野田版 桜の森の満開の下


納涼歌舞伎に染五郎&猿之助が出演したのは2016年。弥次喜多でラスベガスへ行っちゃうと言う奇想天外な東海道中膝栗毛弥次さんが染五郎喜多さんが猿之助で客席を大いに賑わして満員御礼の日々。
第三部は「土蜘蛛」で哲之君の為に勘九郎&猿之助番卒!
翌年は一部で勘太郎の襲名で初舞台を済ませて一人で「玉兎」を踊り、勘九郎&猿之助の「団子売り」きりっとした勘九郎杵造と福々しい猿之助お福ちゃんが忘れられない。二部は「修禅寺物語」で姉娘桂を演じる猿之助さん。
「弥次喜多」はお伊勢参りはせずに歌舞伎座で殺人事件が起きる。しかも四ノ切の稽古の最中に起きる殺人事件。ラストは2バージョンでお客の拍手で決めると言うスタッフ、出演者泣かせの方法でお客は大喜び。

この時の三部が「野田版 桜の森の満開の下」舞台を観る事叶わずでようやくシネマ歌舞伎で見る事が出来た。
野田版の歌舞伎は苦い思い出がある。「野田版 研辰の討たれ」は勘三郎襲名公演で松竹座でかかった演目。これが歌舞伎!?襲名興行でかける演目ではありえない。私の中で野田さんが苦手な人になった瞬間だった。
2005年の事。14年の時の流れは私の観劇環境を大きく変えた。猿之助さんのスーパー歌舞伎Ⅱ「空ヲ刻ム者」やワンピース歌舞伎、当時染五郎染五郎さんの阿弖流為(歌舞伎NEXT)NARUTO、インド歌舞伎マハーバーラタ等々これは歌舞伎?新しいエンタテインメント?2.5次?新作歌舞伎と今までの御贔屓やタニマチではなく、新しい若い歌舞伎ファンを獲得すべく様々なジャンルの歌舞伎興行が行われた。
そんなの中で見た「桜の森の満開の下」分かり易い。見やすい!歌舞伎俳優が演じるとストプレみたいな台詞の応酬があるにも関わらず歌舞伎だ。ファンタジックなセットも歌舞伎のセットの範疇。時代は不明だがオオアマが登場するから壬申の乱あたりの設定かな。

昼と夜、正義と邪悪、醜悪と美。様々な対比で人の心を紡ぎ出す。野田さんらしい言葉の洪水も軽々と歌舞伎俳優は飛び越えて行く。シネマ歌舞伎なので編集されてる事もあってより分かり易くなっているのだろう。
中村屋の興行はあまり観てないので中村兄弟の感想は控えよう。オオアマを演じた幸四郎さん。新作歌舞伎で悪役。本当に似合う。新感線歌舞伎で様々に演じた悪の華を彷彿とさせる格好良さ。綺麗な顔で次々と悪に手を染めるそんな役は天下一品だ。そして芝のぶさんの二役が見事。
猿之助さんのおかげで今まで観なかった演劇を観て、おもだかの人達が新しい運命を賭けて新派へ移ったから、新派も、観るようになり、話題の演劇も観たいと岩井秀人監督の「世界は一人」を観てみたりもする。
前川知大さんの作品は猿之助さんのスーパー歌舞伎Ⅱ「空ヲ刻ム者」以来映画も舞台もできるのだけ観るようにしている。そして佐々木蔵之介さんの舞台も。若い人達の演劇は正解を教えてくれない。考える事を忘れてたおばさんには刺激的な舞台は新鮮だ。私の感性には無い世界観が面白い。そんな数年を過ごした後に観た「野田版 桜の森の満開の下」残酷な夜長姫と耳男を中心とした野田歌舞伎。観念を縦横無尽に表現するとこうなるのだ。歌舞伎俳優の体を使って作り上げるとやはり歌舞伎になるという不思議。ワンピースやNARUTOは歌舞伎俳優だけでは作りあげられない歌舞伎風なエンタテインメントだと思う。しかしほぼ歌舞伎俳優だけが出演する阿弖流為やマハーバーラタは完全に歌舞伎だ。自分の中で理屈抜きの境界線があるらしい。
「野田版 桜の森の満開の下」はどこから観ても歌舞伎の枠に収まっている。時代が変わったのか、私自身の価値観が変わったのか。物差しも変化する。

新しい物は古くなる。繰り返し演じられる古典は古びない。上演されなくなった古典は数知れず。それは時代と合わなくなったかつまらなかったのか、それとも継承する人が絶えたのか。
超歌舞伎も入れると歌舞伎の枠組ってどこまでひろがるのだろう。
野田版桜の森の満開の下が分かり易いと思えた事は私の進化なのか?まだまだ新しい歌舞伎が私の頭の上から空から落ちて来るのだろうか?歌舞伎ってなんだ!って考えさせられた作品になった。

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