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ないものばなし「食べる本屋」

 ご存じの通りふくろうなので、都会からやや離れた場所に住んでいる。夜静かなのが良いけれど、車がないと不便なのは、やや困る。ふくろうにも車はあった方が便利だ。

 ただ、不便と引き換えに楽しい出会いがあって、この間、散歩の途中に面白い店を見つけた。その店に初めて訪れた時の話をしようと思う。

 縺励の↑縺?悄蝨ーにある、「たべる本屋」。喫茶店だ。レトロな外観で、木製のスタンド看板によれば「お好きな本と飲み物¥八〇〇(税込み)」がおすすめとのこと。

 お好きな本とは? 気になると確かめずにいられない性分のため、迷わずドアを開ける。

「お好きなところにどうぞ」

 店主のバーニーズマウンテンドッグが、気持ちよいバリトンで声をかけてくれた。見渡す店内は、外から見るより広い。落ち着いた木製の調度品と、少し暗めの照明が自分好みだった。壁際には、天井に届く大きな本棚が一つ。背表紙に何の刻印もない様々な本が隙間なく詰まっているのを横目に、ボックス席に鞄を置いた。

 お好きな本と飲み物を頼むと、本を一冊本棚から抜くよう言われ、書架の前に立つ。先ほど見えなかった背表紙の文字が、浮かび上がるように目に飛び込む。「いぬ」「灯台守」「引っ越し」……その中から、ひまわりのような黄色のクロスに、「なつやすみ」と緑の箔押しがされる本を手に取った。背表紙はゆるやかな丸背で、手触りがとてもよかった。

 席に戻ると、バーニーズが背の高いグラスに入ったジンジャーエールと、本を乗せる、縁に銀のラインが入った白い丸皿と、銀のフォークを出してくれた。そういうことか。

 いただきますをして、こわごわフォークを立てる。生け花のスポンジのような抵抗とともに、本はきれいに切り分けられた。すっかりケーキになっている、さっきまで本だったものを一口。

 甘が7、酸が3ぐらいの甘酸っぱい味は、母方の祖父母宅へ泊りに行くと出されるレモンケーキのそれだ。畳と線香の匂いがする和室で昼寝から起きた後、おまえの母親には内緒だと、食べさせてくれた。

 すっかり忘れていた夏休みの味だった。

 なつかしさに一度フォークを止めて、目を上げる。視線を向けた本棚には「隙間なく」本が埋まっていた。そういうものなんだろう。

 ジンジャーエールを飲んでから、涼しく静かな店内で、なつやすみの味を頬張る。箔押しの部分を口に入れると、少しシュワシュワした。

 支払いして、家路につく。

 祖父母の家はもう引き払われて、狭くて急な階段を這い上ることもないし、当時物珍しかったベッドをいかだに見立てて、親戚の子と嵐を乗り越え遊ぶこともない。それでも、開いた思い出の棚に入っているものたちを数えながらつく帰路は、なんとなく気持ちが上向いた。

 次は「いぬ」の本を食べたら何の味がするのか知りたい。柴犬のごはんだった鶏とキャベツを刻んだものの味がするんだろうか。

 【ないものばなし/終】

これはなんですか?

本作品は上記雑誌企画に寄稿した嘘エッセイです。好きなないものの話はとても楽しく、参加できて光栄でした。タローマン話法に一定の理解が得られそうで、これからも好きなないものの話がしやすくなったので嬉しいです。