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第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第二節 周辺都市の攻防 (428~423 BC)

 レスボス島の反乱 (428 BC)

 対立するデェロス島同盟=アテヘェネー民帝国とコリントホス・テヘェベー・スパルター=ペロプス半島同盟の間では、その後もさかんに周辺諸都市の戦略的攻防が行われていきます。

 けれども、「市民政」の貫徹しているデェロス島同盟側では、戦争は兵士に給与を払って行うものであり、すでに同盟の財政はひどく圧迫され、加盟諸都市からの搾取も、さらに増大せざるをえません。このため、二八年、小アジア半島西岸北部のレスボス島が、同島東部のミュティレーネー市民国を中心に、デェロス島同盟からの離脱を求めて反乱を起こします。そして、ペロプス半島同盟も、これに支援を送ることになりました。

 デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍が包囲する中、支援を待つミュティレーネー市民国は、下層庶民まで武装を与え、住民全員で戦おうとします。ところが、二七年、武器を得た下層庶民は、富裕市民に対して内乱を起こしてしまい、このため、ミュティレーネー市民国は、降伏せざるをえなくなってしまいました。

 アテヘェネー民会は、ミュティレーネー市の成人男子は全員死刑、子女は全員奴隷と決め、処刑命令の使者を送ります。しかし、翌日、ふたたび民会が開かれ、極刑論の市民扇動家クレオーンに対し、寛容論の市民扇動家ディオドトスが反論を立て、挙手投票の結果、小差で寛容論が勝って、処刑取消命令の使者が大急ぎで送られました。そして、ミュティレーネー市のデェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍がまさに死刑を行おうとしているところに、取消命令の使者がかろうじて駆けつけました。

 ここにおいて、クレオーンは、同盟諸市国を「属領」と呼び、「連中は、恩恵ではなく圧力によってのみ服従する」と演説しています。つまり、アテヘェネー市の帝国主義的支配は、もはや公然のことでした。

 ゴルギアースとテイシアースの論戦 (c427~c25 BC)

 これに続き、二七年、この「ヘッラス東西戦争」のきっかけとなったヘッラス半島西岸のケルキューラ島民国でも内乱が勃発します。すなわち、デェロス島同盟を支持する「住民派」に対し、ペロプス半島同盟に支援された「寡頭派」が反乱を起こしたのです。この内乱は、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍によってただちに鎮圧されますが、ペロプス半島同盟と通じて反乱を起こした「寡頭派」の処分は、こんどは徹底して残酷なものとなりました。

 ちょうどこのころ、コリントホス市士国の商業的繁栄の拠点であるシチリア島東岸南部のシュラークーサー民国が、同じくペロプス半島同盟の支援によって、ふたたびシチリア全土への勢力拡大を展開していました。このため、その北隣のレオンティイノス市士国は、二七年、アテヘェネー市に政治家ゴルギアース(c483~c375 BC 約五六歳)を送り、民会で救援要請の演説を行わせます。この演説は、人々の心をうつ、まことに雄弁なもので、クリティアース(c460~03 BC 約三三歳)やアルキヒビアデース(450~04 BC 二三歳)などの若き野心家青年たちも聞いて驚いたと言います。

 政治家ゴルギアースは、以前は自然哲学を研究しており、『自然について』(444 BC)という本もあります。彼は、エンペドクレェスやパルメニデース、エレアー市のゼーノーンなどの影響を受けていました。

 一方、シュラークーサー民国も、《演説術》の創始者コラクスの弟子である同国出身の演説術教師テイシアース(c480~? BC 約五三歳)をアテヘェネー市に送り、ゴルギアースと激しい論戦を行わせます。また、このころ、ペロプス半島西北部のエェリス士国は、シチリア島で成功した智恵教師ピッピアースを、今度はスパルター士国に送り、ペロプス半島同盟としての関係を固めようとします。

 かつて五世紀前半のエーゲ海戦争によるアテヘェネー市荒廃時代においては、シュラークーサー将国は、シチリア全土を支配し、アテヘェネーを凌ぐ歓楽と文化の一大中心地となっていました。
 もともと《アッティカ(アテヘェネー市)風演説術》は、法廷弁論を中心に発達しました。なぜなら、政治も、政敵批判の裁判弾劾という形式を採ったからです。これに対して、ゴルギアースやテイシアースの《シチリア島風演説術》は、まさにこのような外交演説を得意とするものでした。そして、《アッティカ風演説術》は、過去に関して正義を問題とする、一応は体裁主義的なものであるのに対し、《シチリア島風演説術》は、未来に関して利害を問題とする、露骨に本音主義的なものです。
 このアテヘェネー市におけるゴルギアース対テイシアースという《シチリア島風演説術》の二大巨頭の激突は、その正義より利害を問題とする本音主義的な倫理観を含めて、《アッティカ風演説術》しか知らなかった人々、とくに若者たちに、大きな衝撃だったことでしょう。

 ところで、このころ、アテヘェネー市の変人自然学者ソークラテース(四二歳)は、研究に行き詰りを感じていましたが、友人の市民扇動家カハイレプホーンの紹介でレオンティイノス市士国の政治家ゴルギアースと会って、教育者としての活動も始め、《自然学》や《文法学》、そして彼の独創である《思索術》を教え始めます。この《思索術》は、他人の思想をそのまま受け売りにするのではなく、自分自身で新たに生み出させる方法であり、ソークラテースは、その指導方法を、自分の母の職業にちなんで、思想の「産婆術(マイエウティケー)」と呼びました。そして、彼に学ぼうと、しだいに多くの青年たちが、彼の下に集ります。しかし、カネに関心がないソークラテースは、他の智恵教師たちのような高額の教授料を取ることはなく、また、このことを自慢にもしていました。

 「ダイモーンの声」などによって占術を行うソークラテースは、他人の相談に自分で答えることもありましたが、重要なことはデルプホス神託所に問うように勧めています。しかし、戦争勃発以来、アテヘェネー市民は、ペロプス半島同盟に属するテヘェベー市士国が支配するヘッラス半島中東部ボイオーティア地方を抜けて中部プホーキス地方のデルプホス神託所には行くことができなくなっていました。それゆえ、ソークラテースは、デルプホス神殿の神託の代わりとして、このころ多くの人々の人望を集めるようになっていったのかもしれません。

 カハイレプホーンは、ちょっといかれた二流の市民扇動家であり、眉毛が長く、顔色が悪く、人々からは「こうもり」などとと仇名されていました。彼は、ソークラテースとは、若いころからの友人であり、その晩年まで親しく交際することになります。彼もまた、政治的にソークラテースの占術に頼っていたのでしょうか。

 自分自身で新たな思想を生み出させる《思索術》は、演説術智恵教師たちの模範演説をただ丸暗記させる教育法に対して、当時、革新的な意義を持っていました。

 また、このころ、派手な演出で一般大衆に人気のある舞唱劇作家エウリーピデース(約五七歳)が、代表作の山羊歌『ヒッポリュトス』(428 BC)を発表し、大好評となりました。彼の劇作には、同じ自然学者アナクサゴラースの後輩弟子であった人格教育者ソークラテースが、かなり協力していたようです。また、高邁な台詞で富裕市民に人気のある舞唱劇作家ソプホクレェス(約六九歳)も、『王オイディプース』(c427 BC)を発表し、「山羊歌」の最高傑作との評価を獲得します。

 デェロス島同盟のイオーニア海制圧 (c425~c24 BC)

 市民扇動家デーモステヘネースを将軍とするアテヘェネー民帝国軍は、反乱弾圧を支援するケルキューラ島民国を拠点として、さらにゴルギアースの救援要請演説に従ってシチリア島紛争にも介入し、また、二五年には逆にペロプス半島西南部メッセーニア地方西岸の要衝ピュロス港を直撃し、占領してしまいます。

 将軍デーモステヘネースは、ピュロス港が要衝であることを知っていて攻めたのではなく、たまたま暴風で流れて着いたにすぎなかったようです。

 筆頭監督官将軍ブラーシダース(約五五歳)が指揮するペロプス半島同盟軍の被害は甚大でしたが、湾を塞ぐ小さなスプハクテーリア島に籠城してしまったため、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍側は、保守政治家ニーキアースを参謀とする援軍を追加、しかし、解決しません。市民扇動家クレオーンは、デーモステヘネースとニーキアースを無能と批判し、パールサ風の新種の足軽歩兵を率いてみずから遠征したところ、たまたま籠城するペロプス半島同盟軍側で火事が発生し、簡単に勝利してしまいました。この勝利で図に乗ったクレオーンをはじめとするアテヘェネー市の市民扇動家たちは、デェロス島同盟諸国の負担金を極端に増し、特権的な市民たちに戦争手当や役人手当として配って人気をとりました。

 険しいスプハクテーリア島において、機動力のあるアテヘェネー陸軍の足軽歩兵は、弱弓や投槍や投石器でヒット&アウェイのゲリラ戦を挑みました。これに対し、密着戦の武器しかなく、動くことすらままならないスパルター陸軍の装甲歩兵は、なぶり殺しにされてしまいました。

 このころ、若きアリストプハネース(c450~c385 BC 約二四歳)は、アテヘェネー市の春の「ディオニューソス大祭」の「狂宴歌」の部門で、『バビロニア人』(426 BC)や『アカルナーニアの人々』(425 BC)を出し、平和を求める強烈な時事政治風刺の喜劇で評価されます。とくに二四年春に優勝した『騎士』(424 BC)では、前年のピュロス港遠征を踏まえ、ニーキアース・デーモステヘネースとクレオーンとの政争を、奴隷仲間のケンカとして描き、また、戦争の講和と精神の復古を訴え、おおいに人気を集めました。

 二四年春の『騎士』の上演では、揶揄の的とされている市民扇動家クレオーンは、国家的功績者として劇場の最前列にいたはずです。若きアリストプハネースも、後でえらい目に会った、と、また冗談気に自嘲しています。

 もっともこの作品は、後世には、クレオーン攻撃が露骨すぎて作品としては失敗だと批判されます。しかし、「狂宴歌」が「狂宴歌」であるのは、その時事性においてのみであり、後世にあれこれ注釈して論評する方が、どうかしているのでしょう。それは、言って見れば、同席した酔っ払いたちにバカ受けした深夜の若者の宴会芸を、翌朝に伝え聞いた老人たちがシラフであれこれ注釈して論評するようなものです。

 ラコーニア遠征とトホラーキア遠征 (424~23 BC)

 シチリア島では、東岸南部のシュラークーサー民国の拡大に、二七年、北隣のレオンティイノス市士国はゴルギアースを、また、シュラークーサー民国はテイシアースを、ヘッラス各国に覇権して、それぞれに支持を要請していましたが、二五年、シュラークーサー民国を支援するペロプス半島同盟軍が、ペロプス半島西南部メッセーニア地方西岸のピュロス港防衛戦に失敗して、イオーニア海の制海権を喪失したため、二四年、島内紛争講和のため、シチリア島西南岸東南部ゲラー(現ジェラ)市で、「全シチリア会議」が開催されます。

 ここにおいて、シュラークーサー民国の将軍ヘルモクラテース(c465~07 BC 約四一歳)は、「全シチリア島同盟」を提唱し、ヘッラス東西戦争との不干渉を成立させます。これは、この時点では、[イオーニア海の帰趨と切り離して、シチリア島は、ペロプス半島同盟寄りのシュラークーサー民国が優位に立つ]ということを意味していました。それゆえ、この会議によって、アテヘェネー=デェロス同盟軍のシチリア島遠征・イオーニア海支配の野望は、一時中断せざるをえませんでした。

 そこで、同二四年夏、アテヘェネー民帝国は、ペロプス半島東南部ラコーニア南のキュテーラ島へ遠征、奪取します。しかし、ペロプス半島側は、先のスプハクテーリア島での敗北で、まったく戦意を喪失したままです。そこで、アテヘェネー軍は、さらにラコーニア本土東岸を攻撃しながら北上していきます。

 このころ、メガラ市士国は、ペロプス半島同盟側の最前線となっていましたが、内通者によってアテヘェネー民帝国の占拠するところとなり、同市にいたペロプス半島同盟軍は、同市のニーサイア港に攻囲されてしまいます。しかし、おりしもこのとき、ペロプス半島同盟の筆頭監督官将軍ブラーシダース(約五六歳)がコリントホス市におり、ただちにコリントホス側およびボイオーティア側からメガラ市へ救出軍を送りました。そして、この勝利に、メガラ市は、ふたたびペロプス半島同盟側に戻ります。

 将軍ブラーシダースがコリントホス市にいたのは、エーゲ海北部奪取を計画していたからです。つまり、西のイオーニア海、さらには、ペロプス半島東南部ラコーニア本土沿岸まで制海権を奪取されてしまったのに対し、東のエーゲ海で反撃し、アテヘェネー民帝国の生命線である黒海沿岸からの穀物輸送路を遮断しようというのです。そして、二四年秋、将軍ブラーシダースが指揮するペロプス半島同盟軍わずか一七〇〇名は、テヘッサリアを北上し、マケドニア、および、アテヘェネーから離反したカハルキディケー半島諸市国と同盟を結び、また、まだ離反していない諸市国にも同盟を勧めます。すなわち、「我々は、アテヘェネーからヘッラスに自由を取り戻すために戦っているのだ」と。そして、このような説得によって、将軍ブラーシダースは、戦わずして、味方を増やしていきました。

 同二四年初冬、アテヘェネー民帝国は、ボイオーティアに反乱を画策、これを知ったペロプス半島同盟軍と国境の海岸要地デーリオンで、両軍はふたたび正面衝突します。その激戦には、人格教育者ソークラテース(四五歳)や弟子の野心家美青年アルキヒビアデース(二六歳)なども参戦し、大いに活躍しましたが、ここでもアテヘェネー軍の装甲歩兵は、機動力あるペロプス半島軍の足軽歩兵に大敗。そのうえ、ペロプス半島軍は、フイゴを使った火炎放射器を投入。これによって、アテヘェネー軍は、占拠していた城塞は炎上し、艦船でアッティカまで撤退せざるをえませんでした。

 一方、このころ、ペロプス半島同盟軍の筆頭監督官将軍ブラーシダースは、二四年、荒れた冬の夜、わずかの兵でエーゲ海北岸トホラーキア地方西部沿岸の要衝アムプヒポリス市民国を侵略、名門プヒライオス家のアテヘェネー民帝国軍将軍トフーキューディデース(c460~c00 BC 約三六歳)は、あわてて救援に向かいますが、将軍ブラーシダースは、すでに充分な政治工作を行っており、このような内通と奇襲によって混乱する市民に寛大な条件を提示し、簡単に同市を味方につけてしまいました。そして、これによって、アテヘェネー民帝国は、エーゲー海北部の支配を失い、パンガイオン金山や艦船用トホラーキア木材、さらには、黒海穀物の輸入路も途絶えてしまいます。

 アテヘェネー市の智恵教師たち (423~c20 BC)

 将軍トフーキューディデースは、アムプヒポリス市喪失の責任を問われ、陶片追放にあってしまい、エーゲ海北岸トホラーキア地方に篭って、この「ヘッラス東西戦争」に関する『歴史』を書き始めます。それは、ヘーロドトスの『歴史』の続編として、エーゲ海戦争後の「繁栄の五〇年間」から始まります。しかし、彼は、「記録作家(ロゴポイオス)」ヘーロドトスに対して、あくまで「記録記者(ロゴグラポス)」を自称し、厳密な歴史記録を意図しました。

 これは、歴史に対する態度の違いというより、過去を記録に起そうとするヘーロドトスと、同時代を記録に残そうとするトフーキューディデースの状況の違いでもあります。
 それにしても、厳密さを重んじる彼の文章は、「トフーキューディデース風」と呼ばれ、抽象名詞や名詞化動詞(不定詞)を主語にした独特の奇妙な悪文で、ひどく複雑な構成の長文が異様に多くなっています。それは、たとえば、たんに「寒い」ということを「体感気温が人間が快適に日常生活を送ることが生理学的に阻害されるほどに低い」と言い換えたがるようなものです。
 歴史は、いわば時間の地図です。しかし、ただ写しただけの航空写真は、けっして地図にはなりません。そこには、県境などの見えないものを見せる〈図化〉、建物などの見えるものではなくその場所にあるものの意味を示す〈象徴〉、全体としての関係を明らかにするために細部を大胆に強調したり省略したりする〈総描〉などの操作が不可欠です。むやみに厳密で詳細な地図など、かえって使いものになりません。

 狂宴歌作家アリストプハネース(約二七歳)は、つねに時事的な話、前年にもっとも目立った毀誉褒貶半ばの連中や風潮を題材にしました。そして、二三年春、彼が『雲』(423 BC)で採り上げたのは、デーリオン攻防戦で活躍したソークラテースとその一門です。そこでは、それは裸足の青白い顔の理屈屋たちが超然とした浮雲を学者の神として崇拝する不潔な学校として描かれ、田舎者のバカ親父が、嫌がるドラ息子をなけなしのカネでソークラテースの学校に入れたところ、ドラ息子は、バカ親父に暴行してその正当性を強弁するようになってしまい、怒ったバカ親父はすべてを学校のせいにして焼討しようとします。
 ドラ息子が、ソークラテースに入門するのはかっこう悪いと嫌がったように、その弟子たちが、当時のふつうの若者とはかなり異質であり、違和感を持つような連中であったことがうかがえます。
 アリストプハネースは、「プフロンティステーリオン(思索の殿堂)」という不潔な学校を出して、ソークラテースをからかっていますが、このような施設が実際にあったかどうか不明です。そこは、青白い顔の理屈屋のたまり場のように描かれていますが、もし本当に彼の学校があったとすれば、『騎士』でパロディとして一流の市民扇動家たちを奴隷として描いたように、不潔どころか、むしろまさに「思索の殿堂」と呼ぶにふさわしい異様なほど豪勢で立派なものが寄付によって建てられていたのかもしれません。また、このころ、実際にその学校が焼失しまうような事件があったとも考えられます。
 いずれにせよ、この作品では、まだソークラテースが学校の中にいて、けっこうまともに《自然学》や《文法学》や《思索術》を教授しています。ここにはたしかに弱論強弁はありますが、権威ある人々の反感をかうことになる町中での慇懃無礼な「茶番(エイローネイアー)」は、まだ行われていません。また、「ソークラテース以上の知者はない」という有名なデルプホス神託所の神託も、まだ触れられていません。もしこのころすでにそんな「おもしろい」ことをやっていたり、言われていたりしたら、冷やかし好きのアリストプハネースが素材に採り上げないではおかなかったでしょう。つまり、逆にここから、茶番も神託も、二三年より後のことであることが推察されます。

 同二三年春、将軍ブラーシダースにエーゲ海北部制海権を奪われてしまったアテヘェネー民帝国は、スプハクテーリア島の大敗以来まったく志気の上がらないペロプス半島同盟と、とりあえず一年間の休戦条約を締結します。しかし、これを知らぬ将軍ブラーシダースは、この間にもエーゲ海北部諸市国にアテヘェネー民帝国からの離反を勧め続けました。そして、やがて休戦条約締結の知らせが届いたとき、最後のカハルキディケー地方カッサンドラ半島南岸のスキオーネー市の離反は、条約締結後であることがわかりました。アテヘェネー民帝国はこれを無効としますが、将軍ブラーシダースは、エーゲ海北部で公然とさらにペロプス半島同盟の勢力を拡大。このため、アテヘェネー民帝国は、早々に遠征して、スキオーネー市を攻囲します。

 またこのころ、シチリア島東部のレオンティイノス市士国では、将主の軍事クーデターが勃発、同市の政治家ゴルギアース(約六〇歳)は、ヘッラス半島北部テヘッサリア地方内陸のラリッサ市に亡命します。以後、ゴルギアースは、智恵教師として、しばしばアテヘェネー市にも上京し、アンティステヘネース(c455~c360 BC 約二二歳)やテーラメネース(c455~404 BC 約二二歳)などを弟子にしました。

 しかし、ゴルギアースは、[他の智恵教師たちが教えるような一般的な《能力(アレテー)》や《教養(パイデイアー)》など教えない]と公言し、ただ万能の《演説術(レートリケー)》だけを教授しました。なぜそれが万能かというと、それは、問題を分析し、そこから推論を展開し、結果として、どんな結論にでも自由に誘導してしまう、というものだったからです。

 それは、たしかに論理的な体裁を採っていますが、肝心の推論が実は情緒的であり、ここに誘導の余地があります。全体の論理的な体裁で煙に巻いておいて、部分の情緒的な共感だけで全体までわかったかのような気にさせる心理学的詐術です。そして、演説者自身も、これが詐術にすぎないことを自覚している奇妙なものでした。

 ゴルギアースは、以前から演説を得意としていたものの、故郷レオンティイノス市士国さえ健在であれば、政治家として活躍を続けたであろう人物であり、もともと教授料稼ぎの智恵教師などあまりやりたくはなかったようです。そのせいか、彼の《演説術》の教授法も、手本となる演説を丸暗記させるだけのものでした。しかし、彼の雄弁な演説に関する名声は、それでも多くの学生を集めるのに充分でした。
 人間は、難解なものは拒絶してしまいます。ところが、難解にもかかわらず、部分だけでも理解できると、自尊心のせいか、全体までもが理解できたかのような態度を採りたがるものです。さらに問題なのは、こうしたわかったかぶりの人々が、そのまま同じ演説を繰り返し、さらに他の人々も引き込んで、集団で衆愚に落ち入ってしまうことです。このように難解(無意味?)な術語(呪文?)に溺れる現象は、政治家たちだけでなく、哲学者たちや経営者たちにもしばしば見られます。

 ゴルギアースは、「なにものも在りえない、在りえても知りえない、知りえても伝ええない」という言葉を残しています。これによれば、[非存在は、非存在として存在する。そこで、存在が非存在と異なるとすると、非存在が存在する以上、存在は存在しない。また、存在が非存在と同じとすると、存在は非存在であり、存在しない。ゆえに、いずれにしても存在は存在しない。]とされます。

 また、[知識は存在とは異なるものであるから、存在を完全に反映することはできず、知ることはできない]とされ、さらに、[言語は存在とも知識とも異なるものであるから、存在や知識を完全に反映することはできず、伝えることはできない]とされます。この言葉は、あくまで彼の《演説術》の教育のためのものでしょうが、しかし、ここで問題とされている[〈実在〉と〈知識〉と〈言語〉の関係]は、その後の哲学の重要な問題となります。

 一方、このころ、ゴルギアースのライヴァルであるシュラークーサー民国出身の演説術教師テイシアース(約五七歳)は、イタリア南部ターラント湾南の実験理想都市トフーリオス市民国を訪問し、名士ケプハロスの息子リュシアース(約三六歳)に、《シチリア島風演説術》を教授します。小アジア半島中部沿岸のキヒオス島出身で同トフーリオス市在住のエウテュデーモス・ディオニューソドーロス兄弟にも、彼は演説術を教授したかもしれません。

 先述のように、名士ケプハロス本人は、三四年、戦争主導官ペリクレェスの招きでアテヘェネー市ペイライエウス軍港に移り住んでしまっていました。シュラークーサー民国は、親コリントホス反アテヘェネーであり、シュラークーサー民国の外交官としても活躍していたテイシアースが、親アテヘェネー派の名士ケプハロスの息子リュシアースに接近するのも、なにか政治的です。

 また、このころ、キュクラデス諸島西北でヘッラス半島東沿岸のケオス島イウリス市の政治家プロディコス(5C BC)は、アテヘェネー市やスパルター市など、両同盟の間を外交のために奔走していましたが、かつて智恵教師プロータゴラースに師事したこともあり、この外交のかたわら、副業の智恵教師として、いかにも富裕市民の子弟向きの現実的・功利的・道徳的な《教養》を講義しました。

 彼の有名な「ヘーラクレェスの岐路」というたとえ話によれば、[〈非行(カキアー)〉の女神と〈能力(アレテー)〉の女神が、青年ヘーラクレェスをそれぞれの道へ誘おうとしている]とされます。すでに名声を得ていた人格教育者ソークラテースも、その一番安い講義を聞いてみたと言います。しかし、演説術智恵教師ゴルギアースは、プロディコスの言う《教養》の小市民的な陳腐さを嘲り笑いました。

 後にローマ民国の哲人政治家キケロー(106~43 BC)は、このプロディコスの「ヘーラクレェスの岐路」の演説を引いて、[神の子ヘーラクレェスなればこそ、幸いにも岐路があったが、我々は、ただ父親に倣い、ただ風潮に従い、惰性に未来を委ねてしまう]と嘆いています。

 ところで、このころ、演説に代わって、対論が急速に普及していきました。公的な民会や法廷は、きちんとした個別の演説を基本に構成されていましたが、これに対して、対論は、広場や街角や酒宴などでゲリラ的に論敵を捕まえて、公衆の面前で直接に相手と論争を行うものです。このような政治手法が登場してきた背景には、外国を論敵とする対外的戦争以上に、同胞を論敵とする国内的政争が激しくなってきたこと、また、公的な民会などでの演説を足場にしている市民扇動家に対し、過激政治家が市民扇動家に対する一般住民の支持を切り崩す必要があったことが挙げられるでしょう。

 演説と対論は、今風に言えば、書物とテレビの違いです。前者は、考えながら読まなければなりませんが、後者は、見ているだけでわかったような気になれます。
 すでに昔から「狂宴歌」では、「言い争い(アゴーン)」こそがその中心であり、また、政治志望者に対する智恵教師プロータゴラースの両論主張的な《演説術》も、後に直接的な対論が登場する下地となっていました。

 智恵教師エウテュデーモス・ディオニューソドーロス兄弟(5C BC)は、このころ、イタリア半島アテヘェネー植民市トフーリオス市からアテヘェネー市に移住し、法廷弁論と軍学兵法を得意として教授しました。そこで、人格教育者ソークラテースもまた、軍学兵法を学ぶように、政治をめざす野心家青年の弟子たちを彼らの下へ送ったりもしました。

 その内容は、陣型などの戦術的なことだけで、将軍レヴェルの戦略的なことはなかったようです。けれども、エウテュデーモス・ディオニューソドーロス兄弟は、世間の対論の流行を見て、エレアー市のゼーノーンの〈帰謬論(パラドクサ)〉の手法を取り入れ、端的な質問だけで相手の主張を破壊してしまう《論争術(エリスティケー)》を発明します。これは、自分の主張を提示するものではなく、あくまで相手の主張を破壊してしまうだけのものでしたが、壇上の論敵の困窮を直接に観衆に見せつけるものであり、不在の論敵の誤謬を間接に聴衆に聞かせるゴルギアースの《演説術》以上に感情的で破壊的な効果がありました。というのも、観衆は、議論の内容を自分で考える必要などなく、ただ論敵の困窮を見るだけでよかったのです。

 エウテュデーモス兄弟の《論争術》は、きわめて端的に相手の意見をひっくり返させるもので、技巧的で手品のような見せ物です。たとえば、「勉強好きは賢い」と言えば、「勉強好きは、知っていて勉強するのか、知らないから勉強するのか」と問い、「知らないから」と答えると、「知らないならば、賢くないではないか」とやり込めます。しかし、「勉強好きは賢くない」と言えば、「勉強好きは、勉強して知っているのか、知らないのか」と問い、「知っている」と答えると、「知っているならば、賢いではないか」とやり込めるのです。
 エレアー市のゼーノーンの〈帰謬論〉が積分を含む高度な問題であるのに対して、エウテュデーモス兄弟の《論争術》は、同じ〈帰謬論〉の一種とはいえ、行為や変化の前後の状態の相違を利用しただけのもので、それほど論理的に優れたものではありません。しかし、その端的でスピーディなやりとりは、まるでチャンバラかなにかのようで、観客から大いに喝采されたことでしょう。

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