小林賢太郎さんが好きとうまく説明できない話

こんばんは、とこゆきです。

劇作家で、演出家で、パフォーマーである小林賢太郎さんが大好きです。
2010年に出逢ってから最初の作品であるロールシャッハ初演以降、作品はだいたい一度は劇場に出かけています。地元でチケットが取れないなら、取れた場所へ遠征もします。もう1回観たいと思ったら、回数を増やします。

ラーメンズ本公演は生で観られていなくて、もったいなくて取ってある状態なので、まだすべては知りません。たいせつにしすぎて、どこから手を付けていいかわからない状態です。誰かに手を引いてもらいたいくらいです。笑

小林賢太郎さんが大好きです。
でも、好きな理由を説明できません。


出展がはっきりしなくて申し訳ないけれど、彼が受けた「ファンです、握手してください」の扱いのエピソードがとても印象的でした。そのたびに、自分が同じことを問われたらなんと答えるかをよく考えます。だから、作品は挙げられます。



日本語学校シリーズは何度でも涙出るほど笑います、歌ものも大好きです。そしてなにより「うるう」です。

回収される伏線のゾッとするほどの爽快さ、腑に落ち感がクセになる。
誰もバカにしないやさしさ。
自分も含めて掌握されるほどの緻密な面白さ。

これくらいは挙げられます。

それだけ?と自分で驚きます。


ところで、わたしがこの世の未練、最愛と叫んで憚らないのはロックバンドシドのボーカルマオくんです。
彼の好きなところは作品から人間性、考え方、エピソードまで、彼が自分にどんなものをもたらしてくれたか、思いつくまま無法図のようでよければいくらでも語れます。

この違いはなにか。
わたしは、小林賢太郎さんをどんな方と語れるほど、彼を知らないのです。
だから、自分の好きに根拠を見出せなくて、うまく説明できないでいるのです。

賢太郎さんのことをなにも知らないのに、果たして好きと大声で叫んでいいものか?

ながく言葉にできなかったわたしにヒントをくれたのも、また、マオくんでした。バンドのエッセイ「涙の温度」から彼の一文です。

音楽として完璧なものが出せないのであれば、生き様を見せるというアプローチに切り替えてでも、僕らはステージに立ち続ける。

彼はメニエール病とポリープを抱えて思うように歌えなかったときでも、ぜったいに中止中断はしませんでした。そのときの選択を「生き様を見せるアプローチ」と表現していて、ここから6年以上いっしょに過ごしてきたなかでの出来事も併せて、ストンと納得しました。
(マオくんの選択に賛否はあるとしても、わたしはその姿に勇気づけられてきたファンとしていつまでも彼の味方です。加えて逆に、アーティスト相手だのに、音楽に無知である後ろめたさから具体的に作品を褒めるより人間性を好いている御手紙ばかり書いていた自分を許してもらえた安堵感もありました)

賢太郎さんのアプローチは舞台で生き様を、「私」を、見せることではないから、私は彼の人となりでどうして好きかを説明できないのです。
作品を列挙することが精いっぱいなのです。

たぶん、これもまた賢太郎さんの掌の上で、この好意の形もまた間違いではないと、最近では受け入れられるようになってきました。
人間性にまで好意を持つことは、必ずしも求められることではないのではないかと。(もちろん、人格を否定することはない前提です。)

もともと、賢太郎さんを知ったのはバンドを通して知り合った方が、「きっと好きだと思う」と紹介してくれたことがキッカケです。いまとなっては、どうしてわたしが賢太郎さんを好きになると考えたのかもう知ることはできませんが、きっと彼女が想像した以上にわたしは小林賢太郎作品にハマりこみました。マオくんとまったく違う性質の賢太郎さんを紹介してくれたのはやはり、純粋に作品を好むと考えてくれたからじゃないかしらと考えます。
それはとてもとても光栄なことだなぁと、あたらしいビジュアルを眺めて、カジャラジオたのしみだなぁと今夜もとろりと笑っています。


わたしは小林賢太郎さんが大好きです。
彼が心血注いで作り上げる緻密な作品と、掌握された劇場の空気が大好きです。

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