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第四章 古代ヘッラスの秋(405~385 BC)第二節 コリントホス地峡戦争 (400~390 BC)

 パールサ大帝国の小アジア半島掃討 (400~396 BC)

 前四世紀になると、ヘッラス世界は、もはや個々独立の都市国家の集合ではなく、実質的にある程度の勢力範囲を持つ普通の国家と、その衛星同盟都市の連合に変質してしまいます。「ヘッラス東西戦争」前においては、ヘッラス半島中東部ボイオーティア地方までアテヘェネー民国の勢力下にありましたが、アテヘェネー民国の敗北によって、同地方では代わって地元のテヘェベー士国が勢力を確立。ここにおいて、ヘッラス世界は、ボイオーティア地方のテヘェベー士国、アッティカ地方のアテヘェネー民国、ペロプス半島のスパルター士国、そして、シチリア島のシュラークーサー将国に四分されることとなります。

 九八年、スパルター士国エウリュプホーン王家王アーギス二世(約五二歳)が亡くなります。しかし、その王子レオーテュキダースは、王アーギス二世の実の子ではなく、亡命美青年将軍アルキヒビアデースと不義の子だと言われ、王位継承に異議が唱えられていました。それゆえ、有力軍人リューサンドロス(約四七歳)は、集団生活(アゴーゲー)以来の旧友である王アーギス二世の弟アゲーシラーオス(444~即位398~退位61~60 BC 四六歳)を、エウリュプホーン王家の新王に立てます。アゲーシラーオスは、足が不自由でしたが、王子としてではなく、他の人々と同様の厳しいスパルター式の集団生活と軍事訓練によって育てられたので、礼儀正しく、親しみ易く、人々は彼を喜んで迎えました。

 先述のように、スパルター士国には王が二人もいますが、それは五人の監督官の指示に服従する将軍のようなものにすぎませんでした。
 スパルター士国は、アテヘェネー民国のシチリア島遠征を阻止して以来、シチリア島東岸南部のシュラークーサー将国と友好関係にありました。しかし、有力軍人リューサンドロスは高潔で、シュラークーサー将国の将主ディオニューシオス一世が自分の娘たちにシチリア製の豪華な衣裳を贈ってきても、「娘たちを醜くさせたくない」と言って、これを捨ててしまいました。

 このころ、皇帝アルタクシャティラー二世のパールサ大帝国は、先の副帝国王クールシュの反乱残党を掃討するために小アジア半島に進撃し、反乱軍に傭兵を出した西岸ヘッラス人諸都市の再占領を企図。その傭兵隊の募集元だったスパルター士国は、九七年、即位したばかりの王アゲーシラーオス(四七歳)が、将軍リューサンドロス(約四八歳)らとともに、これらの諸都市支援に乗り出します。

 これに対し、パールサ大帝国側では同半島西部リュディア州総督ティッサプヘルネースが応戦しますが、スパルター遠征軍に敗退。このため、パールサ大帝国は、同地域にも独自の常設海軍力が必要であると考え、小アジア半島中部プフリュギア州総督プハルナバゾス(約四三歳)に艦隊の創設を命じ、キュプロス島サラミース市将国に亡命していた元アテヘェネー市民国海軍軍人コノーン(約四八歳)を顧問として招いて、その強化を計ります。

 中央地中海とイタリア半島北部の宿恨の戦争 (c400~c95 BC)

 このエーゲ海側での緊張に加え、おりしもプホエニーカ人カルト=アダシュト士国のシチリア島内勢力において天然痘が流行し、その支配が手薄になってしまいます。そこで、シチリア島東岸南部のシュラークーサー将国将主ディオニューシオス一世(約三三歳)もまた、同九七年、自前の工場で技師たちに発明させた攻城搭や破壁槌などの新兵器を活用して、シチリア島内のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国勢力を追放する戦争を開始します。

 攻城搭は、車輪付き六階建てで、その窓から強力な腹弓を打ち出しました。これによって、城壁上からの弱弓や投槍による攻撃という防衛側の優位は、もはや失われてしまいました。チェスで、ルークが移動できるのを奇妙に感じていた人もいるかもしれませんが、あれはもともと城塞などではなく、この移動可能な攻城搭です。そして、それは車輪のために直進しかできません。

 また、このころ、イタリア半島中北部では、ローマ共国とエトルーリア人系十二市王国との紛争が百年来続いていました。しかし、ローマ共国国内では、「父祖族(貴族、パトリキ)」と「大衆民(平民、プレーブス)」が激しく対立し、「総裁(コーンスル)」の選出もできないようなありさまでした。

 それゆえ、かろうじて軍事大衆部民長カミッルス(c430~? BC)が軍隊を指揮してエトルーリア人との対決姿勢を維持していたものの、ローマ市にもっとも近い、わずか北西十五キロのエトルーリア人系ウェーイィー市王国に対する包囲は、もはや十年目に及んでいました。このため、九六年、ローマ共国では、「父祖族」が「大衆民」に譲歩して、カミッルスを「独裁官(ディクタートル)」に任命します。彼は、兵士の従軍を有給にして士気を鼓舞し、トンネルを開削して市城内に突入、ついにウェーイィー市王国を陥落させます。

 「独裁官」は、前四三一年、東の蛮族エクィー人によってローマ市の南のフラスカーティ町が包囲されてしまった際に、元老院が臨時非常措置としてキンキナートゥス一人に全権を委任したことに始まります。しかし、彼は、任命と同時に出撃、圧勝して凱旋、わずか十六日で辞任してしまいました。
 トンネルを開削して要塞に突入するという作戦は、「日露戦争」(1904~05)の旅順二〇三高地の奪取でも用いられます。独裁官カミッルスがトンネルをつたってウェーイィー市城内の地下に進むと、ちょうど地上では、勝利祈願の祭式を行っていました。そして、おりしも、まさに神官が、「この犠牲を捧げる者に、勝利を与える」と述べていました。これを聞いたカミッルスは、すぐさまこの祭式に乱入し、その犠牲を奪取して、自分で奉納してしまいました。先述のように、ローマ人はもともと異国の神々を掠奪して崇拝する妙な趣味があります。

 ところが、「大衆民」たちは、新規に獲得したこのウェーイィー市に移住し、「父祖族」からの独立を画策。一方、独裁官カミッルスは、もともと「大衆民」から選出された大衆部民長であったにもかかわらず、もはや王のごとく尊大に増長してしており、「大衆民」の独立を圧殺してしまいます。こうして、ローマ共国内の階級闘争は、ますます複雑に混迷していきました。

 このようなエトルーリアの敗退とローマ国内の混乱に、シチリア島東岸南部のシュラークーサー将国将主ディオニューシオス一世(約三四歳)は、シチリア島全土はもちろん、イタリア半島全土まで征服しようともくろむようになります。

 コリントホス地峡戦争の勃発 (396~94 BC)

 小アジア半島において、スパルター士国の将軍リューサンドロス(約四九歳)は、旧友も多く、威光も高く、エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(四八歳)はおもしろくありません。そして、しだいに将軍リューサンドロスはもちろん、その友人たちまで冷遇するようになってしまいます。将軍リューサンドロスは、耐えに耐えていましたが、しかし、王アゲーシラーオスは、将軍リューサンドロスに北の黒海入口マルマラ海沿岸を討閥させた後、早々に帰国させてしまいました。

 一方、王アゲーシラーオス自身は、クセノプホーン代理軍長が統率するヘッラス人大傭兵部隊残党も旗下に合流させ、パールサ大帝国の名門総督プハルナバゾス(約四四歳)の小アジア半島中部プフリュギア州北岸を侵略し、財物を掠奪します。そして、翌九五年には、講和を破った総督ティッサプヘルネースの同西部リュディア州にも進出し、ここでも大いに掠奪します。このため、パールサ大帝国は、総督ティッサプヘルネースを処刑し、賠償を贈与して、スパルター士国の帰国を要請します。

 プフリュギア州は、蛮族奴隷をアテヘェネー民国に輸出するなどしており、基本的に親アテヘェネー的な立場をとっていました。
 リュディア州総督ティッサプヘルネースの処刑もまた、実は、母后パリュサティスの策謀であったと言われています。

 しかし、このころ、皇帝アルタクシャティラー二世(約三五歳)のパールサ大帝国は、実は、資金援助によってペロプス半島同盟のテヘェベー士国を、アテヘェネー民国やコリントホス市士国・アルゴス市士国とともに、スパルター士国から離反させ、「コリントホス地峡戦争」(395~87 BC)を勃発させます。これは、ふたたびヘッラスを二分する大戦争となってしまいました。

 すでに帰国していたスパルター士国将軍リューサンドロス(約五〇歳)は、ただちにボイオーティア地方のテヘェベー士国に侵攻しますが、すぐに戦死してしまいました。そして、九四年、小アジア半島にいたスパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五〇歳)も、急遽帰国。この機をとらえ、パールサ大帝国は、亡命海軍軍人コノーン(約五〇歳)を顧問とする増強海軍によって、九四年、王アゲーシラーオス不在の小アジア半島西岸のスパルター海軍を徹底的に攻撃します。

 ヘッラスに帰還したスパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五〇歳)は、熱泉門(テヘルモピュレー)に上陸し、ヘッラス半島中部プホーキス地方に進軍して、テヘェベー市へ向かう街道町コローネイアーで、傭兵軍人クセノプホーン(約三六歳)らとともに、テヘェベー士国軍(+アルゴス市士国軍・アテヘェネー民国軍)と激突しますが、これも無残な敗北でした。

 このコローネイア戦には、名門青年プラトーン(三三歳)も従軍し、騎兵として活躍しました。しかし、同じソークラテースの弟子でも、先の〇一年のクールシュ反乱事件に加担して祖国を危機に陥れたクセノプホーンは、またも敵のスパルター士国軍側にいたため、同九四年、アテヘェネー民国は、彼を国外追放(帰国禁止)とし、その財産も没収してしまいます。

 小アジア半島西岸南部における医学の発展 (c395 BC)

 このころ、小アジア半島西岸南部では、クニドス市やその沿岸のコース島において医学が発展していきました。クニドス市は、ワインの生産や、エジプトのナウクラティス市やイタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース(現ターラント)市との貿易で繁栄しており、医学では同地の「クニドス学派」が病理学研究に貢献します。

 これに対して、コース島では、医薬神アスクレーピオスが葬られたとされるペロプス半島東部のエピダウロス神殿以上にアスクレーピオス神殿が発展し、その「アスクレーピアデス」たちは臨床学研究を発展させました。とくに画期的だったのは、その中心のヒッポクラテース(460~c370 BC 約六五歳)が、傷病の診断治療という従来の《医療術》を越えて、傷病の予知予防という新規の《保健術》を論じたことです。

 ヒッポクラテースは、シチリア島のエンペドクレェスやクロトーン市医学校のアルクマイオーンなどのピュータハゴラース政治教団の影響を受け、《四体液説》を考えました。それによると、[人間は、春の気の〈血液〉・夏の火の〈黄胆汁〉・秋の土の〈黒胆汁〉・冬の水の〈粘液〉の四体液によって熱寒乾湿が変化する]、[体液の調和の保持によって、苦痛や傷病を回避できる]とされ、彼は人間の身体の調和を回復させるための食事療法や環境療法などを開発します。そして、彼は、クロトーン市ピュータハゴラース政治教団医学校と同様、医学校を創設。多くの弟子を養成し、研究を文章にまとめました。

 今日でも、遠大な眺望と温暖な気候と豊富な遺跡に恵まれたコース島は、「パラダイス=ビーチ」などを持つ一大リゾート地です。なお、ここの遺跡としては、中世のロドス島騎士団の城塞も有名です。
 ヒッポクラテースの《四体液説》は、二世紀の古代ローマのガレーノスによってさらに深化され、アラビア医学に吸収され、後に再びヨーロッパに伝播し、通俗的保健術として歌謡となって広く普及します。ここにおいては、この《四体液説》は、人間の性格型として精神医学にも応用され、長らく信奉されることになります。すなわち、〈血液質〉は楽天家、〈黄胆汁質〉は癇癪持、〈黒胆汁質〉は憂鬱症、〈粘液質〉は執着屋、と考えられました。
 このヒッポクラテース医学校における膨大な文章は、『ヒッポクラテース体系』として有名ですが、その内容は、論文だけでなく、講義録や断片や箴言と雑多で、ライヴァルの「クニドス学派」のものまで含まれています。
 後にイーソクラテースは、小アジア半島西岸中部のキヒーオス島民国の政治顧問となって、この有名なヒッポクラテース医学校の活動についても、いろいろと聞き及んだことでしょう。彼がキヒーオス島に最初の学校を創設するのも、この影響かもしれません。また、後に東地中海を旅行するプラトーンも、その著作でヒッポクラテースの名前や学説を引用しているように、その活動を充分に伝聞しており、彼の政治論にもヒッポクラテースの《保健術》の発想は大きな影響を波及しています。
 ヒッポクラテースは、その後、各地を旅行しています。パールサ帝国皇帝アルタクシャティラー二世も、大金を積んで彼を招こうとしましたが、彼は「蛮族の味方にはならぬ」と言って、断ってしまいます。
 ヒッポクラテースは、後に「医聖」と呼ばれ、医師の祖と見なされるようになります。同派において、後に、医師としての職業倫理を宣言するものとして、「ヒッポクラテースの誓い」が打ち立てられ、その基本概念は、現代の世界医師協会の「ジュネーヴ宣言」(1948、68)にまで受け継がれています。

 プラトーンの執筆活動開始 (394~90 BC)

 「コリントホス地峡戦争」から戻った名門青年プラトーン(三三歳)は、かつて舞唱劇作家を目指していたことを思い出したのか、このころになって唐突に歴史的名著『ソークラテースの弁明』(c394 BC)を発表します。これは、師ソークラテースが突然に死刑に処せられてしまった九九年の曖昧な裁判を独特の演出によって劇的に再現しようとするものであり、きちんとした記録に残っていたらしい師ソークラテース本人の実際の長大な弁明の演説を中心としつつも、その他に告発者の三流文士メレートスとの激しい対論なども加えて、本当の師ソークラテースの事跡と人柄を、改めて人々に示そうとするものでした。

 『ソークラテースの弁明』は、『ヘレネーの弁明』などと同じく、有名な弁論代筆家リュシアースが執筆して以来、弁論練習用のテーマの一つとなっていたのかもしれません。後には、クセノプホーンなども同名の作品を書いています。
 初期プラトーンの作品は、その主題がソークラテース裁判と深い関連を持っています。裁判から五年以上も経ってこの問題がぶり返してきたことには、ここにもやはりまたソークラテースの弟子の第三の奸雄である傭兵軍人クセノプホーンのスパルター士国軍帰属とその国外追放財産没収という事件が関与していたのでしょう。
 プラトーンの作品は、紀元前後のトホラシュロス(c1 AD)によって舞唱劇山羊歌風に主題ごとに四部集(テトラギアー)第一~第九に整理され、書簡集を含めて三六篇他が伝承されることになりました。しかし、四部集への整理が独断的で、中には、贋作(にせもの)も少なくないとされます。以下、ここで採り上げるのは、ほぼ真作であるとされているものに限りましょう。
 プラトーン作品の真贋論争は、十九世紀初頭、シュライァーマッハーによって火がつけられ、聖書の原点批判(テキスト=クリティーク)の方法を取り入れて、激しい論争が繰り広げられてきました。それは、たしかにプラトーン研究に大きな成果をもたらしましたが、しかし、プラトーン研究は、学者学や書誌学であっても、哲学ではありません。そもそもプラトーン本人がソークラテースの名をかたる贋作者なのです。
 しかし、贋作や虚偽でも、もし学ぶべきものがあるならば、尊重しなければなりません。逆に、真作でも、もし学ぶべきものがないなら、放棄してよいでしょう。我々には有限の人生の時間しかなく、無意味な権威に媚び諂っている暇はありません。また、初めから学者学や書誌学を志すならばともかく、いやしくもいったんは哲学を志しながら、いつの間にか学者学や書誌学の奴隷に迷い陥るというのは、その人物の人間(自由市民)としての根本的な敗北です。

 この作品に限らず、亡きソークラテースの弟子たちの間では、古い弟子のサンダル屋シモーンがつねづね師ソークラテースの対論をそのまま文書に記録しようとしていたこと以来、「サンダル屋風」と呼ばれる戯曲的な文書が数多く作成されていました。たとえば、ソークラテースの旧友弟子クリトーン、「メガラ学派」のエウクレイデース、「キューレーネー学派」のアリステヒッポス、スキュッルース荘園のクセノプホーンなども、ソークラテースを主人公とするさまざまな対論を書いています。そして、若きプラトーンもまた、これらを模倣して、『クリトーン』、そして、『エウトュプフローン』『ラクヘース』『リュシス』、さらに、『カハルミデース』などの対論篇を作成しました。

 「キュニコス派」のアンティステヘネースは、著作は異様に多いのですが、かつての師ゴルギアースの影響か、議論を嫌っていたためか、その多くは、論文調ないし演説調でした。

 『クリトーン』においては、逃亡を説得する旧友クリトーンと[悪法もまた国法なり]とする獄中のソークラテースの対論が実録風に描かれます。また、『エウトュプフローン』においては〈敬虔〉が、『ラクヘース』においては〈勇気〉が、『リュシス』においては〈友愛〉が、いずれも〈善の知識〉との関係で論じられます。これらの主題は、もともと、先のソークラテース裁判において、ソークラテースが若者たちに誤った教説を教え込んだとして問題とされたものです。

 さらに、『カハルミデース』においては、思慮を主題としつつ、悪名高いソークラテースの「茶番」のきっかけとなったとされる「汝自身を知れ」というデルプホス神託所の箴言に至り、〈知識を知る〉という難問を巡って論じられることになります。しかし、これらの対論篇は、いずれも実録的であるためか、ソークラテースの明白な結論を示しているわけでもありません。

 ソークラテース裁判~処刑については、裁判の様子を描く『ソークラテースの弁明』、獄中の様子を描く『クリトーン』、そして、処刑の様子を描く『プハイドーン』が、内容的に三部作となっています。ただし、『プハイドーン』は、中期プラトーンの作品であり、ソークラテースよりもむしろプラトーン独自の見解に基づくと思われます。
 獄中のソークラテースと対論したのは、本当は、旧友弟子クリトーンではなく、ソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネースだったと言います。しかし、プラトーンは、アイスキヒネースと仲が悪かったので、クリトーンに代えてしまったそうです。

 アゲーシラーオスとコノーン (394~93 BC)

 「コリントホス地峡戦争」が続く中、前九五年の緒戦で戦死してしまった将軍リューサンドロスの邸宅が整理されました。ところが、東西戦争の後、あれほどの財宝をスパルター士国に持ち帰ったのに、彼は、そのいっさいを私物化しておらず、その邸宅はあまりに質素であったので、人々は、横暴ではあったが誠実でもあったリューサンドロスを、あらためて武人の鑑として賞賛しました。しかし、そのせいで、帰国したエウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五〇歳)は、死してなお自分以上に賞賛される将軍リューサンドロスにいっそう嫉妬します。

 おりしも、王アゲーシラーオスは、将軍リューサンドロスの革命演説草稿を発見し、これを暴露して将軍リューサンドロスを貶めようとしました。けれども、その演説草稿はあまりにみごとであったので、監督官(エプホロス)の一人である思慮深いラークラティダースは、[これを発表すれば、その説得力でほんとうに革命が勃発してしまう]と諌言して、王アゲーシラーオスを制止しました。

 すでにヘッラス世界の多くの都市で市民政が導入されており、スパルターのように極端に古くさい貴士政を維持している方が無理がありました。実際、スパルター士国にしても、傭兵国家としての激烈な戦争の連続などによって、すでに男子貴族騎士はひどく減少し、その体制の崩壊は時間の問題でした。

 エウリュプホーン王家王アゲーシラーオスは、もう一人の若きアギアース王家王アゲーシポリスとも親しみ、ともに少年愛に励みました。また、故国アテヘェネー民国に帰国できなくなった傭兵軍人クセノプホーン(約三六歳)に対しては、ペロプス半島西北エェリス地方のオリュムピアー市南西のスキュッルース村に広大な荘園を贈ります。

 こうして、クセノプホーンは、早くも軍人を引退して、家族とともにここで平和で優雅な生活を楽しむようになります。早くから智恵教師として活躍し、諸国を歴訪していたソークラテース同門の先輩弟子アリステヒッポスは、このクセノプホーンのスキュッルース荘園も訪問し、しばらく滞在し、その後、アフリカ北岸東部(現リビア)の故郷キューレーネー市士国へ帰国して、「キューレーネー学派」を創設し、娘のアレテーのほか、アンニケリス、ヘゲシアースなど、数多くの弟子を養成していきました。

 滞在中に何かあったのか、以来、アリステヒッポスとクセノプホーンは不仲になったとも言われています。

 一方、パールサ大帝国に協力してスパルター士国海軍を打破した海軍軍人コノーン(約五一歳)は、九三年、アテヘェネー市に帰京し、パールサ大帝国からの資金援助によって、東西戦争の敗戦で破壊させられたペイライエウス軍港を再建、旧デェロス島同盟や植民地の支配を回復していきます。ここにおいて、前四〇〇年のリュシアースとの論争で名声を得た弁論代筆家イーソクラテース(四三歳)は、海軍軍人コノーンによって小アジア半島西岸中部のキヒーオス島民国の政治顧問に抜擢され、その政治制度を整備するとともに、ここに演説術の学校を開設し、九人の弟子を入門させます。また、このころ、彼は、かつてコノーンが亡命していた東地中海キュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースとも知遇を得ました。

 コリントホス湾の争奪 (393~90 BC)

 コリントホス地峡は、ヘッラス半島とペロプス半島を繋ぐ要衝であり、ここに古くからの貿易国家コリントホス市士国がありました。しかし、その西南内陸の伝統国家アルゴス市士国は、古代からスパルター士国と対立しており、同九三年、この「コリントホス地峡戦争」を機会に、コリントホス市士国を合併吸収して、ペロプス半島東北部全体に勢力を拡大していきます。

 もはやペロプス半島東南部のスパルター士国の劣勢は決定的でした。パールサ大帝国の事実上の代理人であるアテヘェネー民国の海軍軍人コノーン(約五二歳)は、九二年、スパルター士国に講和を勧告します。ところが、アテヘェネー民国国内では、若き政治家カッリストラトス(c420~c350 BC 約二八歳)が登場し、スパルター士国の徹底壊滅を主張し、コノーンに代わって市民の支持を拡大していってしまいます。

 パールサ大帝国でも問題が生じていました。ティッサプヘルネースの後任として小アジア半島西部リュディア州総督となったティーリバゾス(c430~就任395~解任c77~58 BC 約三七歳)が、じつは親スパルター派だったのです。そして、新アテヘェネー派のプハルナバゾス(約四八歳)が延臣に出世してプフリュギア州を退去した同九二年、彼は、「コリントホス地峡戦争」の講和会議を同州州都サルディスで開催し、海軍軍人コノーンを逮捕しようとします。コノーンは、親アテヘェネー派のキュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースの下にふたたび逃亡、しかし、まもなく死去してしまいました。こうして、講和は挫折、戦争は継続となります。また、プフリュギア州総督には、新たにアリオバルザネース(c430~就任392~c62 BC 約三八歳)が着任します。

 プフリュギア州を世襲する名門プハルナバゾスは、この後、皇帝アルタクシャティラー二世の皇女と結婚し、九〇年頃、二人の間に、息子アルタバゾスが誕生しています。

 この講和会議の失敗の後、九〇年、スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五四歳)は、みずからコリントホス市遠征を行い、激しい争奪戦を繰り広げます。ここに、反スパルター派の将軍カハブリアース(c420~356 BC 約三〇歳)を中心とするアテヘェネー民国も介入し、同九〇年、サンダル屋の息子から努力で立身した軍人イープヒクラテース(c415~353 BC 約二五歳)は、足軽歩兵(ペルタステース)の投槍の波状攻撃によってスパルター士国軍本隊の装甲歩兵を撃滅。スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオスは、撤退を余儀なくされました。

 スパルター士国軍は、ペロプス半島北岸中部のシキュオーン市を拠点として、コリントホス市のレカイオーン軍港まで占領していました。
 足軽歩兵は、すでに前四二五年の「スプハクテーリア島の戦い」で、市民扇動家クレオーンが用い、鈍重なスパルター軍装甲歩兵に対して強大な戦果を挙げています。しかし、その後は、この「スプハクテーリア島の戦い」に破れた将軍ブラシダースを除いて、なぜかあまり用いられませんでした。足軽歩兵は、パールサ風に弱弓・投槍・投石器などの飛び道具を使い、散開して遠隔ゲリラ戦を行うのを得意としており、鈍重な装甲歩兵に対して圧倒的な機動力があります。しかし、足軽歩兵に対する騎兵と装甲歩兵の連係戦術は、パールサでもヘッラスでも、まだ確立されていません。[貴族の騎兵が、敵軍の庶民の足軽歩兵のために、平民や傭兵にすぎない歩兵を補佐しなければならない]ということに、大きな抵抗があったのでしょう。

 しかし、翌八九年、スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五五歳)は、東のコリントホス地峡を敬遠して、ヘッラス半島西部アカルナーニア地方に遠征し、存分に掠奪します。けれども、この間に、アテヘェネー民国は、パールサ大帝国海軍とともに、スパルター士国のあるペロプス半島南東部ラコーニア地方沿岸を攻撃します。

 ローマ市の占領破壊 (c390 BC)

 このころ、イタリア半島中北部では、ローマ共国独裁官カミッルスが、エトルーリア人系プハレリイー市王国を包囲していました。そのうち、同市の初等教師が市民の子供たちをさらってローマ共国軍に寝返ったのに、カミッルスは、逆にこの教師を縛り上げ、子供たちに鞭打たせて市内へ送り返します。これを見た同市市民たちは、武力ではともかく正義では負けたとして、ローマ共国に下ります。こうして、同市は、ローマ共国と友好を築きました。ところが、戦利品を期待していたローマ共国軍兵士たちは、この講和に失望し、カミッルスを告発します。このため、カミッルスは、国外へ亡命してしまいます。

 もともとローマ共国の対エトルーリア人戦争は、国内の階級闘争の不満を国外にそらすためのものであり、「大衆民」たちも戦利品だけが目当てであって、およそ正義とは関係ありません。また、ヘッラス世界では、もともと初等教師は、敗戦奴隷などであることが多かったので、それがたとえ敵国に寝返っても、むしろ亡命であって、あながち不正と非難することはできなかったでしょう。

 このようなエトルーリア人の衰弱とローマ人の混迷に、北方からまた蛮族のケルト人ガリア族が南下してきます。しかし、これまでいつも防波堤になっていた北部エトルーリア人系諸市王国が、ローマ共国との長年の戦争で衰弱してしまっており、次々とあっけなく陥落してしまいます。このため、九〇年には、ガリア族はローマ市まで進撃。ローマ人たちは、ほとんどが離散、一部は中央の小さなカムピドリオ丘に籠城しましたが、その掠奪と破壊を傍観するしかありませんでした。けれども、蛮族ガリア族は、あまりにローマ市を破壊したため、都市機能が麻痺、水道も止ってしまい、小麦も焼いてしまい、あげくに疫病まではやり始めます。

 もともとローマ市は沼地であり、マラリアなどの疫病がすぐにはやるような、ろくでもない土地でした。

 七ヶ月後、ローマ人は、金塊千リーブラ(約三百キロ)の要求に応じ、ガリア族に撤退を願いました。ケルト人ガリア族の将軍ブレンヌス(職名?)が、ローマ共国の元老院議員たちに秤を突きつけると、元老院議員たちは、田舎政治家丸出しで、この場に及んでうじうじと賠償を値切ろうとしました。すると、ブレンヌスは、「なんだ敗北者が!(ウァエ=ウィクティス!)」と激昂し、分銅を投げつけ、秤皿を踏みつぶします。

 しかし、ここにさっそうと、亡命していた独裁官カミッルスが戻り、「祖国は鉄で再建する、金は無用!」と大見栄を切って、金塊に踏み乗り、金貨を投げつけ、全部をガリア族にくれてやった、と言います。この後、彼が中心となり、破壊されたローマ市の再建を指揮。ここにおいて、彼は、半年の法的期限を越えて独裁官の地位を執り続けたのであり、もはや事実上の将主(軍事力と民衆の支持による非合法の王)でした。

 本当は、ただなすがままに金塊を持って行かれてしまっただけのようです。そもそもローマ人は、金貨ではなく銅貨を使っていました。まあ、こういう逸話は、嘘にしろ、日本の五一五事件(1932)の時の犬飼毅首相の「話せばわかる」「問答無用!」などの会話と同じくけっこう有名ですから、憶えておいた方がよいかもしれません。
 このケルト人ガリア族によるローマ市徹底破壊によって、かえってローマは、全面改革の道が拓けてきます。それは、エーゲ海戦争の後のアテヘェネー市や第二次世界大戦後の日本も同じことです。ふつうの状況では、既得権益を持つ保守勢力の方が強いに決まっており、およそどんな改革も、骨抜きになってしまうものです。

 イーソクラテース学校 (c390 BC)

 九〇年頃、イーソクラテース(四五歳)は、キヒーオス島から帰国すると、アテヘェネー市城外東南のリュケイオーン体育場とキュノサルゲス体育場の間あたりの自宅を、共同生活しながら学問研究する学校として開放し、本格的に演説術教育を開始します。そして、その教育方針として『智恵教師反駁』(c390 BC)という一文を発表します。

 イーソクラテースは、ソークラテースの直接の弟子ではなく、むしろゴルギアースの門下の出でしたが、個人的にソークラテースを私淑し、亡きソークラテースの言っていた〈霊魂の世話(エピメレイア=プシューケー)〉という観点から、人格そのものと関係がない自然学者や智恵教師や法廷弁論家の空理詐術を批判します。これに代えて、彼は[言葉よりも行動に矛盾がない]ことを重視し、[空虚な〈思索(エピステーメー)〉より、健全な〈信念(ドクサ)〉を]、と提唱しました。実際の家や国の運営には、ありもしない理念的な絶対善などより、蓋然的な好機(カイロス)こそ重要であり、蓋然的な好機を掴むのは、厳密な〈思索(エピステーメー)〉ではなく、繊細な〈信念(ドクサ)〉である、と彼は考えたからです。

 もとより人間の知識のほとんどは、経験として蓋然的に正しいにすぎないません。これらをすべて否定してしまったならば、思索も議論もできなくなってしまいます。例外があるせよ、蓋然的に事実に沿っているならば、それはそれで真実です。例外があることさえ忘れなければ、先入見は、物事をリアルタイムで処理していくのに重要で不可欠な手段です。実際、イーソクラテースの言うように、厳密に検討するのに時間がかかっていたのでは手遅れになってしまうことも少なくありません。たとえば、かならず事故に遭うとはかぎらないにしても、少しでも事故に遭うかもしれないならば、そのような物事や場所はとりあえず避けておく、などという蓋然的で暫定的な先入見こそ、むしろ賢明な人間の智恵というものです。

 そして、イーソクラテースは、アテヘェネー市の伝統的な〈自由市民〉の理念を踏まえつつ、《智恵教師(ソプヒステース)》のように他人に小売するために知識を持っているのではなく、《教養(パイデイアー)》として自分の智恵を求め続け、《君子(カロカガティアー)》として自分の人格を広め高めるという意味で、理想の人間像として、《好知家(哲学者、プヒロソプホス)》という名称を使用しました。

 「智恵(ソプヒアー)」ではなく、「哲学(好知、プヒロソプヒアー)」という名称が自覚的に用いられるのは、イーソクラテースが最初です。しかし、彼の言うような意味での《哲学(好知)》は、他人を導くための専門の職業とはなりえないものであり、ただ自分を導くための日常の心がけとしてのみ成り立ちます。しかし、今日、大学などでの職業としての「哲学者」は、おうおうに哲学についての知識を売るだけで、本人が哲学的ではなく、それどころかかなりの人格欠陥者ということもあります。真に《好知家(プヒロソプホス)》であるならば、知識を語るまでもなく、その日常の生活そのもので人を感化することもできるでしょう。

 このような教育方針によって創設されたイーソクラテース学校では、素質・経験・教育の三つが重視され、年に数人が入門し、三、四年に渡ってイーソクラテースに師事しました。ここでは、[〈言論(ロゴス)〉と〈思慮(ソープフロシュネー)〉は一致する]と考えられ、〈言論〉すなわち演説作成を通じて、〈思慮〉すなわち人格形成が図られました。

 その授業は、ほとんど個人指導であり、言論思慮の基本型とその運用法が教えられ、師イーソクラテースの原稿も含めて、自由に批評を行い、相互に言論を磨きました。また、補助的に詩歌・歴史・地理そして倫理など、多くを書物などから学ぶことも勧められています。ただし、ここにおいては、神話は慎重に排除されたのであり、実話のみで考察を展開するように指導されました。

 イーソクラテース学校では、外国人は高額の教授料を納めましたが、アテヘェネー市民は無料でした。また、彼は、自分で言うように、度胸も声量もなく、演説を嫌っており、授業でも一度に二人しか教えず、三人目は明日に出直して来るように命じたそうです。
 経験を重視して神話を嫌ったイーソクラテスと違って、プラトーンは、言論の展開として矛盾しないなら、経験として確認できない神話であっても、とりあえず許容し承認する態度を採っていました。

 また、イーソクラテースは弁論代筆からは完全に手を引き、文章での政治評論を始めます。というのも、民会や法廷は、すでに過激な市民扇動家たちの独壇場、歓声と怒号と熱狂の「劇場政(テヘアートクラティアー)」となってしまっていたからです。ここにおいて、彼は、自分が演説に不向きであったことを、むしろ誇りに思うようになります。そして、冷静な文書で、教養ある自由市民のつながりを回復しよう試みました。

 これに対し、ゴルギアース同門の正統派先輩弟子である演説術教師アルキヒダマースは、『文書演説家・智恵教師について』(c390 BC)を執筆し、[《演説術》は、まさに技術であって人間性とは別であり、演説は即興の妙技にこそ核心があり、文書を暇にまかせてこねくりまわして仕上げるのならバカでもできる、それゆえ、文書演説など、硬直した演説の死体のようなもので、それこそ実際の役には立たない]と、手ひどく後輩弟子イーソクラテースを批判しています。

 イーソクラテースが「実際の役に立つ」という意味は、[自分の人格形成の役に立つ]ということであり、アルキヒダマースの言うような自分でも確信できないようなことを他人に説得するような詐術こそ、イーソクラテースに言わせれば、むしろまさに誰の役にも、何の役にも立たないものです。
 アルキヒダマースはまた、スパルター士国の周辺侵略に対し、「すべての人間は自由市民であり、自然は誰一人として奴隷に作ってはいない」と演説しました。これは、当時の奴隷制社会では、非常に先鋭的な発想でありました。もっとも、彼は、演説術のプロですから、彼が自分の演説の内容を本心から信じて訴えたのかどうかわかりません。
 なお、イーソクラテースの祖師であり、アルキヒダマースの師であるゴルギアースは、異様に長命であり、ヘッラス半島北部テヘッサリア地方内陸のラリッサ市に居住して、前三七五年頃、約一〇八歳まで生存していたようです。

 プラトーンの諸学派批判 (c390 BC)

 このころ、ソークラテースの弟子のアンティステヘネースを中心とするアテヘェネー市城外南東のキュノサルゲス(白犬)体育場の議論嫌いの「キュニコス学派」、同じくソークラテースの弟子のエウクレイデースを中心とするコリントホス地峡東側のメガラ市士国の議論好きの「メガラ学派」、アリステヒッポスを中心とするアフリカ北岸のキューレーネー市士国の「キューレーネー学派」なども隆盛していました。そして、これらに加えての「イーソクラテース学校」のアテヘェネー市での創設です。このほかにも、当時のアテヘェネー市周辺には、智恵教師(ソプヒステース)や弁論代筆家(ロゴグラポス)が、数多く活躍していました。

 しかし、九四年頃に『ソークラテースの弁明』その他の対論篇を書いて以来、一躍、人気を得た気鋭哲学者プラトーン(三七歳)は、自分こそ師ソークラテースの教えを正統に伝承する者であると自負していました。そして、彼は『エウテュデーモス』、『クラテュロス』、『プロータゴラース』(c390 BC)、『メノーン』(c390 BC)を次々と発表し、[かつての著名な智恵教師たちを、師ソークラテースが吟味する]という実録まがいの対論篇形式で、師ソークラテースの名声と権威を詐称して、これらの他の学派や人々を批判し、自分の独自の教育と哲学を模索していきます。

 プラトーンは、ソークラテースの末期の弟子であり、ほんとうは、アンティステヘネースやエウクレイデース、アリステヒッポスなどの先輩弟子のように、師ソークラテースから親しく教えを授かっていたわけではありません。つまり、もともと彼がソークラテースがこう言っていた、ソークラテースからこう学んだ、と語るのにはムリがありました。だから、ソークラテースの弟子筋としては世間では最も人気があったかもしれませんが、一門の中では顰蹙を買っていたことでしょう。

 すなわち、『エウテュデーモス』では、[無知を自覚して、何も問えないし、何も問わない]とする議論嫌いの「キュニコス学派」も、[言論はすべて真である]とする議論好きの「メガラ学派」も、極端なパロディ化によって、そのいかがわしさが指摘され、また、政治評論家イーソクラテースも、「政治家でも哲学者でもない中途半端なやつ]として批判されます。また、『クラテュロス』でも、いかがわしい言葉の分析を誇張して、言論の限界を提示し、言論以上の知識の存在を暗示します。

 さらに、中編『プロータゴラース』では、智恵教師の大御所、プロータゴラースを登場させて、〈能力(アレテー)〉を主題とし、それが智恵教師などによって教授されうるものかどうかを問題とします。まず、プロータゴラースの演説によれば、誰かが持てばよいなんらかの《製作術》と、万人が持つべきである正義と節制と敬虔という《生活術》とが区別され、[後者の《生活術》は、人によって技量に差があるがゆえに、教えられなければならない]とされます。これに対して、ソークラテースは、《生活術》の正義・節制・敬虔という善の〈能力(徳、アレテー)〉と快楽や知識の関係を問題にし、ついには、逆に、ソークラテースが[善は、知識であり、教えられる]と言い、プロータゴラースが[善は、知識ではなく、教えられない]と言うようになってしまいます。

 『プロータゴラース』は、多様な問題を含んでいますが、[知識であれば、教えられる]という最後の部分は、消化不良のまま終わっています。言うまでもなく、身体的な技術は、言論的な知識ではなく、教えられるにしても、講義伝聞ではなく、あくまで練習指導によらなければなりません。いまだ知識と技術との区別が曖昧であったことが、問題を複雑にしていました。
 先述のように、原初的な葬式宗教であるデルプホス神託所直系の《オルプヘウス教》と、政治的な生活組織である《オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団》とは、厳密に区別しておいた方がよいでしょう。『メノーン』の時点でプラトーンが踏まえているのは、いまだソークラテース同様のデルプホス神託所直系の《オルプヘウス教》のようです。
 [善は知識である]とする見解を、《倫理学》では「知性主義(インテレクチュアリズム)」と言い、[善は情感である]とする「情動主義(センシュアリズム)」と並ぶものとなっています。

 これに続く小編『メノーン』においては、ふたたび[善は知識であり、教えられる]という問題を挙げ、《オルプヘウス教》の教義である霊魂の不死を論じ、[知識は、他人に倣い学ぶのではなく、生前を思い出すのである]という独創的な《回想(アナムネーシス)説》が新たに唱えられます。つまり、[人間は、生前に多くを知っていたが、誕生で多くを忘れてしまっており、きっかけを得れば、それを思い出すことができる]というのです。このアイディアから、プラトーンは独自の教育法を生み出し、深めていきます。

 [事前にそこそこ経験していたことだけが何かのきっかけで自覚的に理解されるようになる]、逆に言えば、[まったく経験のないことは、いくら言葉で説明されても理解できない]という点において、《想起説》そのものは、我々も納得できるものでしょう。しかし、プラトーンの《想起説》が理論的に奇妙であるのは、たかだか事前の経験で充分なものを、いきなり、[生前の経験が必要であり、それゆえ、それがあったにちがいない]などと考えてしまったことです。同じような混乱は、後のドイツ近世の大哲学者カントにも見られ、〈先験性(特定個別の経験より先)〉と〈先天性(すべての経験より先、すなわち、誕生以前)〉とが、ごっちゃになって論じられることになります。

 その後、プラトーン(三七歳)は、知識伝達や霊魂再生の問題の未消化な部分を探究するためか、アフリカ北岸のキューレーネー市を訪ね、また、東地中海のエジプトやプホエニーカに遊び、さらに学識と見聞を広めました。とくにキューレーネー市では、プロータゴラースの弟子でピュータハゴラース政治教団の数学者テヘオドロース(c500 BC)に多くを学びました。また、同市には、ソークラテース同門の先輩弟子アリステヒッポス(約四五歳)が「キューレーネー学派」を成しており、プラトーンは、かならずしもアリステヒッポスと親しくはありませんでしたが、アンニケリスなどの「キューレーネー学派」の人々ともいろいろ会ったりしたようです。

 いずれにせよ、この留学外遊において、ピュータハゴラース政治教団の数理哲学やエジプトの実用数学は、プラトーンをおおいに刺激することとなり、やがて彼独自の思想を展開させるきっかけとなっていきます。また、以後、プラトーンは、もはやソークラテース風の素朴なオルプヘウス教ではなく、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団風の哲学的教義に心酔していくことになります。

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