新言語秩序

amazarashiのライブを初めて観た。
曲をライブ前に知っていた僕にとって、身震いするほどの伏線回収だった。
今改めてその曲をウォークマンで流すと未だに鳥肌が立つほどの。
だがその反面、
僕が覚えた感情は、怒りだった。

弾圧される言葉たち、自分によって殺された言葉たち、
僕は木村花さんの自殺や、伊藤詩織さんの事件、
それにSNSで誹謗中傷を叫ぶ有象無象の事を思い出した。
また、この先起こるのかもしれない日本での言論統制について考えた。
表現の自由、自由と隣り合わせの責任、道徳的感情、
人は自由という刑に処されているのだと、改めて思った。
言葉とは何か、改めて自分の中で考える機会になった。

けれど、何故「そうしなければならなかったのか」
そう思わずにはいられなかった。

様々な曲を繋げる因子として、ライブの中では物語が使われていた。
その中で、性的虐待や暴力、洗脳といった物事が取り扱われていた。
否、「使われて」いた。

そういった概念を丁寧に取り扱い、一つひとつをないがしろにせず、
その現実を映し出す、歌う、
他人事ではないと、僕らが取り扱っていくべき物語なのだと、
そう「取り扱われる」のなら納得できる。
だが、僕にはそれらが「使われている」ように思えた。
そういう過去を持った人間が自分の中の言葉を殺した、
確かにそういう現実はあるだろう。実際はあるだろう。
だが、その人物の過去としてその体験を、
何故使わなければならなかったのか、
なぜその人が、そういう過去を経験しなくてはならなかったのか、
その必然性が、僕には分からなかった。

物語の中で登場人物は生きている。だからこそ、
創作者はその必然性を深く考える必要があると思う。
最後の演出で人物は叫んだ。自分の心を、体験を、そして言葉を、
彼女にとってそれはとても、とても大きなことだっただろう。
だが、その後は、それまでの過程は、ほとんど描かれていなかった。
彼女は虐待を受け、職に就いてからも暴行を受けた。
殴られた回数を冷めた頭で数えたりした。
そうまでされる必要があったのだろうか、
その傷は、言葉を殺すことで冷凍保存されたその傷は、
言葉を再び取り戻すことによって再び動き出す傷口は、流れ出す血は、
どうして無視されるのだろう?
どうして無視されていいはずがあるのだろう?
そのライブの流れを観て、拍手喝采を聴いて、
僕は、彼女のその経験が「使われた」のだと思った。

身体の奥から怒りが沸々と湧いてきた。
作品として、力強さや魅力は確かにあるのかもしれない。しれないが、
それら一つひとつをコンテンツとして扱うことの残酷さを、無神経さを、
僕はいち創作者として、いち人間として許せない。

それらの事柄は、例えば2WIN『Pain Away』に象徴されるような、
作曲者自身、自分が受けた体験から来た、いわばリアルなものではない。
体験のない者が体験を描こうとすることは決して悪いことではないと思う。
だけれど、コンテンツとして無神経に扱うことは許されることではない。

ライブの中、『僕が死のうと思ったのは』というタイトルの曲が流れる。
歌詞には『あなたに出会ってなかったから』という一節がある。
普段聴くときと、このライブの物語の文脈で流れるのとはわけが違う。
今実際に虐待に苦しんでいる人、暴力に苦しんでいる人、いじめにあっている人、
そういう人々がこの曲をこの文脈で聴くとどう思うのだろう。
少なくとも、いじめにあっていた経験のある僕は、ふざけるなと思った。
クラス全員からいじめを受け担任から見放され問題児として扱われた僕に、
『あなた』などいない。いるはずもない。
いないからこそ、苦しくて、辛くて、痛くて、痛い。
孤立する被害者に手を差し伸べるどころか、突き放す一節じゃないか。
怒り。

もちろんこれは僕の意見だし、いわば偽善だ。
僕はamazarashiが好きだし、これからも聴くだろう。
ライブにも行きたいと思うだろうし、人に勧めすらするかもしれない。
だけれど、今回のライブに関して、
言わずにはいられなかった。


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