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祖父関根秀雄の想い出

『モンテーニュ逍遙』を読んでくださるみなさんへ


祖父関根秀雄は、私が小学生のときに亡くなりました。一緒に過ごした時間はとても短いものでしたが、ブロック遊びに付き合ってくれたり、私が創作した体操を真似してくれたりと、たいへん可愛がってもらったことは今でも覚えています(私がサンパウロに生まれたとき、祖父はすでに80歳を超えておりましたが、祖母と一緒に地球の裏側まで駆けつけてくれたそうです)。同時に、祖父が学者であったこと、モンテーニュの研究者であったことも、幼なごころにすでに認めていたように思います。

祖父母の家の客間には、頭が禿げて首の周りになにか見慣れないものを巻いている男の肖像画(*)が飾ってあり、それがモンテーニュという名の人物を描いたものだと聞かされるまでは、しばらく祖父の顔と混同していた節があります。

家を訪れるたびに、祖父は瓶底のような眼鏡をはずしながら、「顔をよくお見せ」と両手で私の頬を抱えつつ出迎えてくれました。私が一人遊びを始めると、祖父はきまって書斎机に向かっていました。ときおりそちらのほうに目をやると、大きな虫眼鏡を手にしながら、棟方志功のごとく顔が机にくっつかんばかりに、一心不乱に何かを読んでいる姿がありました。

机の上には万年筆やら文鎮やらといった種々の文房具のほかに書物が、そして真ん中には紙の束のようなものがいつも置いてありました。それが活字だったのか原稿用紙のようなものだったのかは覚えていませんが、とにかく文字がぎっしりと詰まっていたようでした。改めて振り返ると、それらは脱稿後も繰り返し翻訳の検討を重ねていたという『随想録』だとか、今は私の手許にあり各所に書き入れが施された『モンテーニュ逍遙』の本などであったのかもしれません。眼が悪かったものの、祖父はそういったものを亡くなる直前まで熱心に読み続け、あれこれと思索をめぐらしていたのだと思います。

残念ながら、祖父とモンテーニュについて語るといった機会には恵まれませんでしたが、私も中年と呼ばれる年齢になってからようやく『随想録』をひもとき、さらには祖父の晩年の著作にも触れることができるようになりました。こうして読んでおりますと、モンテーニュの言葉であり、モンテーニュについて述べていることであるはずなのに、どうしても祖父との想い出がよぎり、肖像画のときと同じように、ときおり見分けの付かない二人の人物が一緒に語りかけてくるような気がします。


晩年の関根秀雄、西荻窪の自宅にて。



(*) 『新版 モンテーニュ逍遙』口絵参照。

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