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彼女の頭にはいつも包帯が巻かれていて、右頬には大きなガーゼがテープで貼り付けられている。
「その傷はいつか治るの?」
と僕が訊けたのは、彼女と顔を合わせるようになってから、10回目くらいになってからだった。
「治るも何も、傷なんてないわよ。」と彼女は言う。
少し呆気に取られた後、その包帯やガーゼの意味を考える。痣を隠すため、だとか。虐待を受けているメタファー、だとか。
「視線恐怖症なの。」と彼女は言う。
「視線恐怖症?」と訝しげに僕は繰り返した。その姿なら尚更視線を集めそうなものだ。
「そう、視線恐怖症。人に視線を向けられるのが怖いの。あ、聞きたいのは視線恐怖症と、この怪我のフリがどう繋がるのか、ってことだよね。」
僕は頷く。
「視線の意図がハッキリするからよ。」
「と、言うと?」
「視線って、何を意図してのものか分からないものじゃない。その人はどう思って私を見ているんだろうって気になって、気になって。それが怖いのよ。だけど、こうして大きな怪我のフリをしちゃえば、私に向けられる視線は全部、「痛々しい」とか、「可哀想」だとか、そういう固定されたものになるじゃない。
そういう、意図がハッキリした視線は、私は怖くないのよ。"この人は私が痛々しい怪我をしているから視線を向けているんだ。"って分かるから。
視線が怖いから視線を遮るんじゃなくて、視線の意図を固定しちゃう方が私にとっては効果的だったの。思いがけないものよね。」
と、彼女は言った。
僕はそれを聞いて感心していた。感心して、まず目を逸らした。
「どうして目を逸らすのよ。」
「それを僕に話してしまったことで、僕がこれから君を見る視線の意図が固定されなくなってしまうだろう?それは、君にとって良い心地のするものではないだろうから。」
僕の言い分を聞いて、彼女は初めて僕に笑顔を見せてクスクスと笑っていた。尤も、僕は目線を逸らしていた訳だから、そんな感じがした。というだけの話だけれど。
「あなたなら、大丈夫よ。」と彼女は言った。
「どうして?」と僕は答えた。
「あなたは私の事が好きだから、視線を向けているんだもの。」と彼女はやや冗談めかすようにして言った。
そんなことはない、と僕が否定すると
「でも、あなたはいつも私の包帯やガーゼじゃなくて、顔とか足を見るじゃない?だから、あなたの視線の意図は痛々しいとかそういうのじゃないなって。だから、私の事が好きで見蕩れてるんじゃないかなって。」
「綺麗だから見てるんだ。整った顔だし、形の良い足をしているから。」実際、彼女の顔立ちはかなり整っていたし、足は膝の形がよく、ふくらはぎには健康的な量の肉だけがついていて美しかった。
「口説いてるの?」
「口説いていない。」
「ふうん。」と彼女は口を尖らせた。
血色が良く、水分がしっかりと含まれているような綺麗な唇だった。
「なんだか、あなたの意図が分かんなくて、視線が怖くなってきちゃったなぁ。」と彼女は言う。
「じゃあ、君が好きで堪らないから目に焼き付けようとして見蕩れてるんだ。」と僕は言った。
「それじゃあ、私のことが好きで堪らないそこのあなた。好きな私からのお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
僕は不承不承といったふうに肩を竦めて、頷いた。

まだ6月だというのに、気温は30℃近くまで上がる日が続いていた。いつもはしないけれど、早めに夏の対策を始めておこうと思う。きっと、今年の夏は暑くなる。

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夏が近くなってくる度に、こういった種類の期待に支配されます。今年の夏こそは、と期待に胸踊らせ、夏の終わりになって、さっきまでそこにあった夏に涎を垂らすばかりです。
チャンスの神様は前髪しかない なんて言葉がありますが、こちらは正しい夏の前髪を掴む準備だけはいつだって万全なのです。でも、シンデレラ的に待つだけの私にその夏が訪れることはきっとありません。正しい夏を謳歌する人は、ドレスもカボチャの馬車もガラスの靴だって、夏がくるまでに自分1人で準備されているんでしょう。
今年もたぶん、手遅れです。
皆さまは良い夏を。――――――――――――――――――――

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