ディオゲネースは、もとはと言えば、黒海南岸中部のヘッラス系植民都市シノーペー市民国の立派な両替商人であり、アテヘェネー市ではプラトーンとも張合うほどの才知家です。家業の経営も子供の教育もみごとに取り仕切って、クセニアデースをますます繁栄させ、その子供たちもりっぱに成長させました。

 彼に限らず、家庭教師(パイダゴーゴス)は、当時の典型的な奴隷の仕事の一つでした。

 革新的芸術家たちの登場 (c360 BC)

 リューシッポス(c395~c25 BC 二五歳)は、コリントホス市西北のシキュオーン市の貧しい真鍮細工職人でした。彼は芸術家志望でしたが、名声のある先生に師事して高額の授業料を払うことなどとうていできません。ところが、七〇年ころ、画家エウポンポスが「芸術は、先達を模倣せず、ただ自然のみを模倣する」と宣言。これに励まされ、リューシッポスは観察と写生に努め、独力で彫刻を始め、これまで彫刻の根本原則とされてきたアルゴス市のポリュクレイトス(c470~c423 BC)のクラシック的な七頭身の〈均整美〉を打破。素材を大理石から金属に代えることで、三次元の空間にのびやかに広がる手足を持った八頭身の鋳像を作り、富裕市民の顕彰や墓碑のための肖像彫刻で名声を獲得していきます。「他の芸術家は、あるとおりに作るが、私は、見えるとおりに作る」と、彼は言いました。

 彼は、かつて貧しかったころを忘れないようにと、作品の報酬を受けるたびに壷に金貨を一枚ずつ入れていくことにしていました。その後、彼はマケドニア王国王プヒリッポス二世・大王アレクサンドロス三世、さらには、シリア王国王セレウコスなど、多くの肖像彫刻を製作し、そして、彼が死去したときには、壷には一五〇〇枚もの金貨がありました。にもかかわらず、彼の製作した肖像が個人のものであったためか、そのオリジナル作品は一つも現存せず、ただわずかに「汗を拭う青年(アポクシュオメノス)」の大理石模像がヴァティカン美術館に残っているくらいです。
 彼は、《クラシック芸術》の様式美を打ち破り、ひとりで写実主義、さらには印象主義をも駆け抜けてしまったのであり、一八六〇年代のマネ(1832~83)やロダン(1840~1917)の偉大なる先駆者と言うことができるでしょう。「あるとおり」というのは、じつはすでに「見えるとおり」ということです。それゆえ、「見えるとおり」とは、むしろ「見えるとおりではないが、あるとおりに見えるように」ということです。たとえば、偉大な人物を、まさしく偉大に見えるように、ということです。

 アスクレーピオス神殿病院で有名な小アジア半島西岸南部のコース島士国は、六〇年ころ、アテヘェネー市の彫刻家プラクシテレース(c395~c25 BC 約三五歳)に美愛女神アプフロディーテーの大理石像を依頼します。これまでヘッラスでは、男性の裸体は美しく、女性の裸体は醜いとされており、男性裸像・女性着衣像しかありませんでした。にもかかわらず、彼は、遊女ピゥリュネーをモデルに写実的な裸像を製作しました。このことにコース島士国は激怒し、プラクシテレースは、やむなく別に着衣像を製作します。

 ところが、ちょうどこのころ老学長プラトーンと決裂して、アテヘェネー市のアカデメイア学園を去ることになった天文計算学者エウドクソス(約四八歳)が、放置されていた「アプフロディーテー裸像」に一目惚れして高値で購入し、これを故国クニドス市士国に持ち帰ります。すると、この像は、だれもが一目で恋に狂うほどの最高傑作、との評判が広まり、ヘッラス中から観光客が訪問、クニドス市は、大いに繁栄することとなりました。

 コース島もクニドス市も医学で有名であり、良きライヴァルとして、さまざまに張り合っていました。傑作アプフロディーテー裸像をクニドス市に買い取られたコース島は、後になってさぞ悔やんだことでしょう。
 後に小アジア半島北部ビティニア王国王ニコメーデース(?~即位c279~c50 BC)が、アプフロディーテー裸像と引き換えにクニドス市の巨額の負債を肩代わりしたいと申し出ますが、クニドス市はけっしてこの像を手放しませんでした。そして、むしろ同市の象徴であるこの「アプフロディーテー裸像」を刻印した貨幣を発行することで、自力で負債を返済しました。
 この像のオリジナルは、もはや現存していませんが、ローマ時代に大量に模刻され、そのひとつがヴァティカン美術館にあります。しかし、ルーヴル美術館の頭像(通称「カウフマンの頭」)の方が模刻としての出来が良いです。

 プラクシテレースは、遊女ピゥリュネーに、愛のあかしとしてアトリエにある好きな作品を贈ると言います。遊女ピゥリュネーは、選びあぐね、ある日、出かけていたプラクシテレースのもとに走り、アトリエが火事だ、と告げます。すると、プラクシテレースは、私のエロース像はどうなった、と叫びました。これを聞いて、美女ピゥリュネーは、「エロース像」をもらうことにして、ヘッラス半島中東部ボイオーティア地方テヘェベー市西の故郷テスピアー市に送りました。そして、ここも、この像を見るために多くの観光客が訪問し、おおいに繁栄することとなりました。

 しかし、この像は、その後、ローマ帝国皇帝ネロがローマ市に奪取し紀元後六四〇年の大火で焼失してしまいます。しかし、これも、模像がヴァティカン美術館に残っています。

 また、彫刻家プラクシテレースの友人に、画家ニーキアース(c395~40 BC 約三五歳)がいました。彼は、これまで白塗りに目鼻でごまかされていた女性像を、最初にきちんとした絵画として写実的に描きました。また、彼はヘッラスで最初に戦争画のような群像大作にも挑みます。くわえて、彼は蝋画技法を発明し、これによって石材や木材にも陰影のある繊細な彩色が可能になり、建築や船舶の装飾にも利用します。そして、彫刻家プラクシテレースも、自分の大理石の作品を、しばしば彼にこの技法で彩色してもらいました。

 それまでの大理石像も着色されてはいましたが、不透明色のベタ塗りにすぎませんでした。

 同じころ、エーゲ海中央のキュクラデス諸島の大理石名産地パロス島から神殿芸術家スコパス(c395~c25 BC 約三五歳)が登場。彼は彫刻家であると同時に建築家でもあり、六〇年ころ、九四年に焼失したペロプス半島中央アルカディア地方のテゲアー市のアテヘーナァ神殿の再建を指揮。以後、各地で神殿造営などに活躍し、従来のドーリア式・イオーニア式・コリントホス式などにとらわれない独自の建築装飾様式を確立していきます。そして後には、小アジア半島において、ハリカルナッソス市のマウソーロス廟、エプヘソス市のアルテミス神殿の建造も行います。

 スコパスの父もまた彫刻家であり、アルゴス市のポリュクレイトスのアトリエにいました。
 スコパスは、巨大建築からわずか一八センチの小像まで、多様な作品を製作しましたが、彼の作品として伝わるものは、神像が主であり、本来は群像であったと思われるものも少なくありません。しかし、その作品は、神像であるにもかかわらず官能的・情感的・女性的で、代表作としては、エーゲ海北部サモトホラケー島の「裸のアプフロディーテー」「望み(ポトス)」「憧れ(ヒメロス)」、ペロプス半島北部シキュオーン市の「ヘーラクレェス」、黒海入口ビューザンティオン市の「マイナス」、小アジア半島西岸北部ペルガモン市の「巨大アレース座像」、同半島西岸南部クニドス市の「アテヘーナァ神像」「ディオニューソス神像」などがあります。そして、いま、 「望み(ポトス)」の模像は、ローマ市コンセルヴァトーリ美術館に、「マイナス」は、ドイツ=ドレスデン美術館にあります。

 アプフロディーテー裸像で名声を得た彫刻家プラクシテレースも、各地の都市から注文を受け、七五体以上もの神像を作りました。彼は、当時は一般的だった顕彰や墓碑のための個人肖像の製作は断っていましたが、アプフロディーテー裸像とは別に、以前から彼が恋い焦がれている遊女ピゥリュネーの肖像を作り、これを金箔張りにして、彼女に贈ります。これをもらったピゥリュネーは、始末に困って、デルプホス神託所に奉納し、円柱の上に陳列しますが、あまりに派手で、ひどく顰蹙を買いました。

 彫刻家プラクシテレースまた、大理石像以外に、新たに青銅像なども工夫しました。彼の作品には、「サテュロス像」「トカゲを殺すアポッローン(青銅像)」「幼児ディオニューソスを抱くヘルメェス」などがありますが、彼が好んでモデルにした遊女ピゥリュネーの影響か、いずれも柔らかな曲線的姿勢をとった少女的少年像であり、この時代の彫刻の特徴である両性偶有美をもっとも巧妙に表現したものとなっています。

 この「サテュロス像」は、ローマのカピトリーノ美術館の「牧神の間」にあり、アメリカの小説家ホゥソーン(1804~64)の『大理石の牧神』(1860)で有名です。また、「トカゲを殺すアポッローン」は、大理石模像がヴァティカン美術館にあります。「幼児ディオニューソスを抱くヘルメェス」は、一八七七年にようやくオリュムピアー市から発掘され復元されたものですが、当初は同名異人の作品との異論もありました。しかし、そもそも、この作品は、古代でも彼の失敗作と言われていたものです。

 いずれにしても、この時代の芸術家たちは、盛大な名声をヘッラス世界全体で獲得し、大変な高額で作品を製作したのであり、それはもはや個人の趣味ではなく、国家の事業としての意味さえ持つようになります。ここにおいて、彼らもまた、個人ではなくアトリエ(工房)として依頼を請け負っていました。とくに、プラクシテレースのアトリエはその後も繁盛し続け、前一世紀ころまで代々の彫刻家に引き継がれることになります。

 老プラトーンの三部作構想:『智恵教師』『政治家』『哲学者』 (c360 BC)

 第三回シチリア島訪問(361~60 BC)の前後、老プラトーンは、『テヘアイテートス』(c368 BC)と『パルメニデース』(c367 BC)における〈理念〉と〈知識〉の難問、すなわち、[同一不変の〈理念〉が、どのようにして複数の変化する事物に成り立つか]という問題と[〈理念〉が、どのようにして〈知識〉として保持されるか]という問題、そして、大長編『市民性』(c370 BC)で構想された〈哲人王〉の理想の関係を、ふたたび別の作品として整理して提起しようとします。

 こうして執筆されたのが、『智恵教師(ソプヒステース)』(c361 BC)、『政治家(ポリティコス)』(c360 BC)、『哲学者(プヒロソプホス)』(存在せず)の三部作です。その設定年代は、ソークラテース裁判直前の前三九九年ですが、特徴的なことに、ここにおいては、いつも主人公であるプラトーンの師ソークラテースは、同席はするもののほとんど無言で、誰ともわからぬパルメニデース門下の無名のエレアーからの客人が中心となって、テヘアイテートスや、後にアカデーメイア学園の学生となる若いソークラテース(師ソークラテースとは同名別人)と対論する形で議論が進行していきます。

 彼の智恵教師・政治家・哲学者という三区分そのものが、もはやまったく時代錯誤的です。というのも、エパメイノーンダスやアゲーシラーオス亡き後、政治家と戦略家の分離と対立が明確になり、戦略家は、およそ国籍に関係なく、どこの国でも、傭兵として、また、将主としても、自由に活躍したからです。彼らの発想と行動は、きわめて現実的で多元的であり、理念的で一元的な普通の政治家たちには量り知れないところがあります。そして、その最大の戦略家が、これからアテヘェネー民国の政治家たちをさんざんに振り回すことになるマケドニア王国王プヒリッポス二世と、その息子アレクサンドロス三世です。

 けれども、その論旨は、老プラトーンの従前からの主張と変わることなく、要するに、[智恵教師も政治家も、見せかけだけの詐術である]ということです。ただ、このことを論じつつ、『智恵教師』では、その詐術ということから、[「ない」ということが、かならずしも不在ではなく、相違を意味することもある]ことが解明され、この相違や適合の概念によって、事物における〈理念〉の存立の余地がようやく確保され、また、〈知識〉が〈理念の適合〉として定義され、また、ここにおいて、[言語によって分析や綜合を試行して適合を吟味する《対論法(ディアレクティケー)》]が、〈知識〉を獲得する〈理念〉の回想の方法として改めて重視されます。さらに、『政治家』では、この分析綜合の《対論法》を駆使して、政治家を考察しますが、『プハイドロス』(c370 BC)の《演説術》や『市民性』(c370 BC)の〈哲人王〉の定義と同じく、結局、[真の政治家は、善の知識に基づき、善の目的へ向けて、市民の霊魂を健全な信念へ誘導する]ということになります。

 「がある/ない」と「である/ない」の区別を日常的に行っている日本語を使っている我々にはいまさら当たり前のことですが、その文法的な区別がないヘッラス人にとっては、[「ある/ない」が、「存在/不在」と「肯定/否定」とに区別される]ということは、実に画期的な大発見でした。そして、この大発見によってこそ、プラトーンは、エレアー学派以来の古代ヘッラスの哲学的難問を一気に突破することができたのです。
 これらの著作は、これまでの著作を整理したものらしく、アイディアとして新しいものはあまりありません。しかし、読む側から言えば、『市民性(国家)』や『テヘアイテートス』『パルメニデース』などより、この『智恵教師』『政治家』の方が、プラトーンの作品として格段に読みやすくわかりやすいものに仕上がっています。

 さて、第三の『哲学者』において、いわゆる智恵教師や政治家ではない真の〈哲人王〉の理想が論じられるはずだったのでしょう。ところが、これは書かれませんでした。というのも、智恵教師や政治家を贋の詐術とするとき、その対比として、すでにしばしば真の技術が言及され、その理想を徹底するあまり、[実物を創造する真の技術は、絶対的に神のものであって、もはや人のものではない]ということがしだいにはっきりとしてきてしまったからです。

 正確に言えば、『智恵教師』では、人的技術と神的技術が対比され、そのそれぞれに実物の創造と虚影の創作とが区別されていました。しかし、『政治家』では、最善の政治は、神による人々の支配となってしまいました。ちなみに、老プラトーンの評価では、次善は、有法君主政か無法市民政、中間は、寡頭政、最悪は、無法君主政や有法愚民政とされます。
 プラトーンは、善なる都市国家の本質として、善なる政治家を考えていますが、これは、『テヘアイテートス』(c368 BC)における知識論と同じ構造の行き詰り(アポリア)です。国家における生活の善さは、すくなくともまず善人でいられる生活の良さがなければなりません。しかるに、生活の良さは、一方的な政治によってではなく、相互的な経済によってのみ実現可能でしょう。ところが、プラトーンには、経済について、まったく思慮がありません。政治は、強制的な法律の適用による外科的手法よりも、税制と財政によって、自律的な経済の調整による内科的処方に徹した方が穏当で安全です。
 とはいえ、『市民性』と『政治家』は、その内容の如何にかかわらず、政治および政治学を志す人々には、必読書です。というのも、この二書は欧米圏で高等教育を受けた実際の政治家たちが学生時代にまちがいなく読んでいるものであり、賛否いずれにせよ、すくなからず影響を受けているものだからです。つまり、プラトーンの政治論は、彼らの行動の概念枠組になっており、彼らを理解するには、まずその概念枠組として、プラトーンの政治論を知らなければならないのです。しかし、プラトン研究者でもなければ、これらの著作はあまりに老プラトーンの偏屈な独断が強く、ただ反発を感じるだけでしょう。

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