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第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第三節 ニーキアースの平和 (422~415 BC)

 ニーキアースの平和とソークラテースの覚醒 (422~21 BC)

 二二年夏、勢いづく市民扇動家クレオーンは、エーゲ海北岸の要衝アムプヒポリス市を奪還すべく、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍を指揮して遠征します。ここに人格教育者ソークラテースも従軍しました。しかし、足軽歩兵の機動力を活かしたペロプス半島同盟軍の筆頭監督官将軍ブラーシダース(約五八歳)の奇襲に大敗、クレオーンも逃走途中で戦死してしまいます。ペロプス半島軍側の損害はわずか七名でしたが、しかし、その中のひとりは、ペロプス半島軍の中心、将軍ブラーシダースそのひとでした。

 舞唱劇作家アリストプハネース(約二九歳)は、翌二一年春、狂宴歌『平和』(421 BC)を発表し、武器製作所を経営して戦争を商売にしている客席の富裕市民を露骨に直接攻撃し、農業回帰の平和を提唱します。また、保守政治家ニーキアースも、両同盟陣営の強硬戦争派である市民扇動家クレオーン・将軍ブラーシダースの戦死というこの機会を捉えて、和平交渉を始めます。一方、スパルター側も、同年で古代からの宿敵アルゴス士国との三〇年平和条約が効力を失ってしまうこともあって、和平を急ぎました。そして、同二一年、両同盟にようやく講和条約、「ニーキアースの平和」が実現します。

 すでに二二年春も、アリストプハネースは、アテヘェネー市民の裁判狂いを皮肉った『蜂』(422 BC)で一等を授賞しています。この中に、「アルカハイオメレシドノプフリュニケヘラータ(シドーン市プフリュニコホス風古蜜歌)」(=原語で三〇文字)という言葉があり、これを夏目漱石も『我輩は猫である』(1905)の中で世界で一番長い言葉として上げています。しかし、この単語は、固有名詞が二つも入っており、長い地名と長い名前を使えば、いくらでも長い言葉ができてしまいます。私の知る世界で一番長い言葉は、『メァリー=ポッピンズ』(1964)に出てくる「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」(=原語で三四文字)」です。近頃の複雑な病状なら医学辞典にもっと長い言葉があるかもしれません。宮沢賢治が好んだ、スとスの間が一マイルもある「スマイルス」が一番長いなどと冗談は、いまどき中学生くらいしか喜びません。
 三四年に移住してきたペイライエウス軍港の在留外国人の名士ケプハロスは、武器製作所経営者の典型であり、このヘッラス東西戦争によって莫大な財産を形成していきます。

 さて、この「ニーキアースの平和」によって、アテヘェネー市民も、ようやくテヘェベー士国が支配するヘッラス半島中東部ボイオーティア地方を抜けて、中部プホーキス地方のデルプホス神託所に行けるようになります。そして、ソークラテースの古くからの友人である市民扇動家カハイレプホーンは、デルプホス神託所に行って、「ソークラテース以上の知者はない」との神託を受けてきます。

 しかし、人格教育者ソークラテースは、この神託をずっとまじめに悩み続けました。そして、彼は、デルプホス神託所入口の「自身を知れ(グノートヒー・サウトン)」の言葉で、[自分以上に、自分自身の無知を知る者はない]と気づき、そこから、[人間の無知を自覚し、また、自覚させることこそ、神々から与えられた自分の使命である]と考えるようになります。

 「ソークラテース以上の知者はない」という神託は、かなり唐突です。これは、質問者カハイレプホーンが、熱心なオルプヘウス教信者で占術もできるソークラテースの友人であることを、デルプホス神託所の巫女が知っていて、カハイレプホーンの面倒な相談をソークラテースにたらい回しにしてしまったか、さもなければ、もともとカハイレプホーンが、いままでデルプホス神殿に行かれなかった間のソークラテースの占術を信じかねて、直接的にそのように尋ねたかでしょう。いずれにせよ、当時の状況としては、この神託は、ソークラテース自身の理解と違って、ソークラテースが占術師として権威あるデルプホス神託所公認のお墨つきを得た、ということの方を意味していました。

 ソークラテースの教育 (321~c10 BC)

 ソークラテースは、当時流行していた対論を利用して、自分は愚直に無知の立場を守りつつ、知者を僭称する人々を質問攻めにし、彼らに無知を自覚させ、また、人々を権威への盲信から覚醒しようとしました。それゆえ、彼の質問は、愚弄するために謙虚を装って近づく慇懃無礼な「茶番(エイローネイアー)」として、権威に安住する人々に忌み嫌われるようになっていきます。

 けれども、彼は、智恵教師ゴルギアースの《演説術(レートリケー)》のように自分の見解へ誘導するわけではなく、また、智恵教師エウテュデーモス兄弟の《論争術(エリスティケー)》のように相手の見解を反駁するわけでもなく、あくまで問題そのものに即して、相手の見解の曖昧な部分を追及して質問していくだけです。にもかかわらず、このような具体的で詳細な検討の結果、たいていの場合、なぜか相手のもともとの見解が一般論として成立しなくなり、空虚なイデオロギーにすぎなかったことが暴露されてしまいます。このような質問の仕方は、《対論術(ディアレクティケー)》と呼ばれましたが、しかし、ソークラテース自身は、《思索術》と違って、これを教えるべき技術のひとつとはしていませんでした。

 もっともプラトーンの作品に登場するソークラテースは、《演説術》のように誘導的な分析推論や、《論争術》のように手品的な帰謬反駁を行っていることも少なくありません。

 ソークラテース自身は、あくまで実践の人で、日夜、身を以って善い行いに努めました。ここにおいて、彼は、後のプラトーンなどと違って、絶対的な善などは信じておらず、あくまで個別の具体的な問題に即して善悪を考えました。その判断は、まったく徹底して是々非々の妥協なき正論であり、それゆえ、一般論として取られると、伝統や倫理を否定したり、両親や友人を軽視したりしているかのように誤解されるような判断も、しばしばありました。

 たとえば、ソークラテースは、[一夜の売春婦ですら慎重に選ぶのに、アテヘェネー民国は、国家と国民の運命を委ねる公職をくじ引きで決めるとは、なんたることか]と、公然と批判していましたが、これは、人々には市民政そのものの否定と受け取られました。実際、彼は、見たこともない聞きかじりのスパルター士国を理想視していたようです。また、たとえば、彼は、[病気には、両親より医者の方が役に立つ]とか、[友人も、好意だけではどうにもならない]とかのような正論を主張しましたが、これも、両親や友人を軽視する発想として、人々の反発を買いました。

 この時代の、そしていまでもよくある誤謬は、[言葉は、同一であるべきであり、あるはずである]という発想です。しかし、言葉は、けっして写真のような物体ではなく、かならず誰か人間に向かって話し掛けられる人間のコミュニケィションの行為であり、それゆえ、むしろ相手に応じ、時と場に合せ、選ばれるべきものです。ソークラテースは、つねに正論とはいえ、その言い方はむしろいつも臨機応変です。けれども、このために、伝え聞いた人々は、これを言葉の文字づらだけで理解して、彼を判断しようとしました。ここから学ぶべきは、[言葉は、相手に応じ、時と場に合せるだけでなく、さらに、それらから切り離してもなお無難なものをより慎重に選ばないといけない]ということでしょう。

 ソークラテースは、[〈能力(アレテー)〉は知識である]と考えており、[良く知ることで善く行える]と思っていました。それゆえ、彼は、日頃から、いろいろな問題について、さまざまな類似の事例を挙げて、考えを深めるように努めていました。彼の[良く知る]というのは、ひとつにはたしかに後にプラトーンが考えたように、[その物事の概念としての本質的な定義を知る]ということですが、しかし、プラトーンと違って、ソークラテースはむしろ[物事に、すべての場合に万能に通用するような本質的な定義などない]と考えていたからこそ、[日頃からさまざまな問題を立てて、あらかじめ考えを深めて備えておくことが必要だ]としたのでしょう。つまり、彼の[良く知る]というのは、まさに[さまざまな個別の具体的問題に即して、あらかじめよく考えておく]ということです。

 たとえば、彼は、[政治家になるには、その国の財政や兵力、食料事情など、さまざまな知識が必要である]と考え、[空理空論で国家を論じるより、まず実際に親族と和し、友人を得て、自家を興すことから始めるべきだ]と言っていました。一方、天文学だの、自然学だのについては、[航海や生活に実用として必要な範囲だけ、知っていればよい]とし、[その本質を究めようなどというのは、神理学(オカルティズム)と同様、人間の知識の限界を知らない無謀で無駄な研究である]と考えていました。このような意味で、ソークラテースは、プラトーンと違い、きわめて実践主義(プラグマティズム)的でした。
 現代でも、聞きかじりでよくしゃべる政治家やコメンテイターが多くいます。それもこれも、教え込む秘書官やスタッフがプロでいればこそですが、間違いもすべて秘書官やスタッフのせいにして、本人はなんの責任も取らないということも起ります。しかし、これでは居るだけ、しゃべるだけの木偶の棒でしょう。
 近年、教育論においてしばしば[暗記よりも理解を]などと言われますが、[暗記なしの純粋な理解]などありうるのでしょうか。[暗記しなくても、調べればわかる]などと言っても、調べるべきことは無知に比例して幾何級数的に増大するために、何をどう調べたらいいのかすらわからないものです。たとえば、ヘッラス語を辞書で調べるのに、そのアルファベットの順序さえ知らなければ、一文字毎にアルファベット表から探さなければならないでしょう。
 暗記しても理解していない、応用できない、というのは、たいていまず暗記もしていないものです。物事、理解などしなくても、実際にできればよい。そして、実際にできれば、それを「理解」と言います。それ以上のひらめきは、天賦の才能の問題であって、ほとんど学習効果はありません。せいぜい教育では、基本の知識を憶えさせ、かなりの苦労も惜しまなければどうにか自分で調べることもできるという程度に暗記させるのがせいぜいではないのでしょうか。ろくに暗記すらできないのに、高望みするのは、無謀ではないのでしょうか。

 ソークラテースにとって教育は、カネ儲けの手段ではなく、あくまで彼の善い行いの一貫でした。というのも、才能ある青年を育成することこそ、より善い社会を建設することであり、したがってまた、自分自身の幸福を確立することでもあったからです。それゆえ、彼にとって、教育は、相手をよく選んで行うべきものであり、金さえ払えば誰にでも教える一般の智恵教師たちを、彼は、売春婦のようだ、と批判しました。

 とはいえ、彼が選んでアルキヒビアデースのような腐ったエゴイスト青年を政治家に育ててしまい、それで彼が後に死刑になるのは、彼お得意の「茶番(エイローネイアー)」以上の「茶番」です。

 ソークラテースは、弟子たちに対しても、《対論術》によって、内面の教条的な権威を破壊し、生活の実際的な発想を推奨する一方、従前からの《思索術》によって、自分自身の思想を自分自身で誕生させるように指導しました。しかし、彼のこのような権威を破壊して独創を重視する革新的個性教育は、弟子の青年たちに、思想だけでなく、自立した〈霊魂(プシューケー)〉、すなわち、〈自我〉そのものを産み出し、アリストプハネースが揶揄したように、地縁や血縁からなる周囲協調的な古く狭い共同体的社会とは独立勝手に、自分のことを自分のために自分の考えで決めようとする新しいエゴイストたちを誕生させることにもなってしまいました。

 古参の弟子のサンダル屋シモーンは、師ソークラテースの言葉をそのまま文章に記録しようとしました。それゆえ、それはソークラテースと弟子たちとの対論であり、以来、対論形式の文章は、「サンダル屋風」とも呼ばれます。
 かつて智恵教師プロータゴラースが[万民万物の尺度となることこそ、政治家の〈能力(アレテー)〉である]と考えたように、不確実性の時代にあって、教育者ソークラテースは、万民万物の尺度となって、むしろ新たな時代の正しい法律を制定しうる〈自我〉を誕生させることこそ、まさに政治家の〈能力(アレテー)〉を付与することだと考えたのでしょう。これは、法律による他律ではなく、〈自我〉による自律(アウトクラティアー)のことです。
 この発想は、ソークラテースの独創ではなく、すでにペリクレェスの〈自由市民〉の理念にも見られました。そして、ソークラテースの最も成功した弟子である智恵教師アリステヒッポスなどもまた、「たとえすべての法律が廃止されても、同じ生活をするのが哲学者だ」と答えています。そして、前三九九年のソークラテースの裁判においても、「ダイモーンの声」が法律と対比されています。
 十九世紀前半のドイツの哲学者ヘーゲルは、ソークラテースの絶対的な親族関係への介入を教育の越権として批判しています。しかし、ソークラテース自身だけでなく、アルキヒビアデースやプラトーンなど、ソークラテース一門にはもともと妙に親族関係の薄い人々が多かったようです。彼の主張する自律の必要性も、その背景に父権家族的な外圧倫理の欠如、という精神的危機感があったのかもしれません。また、ソークラテース一派の男色的親密さも、ここから出ているのかもしれません。

 占術もできる教育者ソークラテースの交際は、アテヘェネー市の一般庶民から、ヘッラス世界の一流人物まで及んでいます。このとてつもない社交家の下に集った弟子は、大きく三つのグループがありました。第一は、「ダイモーンの声」などによるソークラテースの占術に惹かれ、彼に助言を求めて集った知人友人たちであり、この中には一流とされる人々も少なくありませんでした。第二は、そのような一流の人々に紹介推薦してもらおうと集った政治志望の野心家青年たちであり、実際、ソークラテースも、彼らを一流の人々に紹介推薦し、さまざまなことを勉強させたり経験させたりしました。そして、ようやく第三に、このように多くの人々の人望を集めているソークラテースの日頃の生き方暮し方そのものを敬い学びたいという道徳家青年たちが現れてきます。しかし、第三の道徳家青年たちからすると、第二の野心家青年たちはソークラテースを利用するだけに集ったかのように見え、強く反発を感じていました。

 こうして、以前からの弟子である同年代の名門富裕市民クリトーン、カハイレプホーンとその弟のカハイレクラテェス、サンダル屋のシモーンなどの知人友人たち、また、クリティアース(c460~03 BC)やアルキヒビアデース(450~04 BC)などの野心家青年たちに加えて、さらに弟子たちが増えました。たとえば、トホラーキア人の母を持つアンティステヘネース(c455~c360 BC)は、ソークラテースの倫理観に強く打たれ、自分の弟子たちも連れて、演説術智恵教師ゴルギアースの下から移ってきました。また、パルメニデースに詳しいエウクレイデース(c450~c480 BC)も、ソークラテースの名声を聞いて、メガラ市からやってきました。しかし、夢占術を得意とする智恵教師アンティプホーンは、占術も行うソークラテースをライヴァル視し、つねづね弟子を奪おうとしていました。

 この智恵教師アンティプホーンと、当時の著名な弁論代筆家アンティプホーン(480~411 BC)との異同は不明です。古代ヘッラスは、同名が多くて困ります。
 このころ、ソークラテースは、妻ミュルトーが長男ラムプロクレェスの高齢出産で死亡してしまったのか、クサントヒッペーと再婚しますが、これがとんでもない悪妻でした。とはいえ、日々の生活すら成り立たないのに、ろくに働きもせず、美男子を集めて無駄話を続けている夫を見れば、怒らない方がどうかしています。しかし、それにしても、彼女は、夫ソークラテースに対し下劣最低な罵詈雑言をぶつけ、はては洗水を掛け、衣服を剥ぎ、食卓を返すほどです。継子のラムプロクレェスや、弟子のアルキヒビアデースたちは、もう我慢できない、とソークラテースに訴えるのに、当のソークラテースは、ゴロゴロ言う雷やガラガラ言う滑車やガアガア言うガチョウと同じことさ、と受け流し、彼女で慣れれば誰とでもうまくやっていけるよ、と、うそぶいていました。そして、ソークラテースは、もはや五〇歳もすぎているのに、彼女との間に、新たにソープフロニスコスとメネクセノスが生れます。
 ソークラテースは、若者から結婚の相談を受けて、「しても、しなくても、どのみち君は後悔する」と答えています。
 ある日、金持ちたちが、ソークラテースの家を訪れることになりましたが、クサントヒッペーは、ごちそうがないことを恥じました。しかし、彼は、「食事のことを気にする連中なら、我々が連中のことを気にするまでもない」と言いました。

 両同盟内部での関係悪化 (421~15 BC)

 しかし、「ニーキアースの平和」は、かえってそれぞれの同盟陣営内での緊張を弛め、混乱を招きました。すなわち、デェロス島同盟側では、アテヘェネー市で、平和派保守政治家ニーキアースの対局には、二二年のアムプヒポリス遠征で戦死したクレオーンに代わって戦争派市民扇動家ヒュペルボロスが現れ、激しい論争をするようになり、また、ソークラテースの愛人弟子の野心家美青年アルキヒビアデースは、二〇年、主戦論を主張して、早くも三〇歳で「将軍」に選ばれます。一方、ペロプス半島同盟側では、スパルター士国の求心力がなくなり、古くからの半島内の南北対立が再燃し、西北のエェリス士国や東北アルゴス士国との関係が悪化していきます。

 クレオーンは、皮なめし工場を経営する成金市民でしたが、ヒュペルボロスもまた、ランプ製造工場を経営する成金市民でした。しかし、ヒュペルボロスは、演説が派手で下品なクレオーンよりもさらに評判が悪く、そのうえ母親が因業な金貸婆であったので、母子揃ってアテヘェネー市の嫌われ者であり、論じるに足らない最低のクズ野郎と呼ばれました。
 シェィクスピアの悲劇(?)『アセンズ(アテヘェネー市)のタイモン(ティーモーン)の一生』においては、主人公ティーモーン(タイモン)は、もともとは大金持ちであり、人々のことを親身に心配し、気前良く世話をやいたと言います。そして、若き美青年将軍アルキヒビアデース(アルシバイアディース)も彼に丁重に挨拶をしたそうです。これを見た人間嫌いの乞食毒舌家アペーマントス(アペマンタス)は、「そんなに頭を下げると、そのうち筋がひきつるぞ」と罵りました。
 なお、シェィクスピアの時代、古代のヘッラスとローマの偉人を対にして比べて論じるプルータルコホス(プルーターク、c46~c120)の『対比列伝』(俗に言う『英雄伝』)は、クラシック文化の復興を希求する《ルネッサンス》の潮流にあって、ヨーロッパでたいへんな人気となり、オランダのエラスムス(1466~1536)やフランスのモンテーニュ(1533~92)などの知識人に愛読され、また、ドイツ最大の歌唱詩人(マイスター=ジンガー)ハンス=ザックス(1494~1576)の歌唱によって、民衆にも大いに愛聴されました。
 そして、一五七九年になってようやく英訳され、エリザベス女王に献呈されています。シェィクスピア(1564~1616)も、これを種本として代表作の『ジュリアス=シーザー』(1599)『アントニーとクレオパトラ』(c1600)などの格調高い史劇や悲劇を創作しました。そして、『アセンズのタイモン』も、そのひとつです。

 この「ニーキアースの平和」と、エェリス士国のスパルター士国との関係悪化において、多芸万能を誇るエェリス士国の智恵教師ヒッピアース(約六〇歳)も、アテヘェネー市を訪問し、富裕市民の子弟に、[〈倫理(ノモス)〉は、〈自然(ピュシス)〉に反することを強制する暴君である]と言って、〈倫理〉の中心である法律を軽視するようなことなどを教授し、また、流行を追わない不変の人格教育者ソークラテースを挑発してしばしば対論しました。そして、彼のアナーキーな考えは、[〈倫理(法律)〉は、〈自然(時代)〉に合うように変えなければいけない]との発想を流布し、新時代の野心家青年たちのエゴイズムを助長することにもなりました。

 ヒッピアースの[法律は自然に反する]という見解に対し、ソークラテースは、[いかなる法律であれ、人々が法律に一致することにおいてこそ、国家として強力であり、また、生活として幸福である]とし、また、[法律の中には、絶対的で普遍的な自然の法律もあり、これこそ正義である]として反論しています。
 ソークラテースは、自然の法律として、たとえば、近親相姦の禁止を挙げています。ヒッピアースは、これを守らない人々もいる、と反論しますが、ソークラテースは、一方が老人では丈夫な子を生み育てられないのだから、それこそ自然に反し、罰を受ける、と再反論します。けれども、先述のように、彼自身は、近親相姦ではないとはいえ、老年になってから子供を作っており、実際に、高齢出産で先妻ミュルトーが死去したり、後妻クサントヒッペーとの間の子供が虚弱だったりということがあったのかもしれません。
 しかし、ソークラテースは、けっして積極的に[自然の法律]を主張しているわけではありません。[法律は自然に反する]というヒッピアースのひどく粗雑な一般論に対して、[自然に即した法律もある]という繊細な具体論を指摘して、さらに深く考慮するように要求しているにすぎません。
 ソークラテースの発言は、ほとんどの場合、このように相手の粗雑な一般論に対する思慮不足を指摘するためのものであって、脈絡から切り離して寄せ集められるようなものではありません。そんなことをすれば、プラトーンのように、とてつもなく壮大な砂上の楼閣が構成されてしまいます。

 アテヘェネー民帝国は、ヒュペルボロスやアルキヒビアデースらの戦争派を背景に、ペロプス半島内の反スパルター的なアルゴス士国と同盟を結び、一八年には、ペロプス半島中部アルカディア地方のマンティネイア市で、スパルター士国軍と正面衝突します。しかし、この戦いは大敗、すると、美青年将軍アルキヒビアデースは戦争派から平和派に寝返って、平和派ニーキアースとともに戦争派ヒュペルボロスを陶片追放し、それでいて、今度は自分が戦争派の中心に収まってしまいました。また、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国は、一六年、突然にキュクラデス諸島西南、スパルター士国東沿岸の中立のメーロス島士国を侵略、青年男子を殲滅、子女は奴隷にして、植民地にしてしまいます。

 陶片追放は、もはや政争の具にすぎません。ヒュペルボロスは、たいへんな嫌われ者だったので、[あんな最低のクズ野郎を、公正名将軍アリステイデースと同じ陶片追放にするのは、むしろ陶片追放に対する侮辱だ]とまで言われ、以後、陶片追放は行われなくなってしまいます。
 一六年、早春の「レーナイア祭」の「山羊歌」部門で若き舞唱劇作家アガトホーンが優勝を得、その晩、アガトホーン邸で酒宴(シュムポシオン)が開かれ、人格教育者ソークラテース(五三歳)、狂宴歌舞唱劇作家アリストプハネース(約三四歳)、美青年将軍アルキヒビアデース(三四歳)などが集い、〈恋愛(エロース)〉について論じたそうです。
 一方、気前のよい大金持ちティーモーンは、その後、散財で、一転して一文無しになってしまいました。あんなに親身に世話を焼いてやった多くの友人も知人も、もはや彼を冷たくあしらい、彼は、ついには、乞食毒舌家アペーマントスと同じく、草の根をかじって暮すほどの困窮した生活に落ちぶれ、アペーマントスと同じく、いや、それ以上に徹底した人間嫌いになってしまいました。そして、美青年将軍アルキヒビアデースが権力を握るや、ティーモーンは、一般市民とともに歓声を上げ、「ばんざい、アルキヒビアデースが大きくなれば、このバカどもの災いも大きくなる」と喜びました。
 また、ティーモーンは、ある日突然、珍しく民会にやってきて、演壇に上りました。多くの人々は、彼に対して亡恩冷遇の憶えがあったので、何を言い出すか、たいへんに恐れました。すると、彼は、「丘の上にイチジクの木がある。あそこに小屋を建てるから、首を吊るヤツは急いでくれ」と言って、いなくなってしまいました。

 この「メーロス島侵略事件」に際し、一般大衆に人気のある舞唱劇作家エウリーピデース(約七〇歳)は、一五年春、『トロイアの女たち』で、アテヘェネー市の守護女神である戦争女神アテヘーナァを登場させ、[勝者もまたその傲慢と不敬ゆえに厳罰を与えられる]と警告します。プロータゴラースの弟子でもあった彼は、登場人物のそれぞれの個性を明確にするために、流行の対論を好んで劇中に採り入れました。すなわち、彼の舞唱劇においては、雅語韻律より口語破格が増え、もはや世界と一体の偉大な英雄の主人公など登場せず、等身大の人間の登場人物たちがそれぞれ勝手に自分の生き方を主張して衝突することが多くなっていきます。そして、そこには、当時の風潮と同様に、個人主義的な見解の相違が数多く出現し、観客たちもまた、観劇の後、それぞれの登場人物の生き方について、互いにいろいろ対論することとなりました。また、「ヘッラス東西戦争」の『歴史』をまとめいた将軍トフーキューディデース(約四四歳)も、この「メーロス島侵略事件」に関し、対論の形式を用いて劇的な描写を行っています。このように、対論は、国家と国家、個人と個人の主張と立場の相違と対立を明確にするために、演出として、とても有効な方法でした。

 新たなる絵画技法 (c430~c10 BC)

 小アジア半島西岸中部サモス島出身の画家アガトハルコホス(c460~c400 BC)は、四〇年のサモス島遠征の前後にアテヘェネー市に移り住み、末期のペリクレェス=サークルにも加わっていました。そして、彼は、将軍となったアルキヒビアデースの邸宅を豪華な壁画で飾りました。また、すでに亡きアイスキフュロスの舞唱劇の再演において、彼は、その舞台画(スケノグラプヒア)を担当することになり、そこに《大小遠近法》を経験によって編み出していきます。そして、彼は、その技法を本にまとめました。

 《遠近法》には、《大小遠近法》《濃淡遠近法》《透視遠近法》などがあります。第一の《大小遠近法》は、[近いものは大きく、遠いものは小さく描く]という単純な方法ですが、ふつう人間には、遠近にかかわらず、国王のように偉大なものは大きく、敵兵のように卑小なものは小さく感じられ、その印象の大小で絵画に描かれてしまうのものです。このため、《大小遠近法》は、それまで意外に気づかれて居ませんでした。第二の 《濃淡遠近法》は、「空気遠近法」とも呼ばれ、[近いものは濃く、遠いものは淡く描く方法]であり、風景画の山々などによく用いられます。第三の《透視遠近法》は、《大小遠近法》の応用として、実際は水平の直線をわざと斜行させることで奥行を表現する方法ですが、視点に対応する一点ないし二点の固定した消失点(斜行の焦点)が無限地平線上に設定されなければならないのに、十五世紀のルネッサンスで消失点が発見されるまで、あちこちガチャガチャに傾いた家々が並ぶような作品がいくつも出現しました。

 一方、イタリア半島南部ターラント湾中部ヘーラクレイアー市出身の画家ゼウクシス(c450~c390 BC)は、アテヘェネー市に移住して、いままで単色ベタ塗りであった一つの物体の中に光や陰を画き込む《光陰画法》を発明、これによってひとつひとつの物体に立体感を与えることに成功しました。ここにおいて、彼は、従来の絵画のように、暗色で輪郭を描いたり平面を塗ったりするのではなく、逆に白色で暗色の平面から立体を浮び上がらせる方法を採り、そこに劇的な効果を出すことができるようになりました。

 我々の視覚は、光学的カメラではなく、あくまで意識的感覚のひとつです。このため、絵画において、我々は、見える対象より、見ている自分を描いてしまう傾向があります。たとえば、子供は、太陽の下に大きな自分が立っているという絵をよく描きますが、実際は、太陽はもちろん自分自身など見えたりしてはいなかったはずです。つまり、それは、晴れた快適な一日を過ごした自分を表現してしています。
 このような自己表現絵画も、それはそれでおもしろいのですが、残念なことに、このような絵画を見ても、その自己表現に共感することができません。見ている自分を伝達するには、見ている自分を表現するのではなく、むしろ見える対象を他者に直接に追体験させなければなりません。つまり、自分に見える対象を同じように他者に体験させてこそ、見ている自分も伝達されます。
 ところが、自分に見える対象を他者に体験させるには、自分に見える対象をそのまま描いたのではだめです。自分に見える対象は、じつはすでに見ている自分の一部になってしまっているからです。たとえば、リンゴが赤く見えたとしても、リンゴの絵をただ赤く塗ったのでは、その赤く塗った絵のリンゴは、不思議なことにもはや赤いリンゴには見えません。
 絵のリンゴを赤く見せるには、自分が赤と見る前の、自分に赤と見える前のリンゴを描かなければなりません。そこには、光沢があり陰影があり、青や黄、朱や紫や緑も、微妙なきらめきとなって含まれています。そして、これらまですべて描き込んではじめて、ようやく赤く見えるリンゴの絵になります。
 暗色に明色を盛っていくのは、現代では油画やアクリル画などの不透明絵の具の基本的な方法です。物体の陰の部分は、どれもみな似たようなものです。それゆえ、物体の質感、硬柔や乾湿や粗艶などは、とくにその明色の光の部分の描きかたによってこそ、多様に表現することができます。
 また、逆に、水彩画などの透明絵の具を使う場合には、できるだけ薄い色を必要最小限に塗って重ねていきますが、物体の質感の表現は、紙の種類を使い分けるくらいしかできません。それはそれで、絵としての統一感はありますが、あえて個々の物体の質感を出すには、ペン画や鉛筆画に彩色という方法を採ることになります。

 また、小アジア半島西岸中部エプヘソス市出身の画家パッルハシオス(c450~c390 BC)もアテヘェネー市に移住し、壷などに伝統の線描画の技法を完成させます。彼は、神話その他に題材を採った人物画を得意としましたが、そこにおいて、描線は、筆のタッチのままに、勢いをもって伸びやかに柔らかに太さを変え、単純化された輪郭に豊満な表情を与えるものとなっています。そのうえ、そこで描かれる姿勢は、図案的なアルカハイック様式とは違って、まったく自由なものであり、斜め横向きの顔でも、ひねった手のひらでも、半開きの足でも、高度なデッサン力によって、正確な体形比率で平面に写し取っています。実際、彼は、一つの作品のために、事前に多くの習作デッサンを行っていたようです。

 パッルハシオスの線描画は、一見、Gペンかなにかで描いたマンガのような感じを与えます。しかし、デッサンの正確さ、柔らかな肉体や衣裳を描くタッチの巧妙さは、そこらのマンガでは問題にならないほど高度な水準に達していました。

 このような線の質感から想像がつくように、画家パッルハシオスは、じつは趣味で以前から女性裸体画や春画を製作しており、それもなんとヘッラスの神々や英雄の情事を描いたものであったので、当時、たいへんな評判となっていました。いずれにせよ、彼の人気は絶大で、彼自身、尊大にも「芸術の第一人者」を自称し、贅沢に生活して、「豪奢者(ハブロディアイトス)」と呼ばれました。それゆえ、画家ゼウクシスも裸体画に挑戦して、その独創的な《光陰画法》によって肉感的なヴォリュームを表現する作品を製作し、パッルハシオスと人気を二分するようになっていきます。彼もまた、たいへんに尊大で、贅沢に生活し、いつも自分の名前を大きく黄金の糸で刺繍したガウンを羽おっていました。

 パッルハシオスの春画は、皇帝ティベリウス(42 BC~即位14 AD~37)も持っていました。春画は、その後、イタリア半島西岸南部ポンペイ市などで数多く作られるようになります。

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