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第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第一節 傲慢なるアテヘェネー (c440~c429 BC)

 サモス島遠征 (c440~39 BC)

 アテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェス(約五五歳)は、ミーレートス市出身の妻アスパーシアーのためにか、プリエーネー市の帰属に関する小アジア半島西岸中部のミーレートス市民国とサモス島士国の昔からの紛争に介入し、四〇年、サモス島遠征を行います。そして、この遠征には、ペリクレェスと親しい舞唱劇作家ソプホクレェス(約五六歳)も将軍として従軍しました。

 これに対し、サモス島では、エレアー市のゼーノーンの弟子の哲学将軍メリッソス(c480~c400 BC 約四〇歳)が中心となり、地中海を支配するプホエニーカ人に援軍を頼むとともに、みずからも猛然と戦います。また、これに乗じて、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市も反乱を起こしました。

 クセノプハネース(576~484 BC)をはじめてとして、イタリア半島南部西南岸のエレアー市民は、もとよりターラント湾のピュータハゴラース政治教団を嫌っており、先の襲撃事件からこのサモス=ミレートス紛争まで、アテヘェネー=ピュータハゴラース政治教団の拡大に対する抵抗という一連の事件です。

 サモス島哲学将軍メリッソスは、捕虜に取った多数のアテヘェネー兵士たちの額に、アテヘェネー市の象徴であるフクロウの焼印を押すという残酷な見せしめを行います。これで、アテヘェネー兵たちはすっかりおじけづいてしまいました。それで、アテヘェネー民帝国戦争主導官ペリクレェスは、包囲持久に作戦を切り換え、新兵器の攻城具を持ち込み、翌三九年、九ヶ月目にしてようやく打ち敗り、市民政を打ち立てます。そして、人質をレームノス島に移住させました。また、ビューザンティオン市も、以前同様、アテヘェネー民帝国に隷属させました。

 サモス島は、アテヘェネー民帝国の小アジア半島西岸支配の拠点であり、その離反は、重大な危機でした。しかし、戦争主導官ペリクレェスは、「トロイア戦争の十年よりは早かった」と、後々まで自慢にしていました。

 アテヘェネー市とコリントホス市の対立 (438~33 BC)

 コリントホス地峡のコリントホス市士国は、ヘッラス半島西岸のケルキューラ島民国と共同で、アドリア海入口東岸のエピダムノス市に植民を推進していました。しかし、前四三五年、このエピダムノス植民市で内乱が発生し、この内乱は、コリントホス・ケルキューラ両母市間の戦争を誘発してしまいます。

 そして、劣勢のケルキューラ島民国は、エーゲ海のアテヘェネー民帝国に支援を要請します。もとより、アテヘェネー民帝国は、トフーリオス市植民以来、西のイオーニア海への進出を企んでおり、喜んでこの支援要請に応えることにしました。こうして、一植民市の内乱は、新興商工業国アテヘェネー民帝国と、伝統商工業国コリントホス市士国の間の、二大商業国戦争へ発展していってしまいます。

 ここにおいて、三四年、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェス(約六一歳)は、四四年に建設されたイタリア半島南部ターラント湾南の実験理想都市トフーリオス市民国から、名士ケプハロス(c485~? BC 約五一歳)を招き、対コリントホス作戦を考えます。というのも、彼は、当時もっとも有力な武器製作所経営者であり、また、もともと、コリントホス市士国の商業的繁栄拠点であるシチリア島東岸南部植民地シュラークーサー市の出身だったからです。そして、その作戦に基づき、ペリクレェスは、まずシュラークーサー民国を牽制すべく、三三年、そのすぐ北のレオンティイノス市士国や南イタリアのカラブリア半島西南端のレヘーギオン市士国と同盟しました。

 シチリア島は、長年、対岸のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国と戦争をしており、武器の研究も、もっとも進んでいました。名士ケプハロスは、この後、在留外国人としてアテヘェネー市西南のペイライエウス軍港に、奴隷一二〇人も使う大製作所を経営するようになります。
 また、名士ケプハロスには、兄ポレマルコホス(c460~05、約二六歳)と弟リュシアース(459~380 BC 二五歳)という優秀な二人の息子がいますが、彼らは、いましばらくは故郷のトフーリオス市民国に留っていたようです。とくに兄ポレマルコホスは、若手政治家でもあり、イタリア半島南部やシチリア島の諸都市で親アテヘェネー派工作を行っていたのかもしれません。

 また、ちょうどこのころ、親アテヘェネーの老智恵教師プロータゴラース(約六七歳)が、イタリア半島ターラント湾南のトフーリオス市民国からシチリア島に渡島し、活躍していました。しかし、ここに、ペロプス半島西北のエェリス士国の智恵教師ヒッピアース(c481~c11 BC 約四八歳)も渡島し、老プロータゴラースと対抗して、シチリア島の多くの富裕市民に、〈能力(アレテー)〉を教授します。彼は、多芸万能を誇り、演説術はもちろん、自然天文学や歴史地理学、舞唱劇、記憶術、はては衣料品や装飾品の製作まで、何でもこなし、うまく教え、巨大な富を得ます。

 ヒッピアースのシチリア渡島は、ひとつはシチリア島諸市の経済の繁栄と政治の時代の到来に応じるものですが、彼のプロータゴラースに対するライヴァル視には、たんに世代的な問題だけでなく、親アテヘェネー=デェロス島同盟の代表に対する親コリントホス・テヘェベー・スパルター=ペロプス半島同盟の代表という意味も自覚していたようです。
 もともとピッピアースは、智恵教師は副業か体裁だけであって、実際は、一生を通じ、戦略的政治工作を行うエェリス士国の秘密外交官であったのかもしれません。研究調査や宗教活動の名目を借りて、他国に入り、秘密工作を行うというのは、政治の常套手段です。

 このころ、アテヘェネー市の自然哲学者アナクサゴラースの弟子の変人自然学者ソークラテース(三七歳)は、あいかわらず彼の固有の守護神霊である「神霊(ダイモーン)の声」の禁止のみに従って、ひたすら天地のことだけを考えながら、風呂に入らず、下着も付けず、クツも履かず、どんな困難辛苦にも耐え、カネもモノも奴隷も持たない異様に簡素な超俗的生活をしていました。

 というのも、ソークラテースは、デルプホス神託所直系の《オルプヘウス教》に強い信仰を持ち、[人間の本質である霊魂(精神、人格、自我)に比べれば、名誉もカネも、さらには肉体すらも、しょせんはその付随物にすぎない]と考え、ひたすら〈霊魂の世話(エピメレイア=プシューケー)〉だけを思っていたからです。それゆえ、このころすでに、同年代の名門富裕市民クリトーン、カハイレプホーンとその弟のカハイレクラテェス、サンダル屋シモーンなどが、ソークラテースの弟子となって、彼からいろいろなことを学んでいました。

 当時の《オルプヘウス教》には、[古いデルプホス神託所直系のもの]と、[新しいピュータハゴラース政治教団系のもの]があったようです。どちらも〈不死の霊魂〉を信じるものではありましたが、前者は、土俗的で原点的であり、一般に広く葬式宗教として知られているものであり、これに対して、後者は、文化的で理論的であり、イタリアなどで政治宗教として現れてきたものです。前者は、信仰があくまで死後の問題に限定されているのに対して、後者は、〈霊魂の浄化〉という発想によって、信仰が日常的な現世の問題に拡張されています。
 たしかに、ソークラテースは、〈霊魂〉の問題を死後ではなく現世において捉えていますが、しかし、べつにピュータハゴラース政治教団の奇妙な戒律を守って〈霊魂の浄化〉に努めていたわけではありません。彼が自分の守護神霊と考えている「ダイモーンの声」は、同じ戒律でも、ピュータハゴラース政治教団より、デルプホス神託所の神託にこそ似ています。
 なお、「ダイモニオンの声」などと書いてある本がありますが、これは古代ヘッラス語の誤解です。「神霊(ダイモーン)の声」が、原語で「ダイモニオン」であり、直訳としては、神霊的なもの、ないし、独立所有格として、神霊のもの・見解・住家、ということになります。
 後のソークラテース裁判において、告発者たちは、これをさらに「ダイモニア(神霊的なもののたぐい)」と複数に改竄して、怪しげな印象を強調していますが、ソークラテース自身の説明では、いつも単数です。さらに、ややこしいことに、後世には「+イオン」が縮小語尾として使用されることもあったようで、こうなると、「ダイモニオン」は、「小神霊(妖精)」を意味することになりますが、これもソークラテースとは関係がありません。
 こんな変人の彼にも、家族はありました。妻は、ミュルトー、父ソープフロニスコスの親友であった公正名将軍アリステイデースの娘です。二人の間に息子ラムプロクレェスが生れますが、その高齢出産かなにかでミュルトーは亡くなってしまいます。このため、ソクラテスはクサンテヒッペーと再婚したものの、これがとんでもない悪妻として有名です。
 サンダル屋シモーンは、たいへん実直な人物であり、戦争主導官ペリクレェスも、おおいに彼を見込んで政治に取り立てようとしました。しかし、彼は、「自由になんでも言えるほうがよい」と言って、断ってしまったそうです。ちなみに、ヘッラス人は、靴は履きません。メソポタミア人もエジプト人もローマ人も、古代の文明は、熱帯・温帯だからか、みなサンダルでした。

 メガラ海上封鎖とポテイダイア遠征 (432~31 BC)

 アテヘェネー民帝国は、シチリア島工作を行った上で、コリントホス地峡を制圧、コリントホス市士国を包囲します。ところが、地峡手前の伝統商工業国メガラ市士国は、これに服従しません。このため、三二年、「パルテヘノーン」を完成させて繁栄の頂点にあったアテヘェネー民帝国は、デェロス島同盟内の港湾や市場の使用を禁止して、メガラ市士国を海上封鎖してしまいます。

 しかし、こんどは、コリントホス市士国によって植民されたエーゲ海北西カハルキディケー地方カッサンドロス半島付根南西岸のポテイダイア市民国が、アテヘェネー民帝国の支配するデェロス島同盟に加盟していながら対メガラ市士国海上封鎖への協力を拒絶、それゆえ、同三二年、アテヘェネー民帝国はポテイダイアに遠征します。そして、これには変人自然学者ソークラテース(三七歳)も参加し、酷寒の冬の地で超人的に活躍しました。また、この遠征には、父を失って叔父ペリクレェスに育てられた名門アルクマイオーン家野心家美少年アルキヒビアデース(450~04 BC 一八歳)も参加しており、超人的なソークラテースに救助され、二人は精神的に相思相愛の仲となっていきます。

 ソークラテースは、酷寒の冬のポテイダイアでも薄着で裸足でした。しかし、当時の軍制からすれば、アテヘェネー民帝国に正規の足軽歩兵部隊は、存在せず、参戦する以上は、装甲装備も、きちんと持って行っていたはずです。

 アルキヒビアデースは、父クレイニアースが、四七年のボイオーティア戦で亡くなってしまっており、親戚の戦争主導官ペリクレェスに育てられました。彼は、首を曲げ、品を作って、レロレロと舌足らずな喋り方をするコケティッシュ(媚態的)な美少年で、当時の中年ホモおじさんたちは、すぐにクラクラっときてしまったようです。そこで、ほかの少年たちも、おじさんたちにもてようと、この舌足らずな喋り方を熱心に真似したと言います。しかし、アルキヒビアデースは、一面、けっこうすざまじく、レスリング場で激昂して、仲間の少年を撲殺したこともありました。
 青年アルキヒビアデースは、ホメーロスの著作について聞いて、これを読みたいと思い、教師のところへ行くと、「持っていない」と答えたので、「それでも教師と言えるのか」と言ってなぐりました。そして、別の教師のところへ行くと、「持っているし、間違いも自分で直してある」と答えたので、「どうして教師に甘じるのか」となじりました。
 プラトーンは、『プロータゴラース』(c390 BC)において、[アテヘェネー市最盛期である「パルテヘノーン」が完成した「ヘッラス東西戦争」開戦直前の三二年ころに、名門政治家カッリアースの家において、クリティアース(約二八歳)・アルキヒビアデース(一八歳)らの前で、プロータゴラース(約六八歳)・ヒッピアース(約四九歳)・プロディコス(四十代?)と、ゴルギアースを除く三大智恵教師が揃い、〈能力(徳、アレテー)〉について、人格教育者ソークラテース(三七歳)と議論した]としています。しかし、これはたんに[野心家青年たちの前で智恵教師たちをソークラテースが論破した]という理念的状況設定にすぎないものであり、むしろ、人格教育者プラトーンが、ライヴァルの智恵教師イーソクラテースを批判するために書かれたものでしょう。
 なお、アルキヒビアデースは、狂宴歌作家アリストプハネースと同年生れです。また、先述のように、名門政治家カッリアースは、アテヘェネー市でも有数の富裕市民の大人ヒッポニィコスの息子であり、アテヘェネー市における智恵教師たちの最大のパトロンでした。彼の姉は、富裕な楽器製造業者でもある法廷弁論家テオドロスと結婚し、その子が、後にプラトーンと青年教育を争う智恵教師イーソクラテースです。
 ある日、美少年アルキヒビアデースは、悪友と賭けをして、大人ヒッポニィコスを町中でいきなりひっぱたきます。そして、翌朝、彼は、悪びれもせずヒッポニィコス邸を訪れ、詫びて上着を脱ぎ、鞭打つように求めました。大人ヒッポニィコスは、いたく感心し、娘ヒッパレテー(カッリアースの妹)をアルキヒビアデースに嫁がせようとします。アルキヒビアデースは、舌先三寸で持参金を巨額なものに釣り上げ、しぶしぶヒッパレテーと結婚しました。しかし、その持参金は、いろいろ放蕩で費やし、女遊びもますます派手に行うようになってしまいます。また、ヒッポニィコスの死後、その未亡人は、戦争主導官ペリクレェスと再婚しましたが、後に離婚してしまいます。アルキヒビアデースに嫁いだ妹ヒッパレテーも、若くして死去してしまいました。

 翌三一年春、一般大衆に人気のある舞唱劇作家エウリーピデース(約五四歳)は、反コリントホス的なアテヘェネー市の情勢を踏まえて、コリントホス市を舞台に、王子イアーソンに裏切られた内縁の妻メーデイアの狂乱の復讐を描く『メーデイア』を作って、春の「ディオニューソス大祭」に出し、「山羊歌」部門の三位となります。その主人公メーデイアの強烈な個性と復讐の修羅場は、これまでの舞唱劇にはおよそ考えられなかったものであり、まさに悲惨な戦争の時代の幕開けを予感させるものでした。

 ペリクレェス=サークルの衰運と自然学の展開 (c435~c430)

 アテヘェネー市の名門アルクマイオーン家出身の戦争主導官ペリクレェスは、もはや六〇歳を過ぎており、デェロス島同盟基金を建築や演劇に流用して虚栄を誇ってきたアテヘェネー市と彼の周辺の知識人の「ペリクレェス=サークル」に対する反感も、すでに内外に高まっていました。

 彼と親しく交際していた彫刻建築家プヘイディアース(約五八歳)は、三二年の「パルテヘノーン」の完成の後、この工事で不正な利を得たとして逮捕され、最期は獄死したと伝えられています。また、同じく彼と親しく交際していた高齢病中の自然哲学者アナクサゴラース(約六八歳)も、その無神論的な機械論的世界観のために不敬罪で告発され、追放されてしまいます。さらには、ペリクレェスの後妻才女アスパーシアーもまた、同じく不敬罪で起訴されてしまっていました。くわえて、メガラ市士国商人に対する海上封鎖も、エーゲ海経済に混乱を起こし、さらに彼の評判を落としました。

 これら一連の攻撃は、戦争主導官ペリクレェスの名門アルクマイオーン家と対立する将軍トフーキューディデースの名門プヒライオス家によるものだとも言われています。
 アナクサゴラースの裁判は、ペリクレェスの弁明にもかかわらず、有罪となってしまいました。ちょうどアナクサゴラースの子供たちもあいついで死に、有罪の判決とともに、彼は深く悲しんだと言います。しかし、人々がアナクサゴラースに「アテヘェネー市は君を捨てた」と言うと、彼は毅然として「私がアテヘェネー市を捨てたのだ」と答えてアテヘェネー市を去りました。そして、彼は、黒海入口マルマラ海南岸西部のラムプサコス市士国に迎えられ、二八年(約七二歳)頃、そこで亡くなりました。

 アナクサゴラースが追放された後、弟子のアルケヘラーオス(5C BC)が代わってアテヘェネー市で自然学を教授し、ソークラテースも、アナクサゴラースに続けてアルケヘラーオスに学びました。しかし、アルケヘラーオスは、「正義や恥辱は、〈倫理(ノモス)〉の上のことであって、〈自然(ピュシス)〉にはない」という言葉でよく知られるように、自然学との対照として、倫理学を構想するようになります。そして、[ある物事が〈自然〉によって生じたのであれば、それは絶対的であり不変的だが、しかし、〈倫理〉によって生じたのであれば、それは相対的であり可変的である]という〈自然〉と〈倫理〉とを峻別する彼の発想が、多くの人々の共通的了解となり、智恵教師の《演説術》の理論的根拠となっていきます。

 また、これらのアナクサゴラースやアルケヘラーオスの《多元主義自然哲学》に対して、アドリア海東岸アポッローニアー市出身のディオゲネース(5C BC)は、同じくアテヘェネー市に移住して、古いミーレートス学派的な《一元主義自然哲学》を再興し改良し、[大気が、万象を生起する]と考え、さらに、[人間の霊魂も大気であり、万象を整理し、操作する]と論じたようです。

 また、エレアー市のゼーノーンの弟子のレウキッポス(c480~? BC)は、歴史上初めて〈虚空間〉というものを発見し、これを「無いものも、有るものに劣らず存在する」という言葉で表現しました。そして、この〈虚空間〉の発見によってこそ、歴史上初めて《粒子説》を採用することもできたのです。すなわち、彼によれば、[万物は、〈充実体(プレーレス)〉と〈虚空間(ケノン)〉とからできている]とされます。〈充実体〉は、多様な種類の非常に微小な粒子であり、「アトム(不可分体)」とも呼ばれます。そして、[原初においては〈虚空間〉の中に〈充実体〉の粒子が目的もなくただよっていたが、これらがたがいに衝突しあってしだいに渦流を発生し、その中でさまざまな種類の〈充実体〉が、さまざまな方向や配列で結合して、多様な物質を構成するようなった]とされます。

 プロータゴラースと同じエーゲ海北岸トホラーキア地方のアブデラ市民国に生れたデーモクリトス(c460~c370 BC)は、アテヘェネー市はもちろん、はるかエジプトやパールサ、果てはインドまで訪れ、諸学を学びますが、とくにエレアー学派のレウキッポスの《粒子説》に魅かれ、独自の哲学を拓いていきます。すなわち、彼によれば、[感覚は、対象から剥離した粒子の似姿(エイドーラ)が霊魂の粒子に衝突することによって発生する]と考えられ、[霊魂の粒子の運動が他の粒子の運動によって乱されない生活こそ、理想である]と思われたのです。

 レウキッポスによって作られ、デーモクリトスによって伝えられたアトム説や真空説は、中世にはむしろ「自然は真空を嫌う」というアリストテレース以来の独断的教義によって否定され続けてきました。けれども、その後、画期的アイディアとして、近代科学の世界観の端緒を拓くことになります。
 また、デーモクリトスによって、生活論にまで拡張された《粒子説》は、その後のエピクロス(c342~c271 BC)やその弟子たち、とくにルクレティウス(c94~c55 BC)に強い影響を与えました。

 ヘッラス東西戦争の勃発 (431 BC)

 三一年、海上封鎖されてしまったメガラ市士国救援のために、こんどは、ペロプス半島同盟が発動し、テヘェベー士国が親アテヘェネーのプラタイアー市を攻撃、こうして、巨大デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国と伝統スパルター・テヘェベー・コリントホス=ペロプス半島同盟の全ヘッラス的大戦争、「ヘッラス東西戦争」(431~05 BC)が勃発してしまいます。

 この戦争は、デェロス島同盟によってエーゲ海を制覇した新興アテヘェネー民帝国が、ボイオーティア地方、さらにはイオーニア海へ西進しようとしたことに対する伝統諸国の抵抗であり、したがって、軍事的にはスパルター士国が中心であるにしても、実質的にはむしろボイオーティア地方を支配するテヘェベー士国やイオーニア海を支配するコリントホス市士国の戦争でした。それゆえ、ペロプス半島同盟は、「ヘッラス世界のアテヘェネー支配からの解放」を訴え、スパルター士国エウリュプホーン王家王アルキヒダーモス二世(c400~即位376~27 BC 約六九歳)を中心に、同等独立の国家の連合体として、アテヘェネー民国の野望と戦いました。

 「ヘッラス東西戦争」は、従来のアテヘェネー市中心的な歴史観では、「ペロプス半島(ペロポンネェソス)戦争」と呼ばれますが、これはあくまで[アテヘェネー市の対ペロプス半島同盟の戦争]という意味であって、ペロプス半島で戦争があったわけではなく、むしろ、ヘッラス半島側のテヘェベー士国も、ペロプス半島同盟の中心のひとつでした。それゆえ、世界史的な観点からすれば、どちらに与することもなく、中立的に「ヘッラス東西戦争」と呼んだほうがよいでしょう。
 なお、この戦争は、当時は、「アルキヒダーモス二世戦争」(431~21 BC)、そして、「ニーキアースの平和」(21~15 BC)を挟んで、「シチリア大遠征(415~13)」と「デケレイア高地戦争(413~04 BC)」の三つの戦争から成り立っている、と考えられていました。

 デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェス(約六四歳)は、すでに求心力を失いながらも、豊富なデェロス同盟の資金、強固なアテヘェネー市の防衛、優勢なデェロス島同盟の海軍を活用すべく、[アテヘェネー市郊外の農民まで市城塞内に移住させて、大籠城持久戦の態勢を固め、その間にデェロス島同盟海軍でペロプス半島同盟の要衝を撃っていく]という大胆な作戦を採りました。

 一方、ペロプス半島同盟アルキヒダーモス二世は、この場に至ってもなお、永年の友人ペリクレェスの良識に期待しており、ようやく夏なって東北側からアッティカに侵入するも、その攻撃は、あくまでアテヘェネー民帝国の降伏を誘発しようとするものにすぎず、すぐに引き上げてしまいました。この間に、デェロス島同盟を率いるアテヘェネー民帝国は、ペロプス半島を周航して、西南部メッセーニア地方西南端のメトホーネー城塞、西部エェリス地方沿岸を攻撃、さらにヘッラス半島西岸アカルナーニア地方を帰順させ、また、ボイオーティア北部ロクリス地方とサローニコス湾アイギーナ島を奪取して占拠、トホラーキア王国やマケドニア王国と同盟、そして、メガラ市士国へ侵攻します。

 そして、三一年冬の戦没者追悼式において、ペリクレェスは、[美を愛し、知を求め、武に励み、富を誇らず貧を恥じず、公私ともに心がけ、私事にあっては他者の自由を尊び、公事にあっては国家の法規を重じる<自由市民>によるアテヘェネー民国の<市民政>こそ、全ヘッラスが模範とすべき理想そのものである]と訴え、[このような〈自由市民〉による自由な市民政国家こそ、命を賭けて守るに値するものである]と主張しました。

 アテヘェネー市の大籠城持久戦が可能であったのは、同盟から資金を流用し、黒海から穀物を輸送する強力な海軍と、ペイライエウス軍港とアテヘェネー市城をつなぐ強固な長壁があればこそです。このような資金と補給とがなければ、国民全員がすぐに飢餓に陥ったことでしょう。
 [〈自由市民〉は、他人の奴隷にはもちろん、いかなる物事の奴隷にもならない]、[〈自由市民〉は、[美を愛し、知を求め、武に励む《教養(パイデイアー》]を持つ]というアテヘェネー市の〈全能人〉の理念は、その後のヨーロッパにおいても上流階級の絶対条件となっていきます。人間が道具ではなく人間であるのは、人間固有の〈能力(徳、アレテー)〉、すなわち、自己研鑚と日常生活からなる唯一無二の自分の人生を多面的に喜び味える《教養》によってであり、それゆえ、《教養》は《人間性(フーマーニタース)》と呼ばれることになります。
 偏狭な一芸専門者の養成を「個性教育」と呼ぶ人がありますが、それは人間をただの道具、ないし、物事の奴隷にしてしまうものであり、むしろ人間としての個性を否定し、[人間として生きている]という根本的な生活の喜びを圧殺してしまうものです。
 トフーキューディデースによるペリクレェスの「戦没者追悼演説」は、歴史的にもっとも有名な演説のひとつであり、それこそ自由市民の教養として、また、演説一般の模範として、ぜひ読んでおくべきものでしょう。それは、死者を追悼しつつ、生者を鼓舞する、たいへんに見事な名文です。
 しかし、ペリクレェスの演説は、あくまでアテヘェネー市のヘッラス世界全体の征服と支配を正当化するためのものです。[「市民政」=正義、「貴士政」=邪悪]という単純な図式も強引です。たしかにペロプス半島同盟諸国は、古臭い「貴士政」を採っているところが少なくありませんでしたが、アテヘェネー=デェロス島同盟の「市民政」は、アテヘェネー市の一国帝国主義的支配であり、アテヘェネー市自体も参政権は住民のごく一部の富裕市民に限定されており、それも実質は、戦争主導官か市民扇動家の独裁でした。それゆえ、デェロス島同盟諸都市は、一応はアテヘェネー市側でしたが、その大半の弱小都市国家は、もともと貢納を送るだけであり、それも法外な金額であるために、富裕市民は、しばしばアテヘェネー市支配からの離脱のためにむしろ「寡頭政」を求めていました。けれども、アテヘェネー市は、同盟諸都市の不満下層庶民を利用して、これを防ぎ続けていきます。

 市城の中の疫病 (430~29 BC)

 ところが、翌三〇年の初夏、エジプトから致死的な疫病(ペスト?)が流入し、これが人口過密となっていたアテヘェネー市城塞内に伝染すると、瞬く間に蔓延していってしまいます。しかし、この間にも、ペロプス半島同盟は、アッティカ地方南部・東部を侵略し、耕地を蹂躙していきます。

 この致死的な疫病とアッティカ本土侵略による士気減退・秩序混乱の中、戦争主導官ペリクレェス(約六五歳)は、ふたたび演説を行い、[我々は、さんざんに同盟を支配し搾取してきた、それゆえ、この戦争の敗北は、たんに敵側への隷属だけではなく、ただちに同盟からの復讐を意味するだろう、だから我々には、もはや勝利以外に活路はない]と、戦争の継続を訴えます。しかし、武器用の皮なめし工場を経営する成金市民の市民扇動家クレオーン(?~422 BC)は、この惨状を、籠城作戦を立てた戦争主導官ペリクレェスの失策として弾劾し、ついには、ペリクレェス(約六五歳)は、罰金と公職追放を宣告されてしまいます。

 この演説は、アテヘェネー市のことを言っているだけでなく、ペリクレェス自身のことでもあるでしょう。繁栄するアテヘェネー市は、「市民政」とは名ばかりで、デェロス島同盟諸都市を支配する地位とデェロス島同盟諸都市から搾取した公金を住民に平等にばらまくだけのことであり、実の政治そのものは、戦争主導官ペリクレェスが「独裁政」を採っていたからです。そして、このように共犯者であるかぎり、アテヘェネー市の住民たちは、この事実上のアテヘェネー市とペリクレェスの「独裁政」を容認してきました。
 おそらく「アジア太平洋戦争」末期の日本、そして、日本の軍人幹部も、同じ発想だったのでしょう。自分たちがしてきたことを知っていれば、敵国以上に同盟や国民からの復讐が恐ろしくて、降伏などできはしません。それゆえ、「一億玉砕」まで抵抗を強制したのではないでしょうか。

 けれども、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国には、ペリクレェスに代わるほどの指導者などなく、翌二九年には、市民たちは、やむなくペリクレェス(約六六歳)をふたたび戦争主導官に復帰させます。しかし、ペリクレェスは、妹も、息子たちも、みなこの疫病で亡くして気を落としており、本人自身もまた、すでにこの疫病にかかってしまっていました。そして、この致死性の疫病は、なおもアテヘェネー市内で猛威をふるい続け、ここに籠城している市民たちを襲っていきます。

 変人自然学者ソークラテース(四〇歳)は、もともと異様に身体屈強で、生活も質実で規則正しく、このアテヘェネー市の疫病の大流行のさなかでも、ただ一人、まったく元気だったそうです。

 状況は、もはや戦争どころではありません。貴族騎士や富裕農民は、もはや講和を望みました。しかし、ペリクレェスも病床に就いてしまうと、もとより名目ばかりであったアテヘェネー市の「市民政(デーモクラティアー)」は、さらに悪いただの「愚民政(オクフロクラティアー)」に変質してしまいます。すなわち、成金市民クレオーンを典型として、その時々の党利党略、私利私欲で何とでも言う「市民扇動家(デーマゴーゴス)」たちが現れ、アテヘェネー市の覇権の維持拡大を望む商工業者の富裕市民や、兵士給与や土地獲得を当てにしている下層庶民の支持に乗って、威勢よく戦争を続けました。

 「デーマゴーゴス」は、[市民(デェモス)を扇動(アゴー)する者]のことですが、その多くは、数十人もの奴隷を活用して製造所を経営する新興の工業富裕市民でした。彼らは、土地の限界がある商品作物の農業富裕市民とは違って、いくらでも事業を拡大でき、とくに武器関連の工業は、この戦争が特需となりました。
 クレオーンは、富裕な皮なめし工場経営者であったにもかかわらず、あえて労働者風の格好で演壇に上り、上着を脱いだり、手足を叩いたりして、いやがおうにも聴衆を沸せる、ひどく下品で派手な演説を好んで行いました。演説の品格という点で言えば、ペリクレェスとクレオーンの違いは、リンカーンとヒットラーの違いといったところでしょうか。感銘は、永遠に残りますが、熱狂は、すぐに醒めます。
 戦争は博打と同じで、むしろ敗北しているほど止めようとしないものです。 そして、博打より悪いことに、それは損得ではなく、人生の意味の問題です。市民の犠牲や兵士の努力は、「ムダ死に」ではなく、それによってなにかが贖われる「尊い犠牲」でなければならず、贖われたなにかが得られるまで止められません。ここでの政治家の本来の役割は、すでに贖われたなにかを見出して、失われたものに意味を与えてやることです。
 〈政治家〉が、国家の進路を問題とするのに対し、〈市民扇動家〉は、国家の中での自分の地位しか問題としません。自分が立身出世できるならば、後世に国家が崩壊破滅してしまってもかまわない、と彼らは思っています。ひがな選挙と人事に明け暮れ、政治などにかまけているいとまのない多忙な「政治家」、そして、その取り巻きの「報道機関」は、まさにこのような〈市民扇動家〉の《愚民政》の典型でしょう。

 海戦の夏 (329 BC)

 同二九年、ペロプス半島同盟は、ふたたびボイオーティアのプラタイアー市を攻略するも失敗。ついで、三一年にアテヘェネー民帝国に帰順したヘッラス半島西部アカルナーニア地方へ遠征します。というのも、ここは、アドリア海貿易の拠点として有望だったからです。ところが、これを追加支援するペロプス半島同盟海軍の筆頭監督官将軍ブラーシダース(c380~422 BC 約五一歳)の三段櫂船四七隻は、途中、哨戒中のコリントホス湾出口北岸ナウパクトス港を拠点とする提督ポルミオーンのアテヘェネー海軍二〇隻と衝突、ここに思わぬ激戦が展開することになってしまいます。

 ペロプス半島同盟海軍は、アテヘェネー海軍の得意とする突破戦(ディエクプルース)を避けるべく、円陣を組みますが、提督ポルミオーンのアテヘェネー海軍は、少数であるにもかかわらず、その高速の機動力を活かして、敵の円陣の周囲を回って押し込めるかなり特殊な包囲戦(ペリプルース)で臨みます。この結果、しだいにコリントホス海軍の艦船は、中央に集められ、ぶつかり合い、ついには一二隻が捕まってしまいました。

 当時の戦艦は、その後の砲艦と違って、突先の衝角を唯一の武器とするものであり、格好の標的となる側面を敵にさらして周囲を回るなどという戦術は、よほど逃げ足に自信がなければできないことです。

 初秋、コリントホス海軍は、七七隻の三段櫂船で向かいます。そして、アテヘェネー海軍二〇隻を南岸に誘い出し、包囲戦を仕かけました。ところが、機動力のあるアテヘェネー海軍は、これを知って転進してしまいます。逃げるアテヘェネー海軍を急いで追おうと、コリントホス海軍の陣型が崩れると、アテヘェネー海軍は、再び転進、そして、得意の突破戦で猛攻、次々とコリントホス海軍を撃沈してしまいます。

 やむなくペロプス同盟軍は、コリントホス市に戻りますが、東のサローニコス湾側にも古い四〇隻の三段櫂船があることがわかると、将軍ブラーシダースは、ただちに、アテヘェネー市の急所であるペイライエウス軍港の奇襲を決めます。すなわち、コリントホス海軍は、櫂だけを持って地峡を越え、夜のうちに古船を出しました。しかし、血まよったのか、怖けづいたのか、コリントホス海軍は、アテヘェネー海軍の三段櫂船わずか三隻を取り押えるために、途中のサラミース島のサラミース港に突っ込みます。この襲撃を聞いて、ペイライエウス軍港に残っていたアテヘェネー海軍は、すぐに臨戦体制を準備、一方、コリントホス海軍は、古船が浸水してきたので、そのまま帰還してしまいました。

 『歴史』を書いたトフーキューディデースは、「この奇襲が実行されていれば、ペロプス半島同盟軍はアテヘェネー民帝国軍に致命的な損害を与えていただろう」と言います。しかし、残念ながら、ペロプス半島同盟軍は、戦略的意義というものを、まったく理解していませんで した。
 かつての日本軍の将軍にも同じような傾向がしばしば見られました。彼らは、目先の華々しい戦果に心を奪われ、[敵軍追撃より拠点破壊の方が戦略的意義がある]ということがわからなくなってしまうのです。たしかに戦果は華々しい方が士気は上がりますが、士気を上げても戦争に負けては、何にもなりません。

 じつは、このころ、アテヘェネー市では大変なことが起こっていました。あの戦争主導官ペリクレェスが、例の致死性の疫病で死去してしまったのです。そればかりか、すでに市民の三分の一もがこの疫病で死に、かろうじて生き残った者にもひどい後遺症が残っていました。そして、この退廃的気分の中、治安も大いに乱れていきます。一方、ペロプス半島同盟側は、戦争で海上封鎖されていたために、皮肉にも、この疫病による被害はほとんどありませんでした。

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