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論理的に意見する:客観的に見て正しい方が正しいという論理破綻

500文字くらいでサクっと書こう。そんで人気が出たら内容を詰めよう。そう考えてやっていってる。

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さて、2016年くらいまでの世の中には「誰が言うより何を言うかだ」みたいな格言が結構流行っていて、それが今は色々あって「結局誰が言うだよね」という当然の現実に着地しつつある。

その派生というか、全く同じことの言い換えなんだけど「論理的に意見することが大切」「客観的にみて正しいものが正しい」という論理は未だに信じられているように思う。というか、僕が半分「そうである」と信じたいところはある。

しかし、当然の事実として、その「客観的」は何に基づいて判断しているのか「客観(オーディエンス)は論理を大事にしているのか」というのは、全くもって環境による。

仮に、客観達が論理を大切にする環境であれば、理屈が通っていればいいし、「客観的にみて正しいものが正しい」というのは、通る。

しかし、客観達にとって、論理を大切にするよりも、その場の力関係に重きを置いて判断する方が得である場合…そりゃ、そっち<力関係基準で判断>いくよねとなる。(力関係ドリブン>>論理ドリブン)

すごい悲しい例を出すと「学校のいじめ」。"人をいじめると、いじめられた人は悲しむ。人が悲しむのは良くない"という道徳的見地からの論理は広く伝えられているんだけど、客観達は道徳的見地からの論理に従うより、その場の力関係に従う方が心理的なコスパが良いわけだ。見ても止める人ほとんどいないでしょ。

結果、このように論理より力関係を重視した結果として環境がクソになるということは往々にしてあるんだけど、そのクソな環境のスケープゴート(集団内の不平や憎悪を他にそらすため、罪や責任をかぶせられ迫害される人。)に運悪く任命されてしまうことも往々にしてあるんだけど、

個人が打てる対策としては、
✅環境の力関係を基準にして強い立場にいくように頑張る
✅論理を大切にする土壌を頑張って作っているところに身を移す
✅その場の力関係に重きを置きつつもクソではない環境に移す

の3択であるかなーと。

とにかく、客観的に見て正しい方が正しい/論理的に筋が通ってるものが正しいとなるには、そういう土壌が育っている必要があり、

そうではないところに、上記のような考えを無理くり当てはめようとして頑張っても、「ズレてる人」という判子を押されてより面倒なポジションに追いやられるのかなーと思ったりしました。自戒。



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