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「三少爺的剣(邦題:修羅の剣士)」を観てきた

好きな武侠小説家、古龍の作品が映画になるというので喜び勇んで観に行った。「三少爺的剣」だ。滋養のある武侠映画だった。

武侠? という人向けに簡単に説明すると、昨年放送された虚淵玄脚本の布袋戯(人形劇のこと)「Thunderbolt fantasy」のような、人が飛んだり刀が飛んだりする中華アクション時代劇が「武侠」というジャンルになる。武に生き侠を貫く男性が多く外連味たっぷりのアクションが魅力的で、なかでも古龍はそこにセンチメンタルとハードボイルドを持ち込んだ作家なのだ。好きな人は間違いなくどハマりする。

そんな古龍が原作なので、期待値やや高めで観に行ったところ、「三少爺的剣」は期待値の上を回転しながら飛び越えてわたしを背後から刺突していった。男の寂しさと身勝手、感傷、逃げる男とそれを追う女の愛憎劇、敬意と憎悪入り混じる友となった者同士の決戦。古龍作品の満漢全席やでぇ……と、幸福な死体となったわたしは映画館を出てきたというわけだ。

話の筋は、主人公となる燕十三と阿吉という男たちの交流を軸に、武術界の派閥争いや、それぞれの過去が絡んでくるものだ。この2人の主人公がね、とても個人的に良すぎたのでカッとなってスマートフォンをフリックしている次第です。

燕十三、無双の剣客。冷徹で鋭い剣を使う、顔に禍々しい刺青をした男。しかし彼にはどうしても勝てない男がいた。神剣山荘(という流派)の三少爺。3番目の若様、とあだ名される剣客だ。三少爺は江湖(江湖については「侠客・武芸者界隈」ぐらいの意味で取ってほしい)で最強の剣客。だが今やその伝説が独り歩きし、燕十三が剣を振るうと周囲から三少爺と勘違いされる始末。そうして三少爺伝説の影法師じみた剣の道を歩んできた燕十三は、己の人生を取り戻すべく、顔も知らない三少爺と果し合いを望んだ。彼が果し合いを望んだのにはもう一つ理由がある。幼い頃からの苦役によって体が弱り、明日をもしれぬ命となっていたのだ。死ぬ前に三少爺と剣を交えたいという妄執は、当の三少爺は死んだと聞かされたことで泡と消えた。燕十三は隠遁し、墓守となって酒浸りの短い余生を過ごすこととした。

▲燕十三。「人を殺した後には酒が欲しくなる」というキャッチコピーが良いのだ

もう1人の主人公、阿吉。過去の一切合切を捨てて、妓楼の下男として生きる青年。名前も妓楼の女将がつけたもので、彼が本当は何者であるかを知る者は、彼の過去にまつわる人間以外にいない。妓楼で働くうちひとりの妓女(これが古龍のヒロインらしい、あけすけに物を言う気の強い女の子だ)に惹かれ、その娘からも好意を寄せられ「あたしを抱かないの?」とまで言わせるのに手を出さない。ならず者に絡まれても相手のなすがまま、短刀で突き込まれても顔色ひとつ変えない。周囲からは変わり者で愚鈍な男と思われ、軽んじられている。ある事件がきっかけで店を飛び出した阿吉は善良な一家(さっきの妓女の実家。のちに足抜けした妓女も合流する)に匿われたが、ある日彼らのピンチを救ってくれた燕十三から、剣の手ほどきを受けることとなった。

▲阿吉。「最も多情な者は、往々にして最も無情である」というキャッチコピー。彼が黙して語らぬ過去が物語を動かす。

燕十三が阿吉に剣を教えるのは彼が今までやってきた悪行への償いの意味があり、この後阿吉は望まぬ環境へ引き込まれ、己の過去と対決しなくてはならなくなる。その時阿吉を後押しし導くのも燕十三だ。阿吉と燕十三は、師弟のようで、友人でもあり、好敵手ともなった。この関係性を築いてからのクライマックスは素晴らしい。殺陣の格好良さ、その中で役者さんの見せる表情の妙、花散る決戦のロケーションも相まって美しい。

ネタバレに配慮しつつざっくりお話したところでカンの良いニンジャヘッズにはお気づきいただけるだろう。登場人物の配置がシルバーカラスとヤモト・コキにとても近い。この映画は「スワン・ソング・サング・バイ・ア・フェイデッド・クロウ」に限りなく近い構図を取っているのだ。あのエピソード好きな人、自分の墓石を背負って歩く奴が好きな人、剣戟アクション目当ての人、武侠見てみたいけど何がいいかな? と迷っている人などにぜひ見てほしい「三少爺的剣」、どうぞよろしくお願いいたします。

追記
予告を貼らないという罪を犯したのでここに予告編のアドレスを貼ります
https://youtu.be/npfQnjmBTwg