天正の遣欧使節団の足跡を追って(パドヴァ)

私の旅行業人生の中で、私が20数年仕えた社長のY氏は、日常、良く、ヨーロッパには日本に無いもの、つまりギリシャ・ローマの文明、キリスト教の文化、そして、ゲルマンの精神の三つを挙げ、水先案内人の諸君は、だから、勉強しなければならないとおっしゃっていました。
この言葉は、朝日新聞社の記者だった森本哲郎さんが著書の中で書いていた言葉です。
確かに、身近にないもので、とりわけ、宗教はキリスト教を含め、イスラム教、ヒンズー教など、この宗教概念を把握するにはそれなりの努力が必要でした。
特に、私の主戦場だったヨーロッパの主な見所となると、どこに行っても大聖堂や教会があり、そこにはモザイクやフレスコ、テンペラの絵画があり、一体この絵の意味は何なのかの問いが常につき纏っていました。

そんな駆け出しの頃、このブログでもお話ししてきましたシエナのドゥッチョの祭壇画や、アッシジのジョットが描いたフランチェスコ伝と、今日、ご紹介するパドヴァのスクロベーニ礼拝堂を飾ったジョットのキリスト伝は私に大きな影響を与えてくれました。

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(スクロベーニ礼拝堂の外観・・・Wikimedeaより)

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正面右、3段になっている一番上のマリアの父・ヨアキムの夢から始まって、正面まで3周して見てください。大変贅沢にも、かつて、金沢大学名誉教授の宮下孝晴先生にも何度もご説明を受けました。

詳しくお知りになりたい方は先生の著書フレスコ画のルネッサンス(NHK出版)をご覧ください。

また、ここのフレスコ画は修復もしておりますが、保存の環境が良かったせいで色彩が明瞭になっていますので、ここにお参りにきた方々の目に近いものを感じることもできます。
(Wikimedeaより)
駆け出しの頃は十字架に架かるイエス像しかわかりませんでしたが、スクロベーニ礼拝堂のキリスト伝の一枚一枚の絵解きを画集と照らし合わせながら、見たこと、そして、早い時期にイスラエルの旅を経験したことがキリスト教史、絵画史、そして、その絵画史を支えた技術史に触れることができたことでした。
(残念ながら、ほとんどの絵にクレジットが入っていてご覧いただけません。美術出版社等の画集をあたってください。)

さて、前段の話が長くなりましたが、パドヴァについて・・・
使節団一行は船を乗り継いでとありますので、キョッジャ近くに注がれているブレンタ川を遡ったのではないかと思われます。そこで、一行は水位の違う河川を繋いでいたダムも経験していたと言われます。
そのパドヴァの町は13世紀にアッシジのジョットと一緒に活躍していたリスボン出身のアントニオが活躍した町として知られています。町の中心には、彼のお墓にもなっているサンタントニオ大聖堂があります。

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(サンタントニオ教会・・・Wikimedeaより)

スクロベーニ礼拝堂は町の有力者スクロベーニ家が買い取った14世紀初頭、アッシジで
フランチェスコ伝を描いていたジョットを呼び寄せてマリアの父ヨアキムの事から始まり、堂内を3周して、主祭壇の最期の審判、悪徳と徳目の寓意までのキリスト伝の主要なエピソードを42のシーンにして描かれています。これらのエピソードを頭に入れてしまえば
ヨーロッパのキリスト教会のたいていの絵画は応用がききます。
だから、ヨーロッパを巡る旅をする時は是非、イタリアから初めていただきたいと思うわけです。
そのイタリアから・・・という意味のもう一つの理由は、ロマネスク時代から盛期ルネッサンスの16世紀までの貴重なフレスコ画は教会の壁に張り付いていますので持ち出せません。

また、いいものほど、門外不出になっているので、まずはイタリアで本物を見る目を養う意味もあります。

今日は話がだいぶ長くなりましたがもう少しお付き合いください。
パドヴァにいらしたら、是非立ち寄っていただきたいカフェがあります。
ここは、初めて、パドヴァに行った時に、ガイドさんと待ち合わせをしたカフェ・ペドロッキ。
スクロベーニ礼拝堂から歩いても5分ぐらいの近いところにあります。

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(カフェ・ペドロッキの外観・・・Wikimedeaより)

1831年創業とありますから、ゲーテがイタリアを旅していたころ。日本では天保の大飢饉が
起こっている頃です。
そのガイドさんに会うや否や、さあ、早速、スクロベーニからと促すと、あなたはせっかくこのペドロッキに来て、コーヒーも飲まずに行く手はないわと引き留められ、時間を気にしながら、お客様にも一服するように言って・・・確かに、いただく価値十分のコーヒー。
エスプレッソが苦手な方はカフェ・ラッテにしても十分にその味の深みを冠じられますのでお薦めです。

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(カフェ・ペドロッキの内部・・・Wikimedeaより)

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