この2ヶ月の間にあったこと

8月に、突然、弟が死んだ。
義妹からの一報を受けて、弟が暮らす隣りの市まで駆けつけるあいだ、どうかウソや冗談であってほしいと願ったけれど、義妹はどう考えてもそんなウソを吐くタマではなく、また人の生き死にを冗談にするハズもなく、着いてみれば果たして弟は死んでいたのだった。
自宅でひとりでいるところ死んでしまったので、警察の検死が入り、弟は素っ裸にされて床に寝かされていた。
義妹とふたりで弟の身体を拭く。義妹は「ケンちゃーん、ケンちゃーん」と何度も呼びかけている。お気に入りだったらしい甚平を着せてやる。

医師の見立てによると、死因は心臓性突然死。少し前までは心臓マヒ、急性心不全って呼ばれてたやつだそうだ。
うっと息が詰まってから後は、こと切れるまではものの2、3分でしょう、とのこと。
たとえそばに誰が付いていようとも、助けるのは無理だったと思います、とも。
むう。こういうときはどうしても「たら・れば」を考えてしまうが、この先生は先手を打ってきやがったぜ。
まあそういう見立てならそうなんでしょう。というか、そう思うより仕方ない。

突如として降りかかってきた悲しみと喪失感をどうすれば良いのかわからない。目の前のこれを現実のものとして受け止められない。何度か弟の顔の布を捲って確かめる。どう見てもどう考えても生きてはいない。息が詰まったせいか顔は赤黒く変色している。3時間前の僕と今の僕は、違う人になってしまった。3時間前の僕は、弟がいる人。今の僕は、弟がいない人。

残された3人の子供たちが、代わる代わる弟の手を握って泣き叫んでいる。こんなに残酷な光景ってあるだろうか。

妻のため、子供のため、朝早くから夜遅くまで、真っ黒な手をして働いて、懸命に生きていた弟が、なんで死ななきゃならないの。弟に比べて、こんなにもいい加減で適当な生き方をしている僕は、当たり前のように生きている。これはおかしい。間違いだ。間違いなんです。
でも、誰が、どこで、なにを間違えたのかはわからない。

まだ小さい頃、どこへ行くにも「おんちゃん、おんちゃん」と、がに股で身体を傾げながら(弟は少し身体に障害があった)トコトコトコトコ付いて来たっけ。その姿が浮かんでは消える。
互いに20代の、ある2年間、千葉でふたりで暮らしていたことがある。その記憶を辿ろうとすると、ふたり暮らしの底抜けの愉しさの度合と、その後に過ぎてしまった時間の長さの度合が相まって、まるで見た夢を思い返すかのように靄がかかる。

30代になってからは、僕は実家のことは弟に任せっきりだった。兄らしいことはなにもしなかった。ずいぶん酷いことをしたなと思う。済まなかったなあ。弟は僕のことをどう思っていたのかね。確かめる術はもうない。訊いてみたかったけど、謝りたかったけど、もう叶わなくなったんだな。弟は僕に、わだかまりなく(ないかのように)接してくれていたけど、ありゃ本心だったのかしら。
そんな謝るとか訊くとかはさておいても、もう弟と話ができない、ということに気づいて愕然とする。たまに会うときは大概、愚にもつかないようなどうでもいいことを言い合って、くすくす笑い合った。いや、ほんとに下らない話なんだけど、そんなことすらもうできないのだ。
ふたりに共通の体験がある。その記憶がある。もう数えきれないほどある。それらについて、あの時はああだったよなこうだったっけ、って確かめることも分かち合うこともできない。
今までふたりに共通していた膨大な体験や記憶は、もう僕だけのものになってしまった。
これはつまらない。つまらないなあ。実に実に、まったくつまらないよ。

父も弟も、僕が大好きだったひとたちはみんないなくなってしまった。別に頼ろうなんて毛頭思っちゃいないけど、なんと言うか、こう、拠り所がなくなっちゃったじゃないの。
僕にとってはどうでも良い、いちばん先にいなくなってもらって構わない母が、まだ生きている。ままならないねえ、まったく。まぁ、そういうモンなのかもしれないけど、得てして。こないだなんか、「リンパ節に転移した分は、すごくちっちゃくなってますねえ」なんて医師が言うのだ。どうなってんの。そんなことってあるの。まったく治療はしていないのに。(母は再々発したガンの治療をすべて拒否した)

常にあるものだと思っている場所、常にいるものだと思っている人。こういうものは、あっけなく、本当に突然なくなってしまうものなので、どんどんと行きたいところへは行き、会いたい人には会うべきですね。

これはちょっと珍しいことだと思うんだけど、我が家の男性3人は、みんな自宅で突然死している。祖父も父も弟も。それぞれ座敷の布団の上、リビングのソファの上、自室のベッドの上、で死んでいた。こういうのはやっぱり、死に方としては理想の死に方なんだろうなあ。前日までピンシャンしてて、なんの前触れもなく明くる日あっさり死んじゃうってのは。まあ、残される側は大いに面食らうし、堪ったもんじゃないけれどさ。
僕はどうだろうか。おそらく、そういう風にはいかないんだろうな。ジクジクと苦しい苦しい長患いの末ようやく、となるのではと思われますね。

当初は、このまま悲しみの淵に沈んだまま浮かんで来られなくなるんじゃないか、とちらりと思ったりもしたけれど、案外そんなことはなかった。こうして年齢を重ねてくるとですね、そういう出来事と自分の生活との折り合いのつけかたが、なんだか妙に巧くなってしまうんだな。ちょっと便利ではあるけれど、ちょっと残念でもあるね。

仕事は1ヶ月休んだ。しばらくはぼんやり過ごしていたけど、すぐに飽きて。なにをしていたかというと、お料理です。これはちょっと自分でもびっくりした。仕事で料理をしている時は、絶対に家では料理なんかしなかったのに、仕事をしなくなったら、俄然家で料理をし始めた。来る日も来る日も、毎日自分のために料理を作りました。こんなにも料理が好きだったのか僕って、と再認識。店で出しているメニュは、おさらいをするように全て作った。果物のコンフィチュールも20種類ほど。どんどんと興が乗って、野菜の直売所へ行ったら良い瓜があったんでどっさり買い込み、せっせと奈良漬けを仕込んだりもした。火口が足らねぇんだよなあウチの台所はよぉ、なんて思って新しいガスコンロを見にショールームへ行ったりもした(少しどうかしてますね)。「ミュンヘン」で、主人公のアヴナーが、恐怖心を抑えるためにひたすら料理をするシーンがあった。いま思えばそれに近い、のかもね。

ここまで書いてきて、なんだか少し気恥ずかしくなってきたな。
そろそろ終わりにします。このまま書いてると際限なくなる気もするし。

長じてからは、僕は弟とそれほど仲良くしていたわけではないし、普段弟のことを考えることなんか、まずなかった。そういう生活をしていた僕がなんでこんなこと書き出したのか、といえば、まあ、突然弟をなくすという変わった出来事があったから、それによりセンチメンタルな気持ちになっていたから、ということなのでしょう。気持ちの整理をする、ということもあるのか。


ただ、僕は弟のことがだいすきだった。かけがえのないひとだった。

50年間いっしょに生きてきた弟がいなくなった、いまの気持ちを一言で言うなら。
つまらない。それに尽きる。
ただただ、つまらないよ。本当につまんないぜ。

もう会えない。たとえどんなことが起ころうとも、もう二度と会うことはできない。そんなことは判っているのだけど。
でも敢えてこう言おう。


じゃあな、ケンジ!!また会おう!!!

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