わたしが絵画講師になるまで、その1

突然ですが、絵画教室の講師って何を考えているかご存知でしょうか?
大体からして、絵を教えるっていったいなんなんだろうって思いませんか?
まずはそのあたりからお話ししたいと思います。

講師になったのに何も教えられなかった

私は大学出るか出ないかの頃に初めて趣味の絵画サークルで講師として迎えられた。当時21歳。自分がしてきたことを教えて謝礼をもらえるなんて、最高だと思った。ところが、やってみたら、何を教えて良いかがよくわからない。それもそのはずで絵画予備校でも大学でも描き方を教わった記憶がなかった。
そんなわけで当然のことながら描くために必要な物事を的確に教えられるはずはなかったのだ。

いったい、自分はそれまで何をしてきたのだろうか。20代前半の頃はよくそう思った。そして自分が無知できっと理解ができてないから教えられないと落胆した。気分的にはそれほどでもなかったが、大学に入るにはそれなりに努力したつもりだった。

埼玉の高校から池袋の予備校に行き、夜10時くらいまで絵を描きまくる生活を約1年。『絵を描きたい』を夢見た自分にはただただ楽しい時間で努力と呼ぶかどうかはなんとも言えないのだが、それまで中学、高校と運動部で、選択科目も美術をとっていなかった私が、新人戦直前の怪我をきっかけに美術の世界へと方向転換をしたのが17歳の頃。兄が以前通っていた予備校に部活を辞めて通い始め、最初は週1回から、3年生からは毎日18時から21時の夜間コースへ。
とにかく知らない世界の驚きと楽しさを感じながら予備校に通い続けた。

しかし、親には最初で最後のチャレンジだと強調されていたことや、高校での授業が既にほぼ消化試合化して、ただただ辛い時間だったこともあり、受験が近づくとその楽しさと裏腹に様々な体調の変調があった。人生初の下血を経験したのは私立大学受験間近の12月末だった。今考えると、かなり追い詰められていたのだろうと想像できる。もちろんその変調は入学するまで続いた。受験会場までの道のりで鼻血が止まらなくなったり、学科試験中に意識が飛んでしまい、ほぼ白紙で提出したりなど。
色々あったけど、よく受かったなぁと今では思う。

受かった喜びも束の間、入学後にすぐ挫折があった。予備校で学んだことがほとんど通用しなかったからだ。予備校では結構描ける方だと思っていたが、基礎的な技術は、自己を表現するためのほんの少しの要素でしかなく、それだけでは作品を作り上げることはできなかったからだ。
そこには、自己の感覚、記憶、生活などを総動員する必要があり、基礎はただの初歩的な技術というだけだった。

私は日本画専攻だったので、いわゆるデッサンのような物はほとんど意味をなさないのも実感した。何故なら、それらは洋式の描画方法だったからだ。和式の絵画、日本画では、基礎の書き方ほど洋式感覚は不必要に感じた。大学2年くらいまでは、全く書くことができずモヤモヤと鬱憤が溜まり続けた。
絵の具も特殊で覚えることが多く、予備校時代に使用していた水彩絵の具の要素とは全く別物だった。まさに追い詰められ、がむしゃらというのが相応しい状況だった。その上、教授は教えてくれるということはほとんどなく、出来上がった作品についての評価をするだけで、ますます活路を見出せなくなっていた。

3年の頃から少しおかしくなって日々色々な方法を試してみたりし始めた。絵画とは違ったものでの表現方法の模索。石膏で造形物を作ってみたり、染物をしてみたり、彫金をしてみたり、飛躍すれば映画の出演や音楽での活動などもした。それらを絵画という軸に添えて、表現する方法を模索し続けた。
できるだけのことはやったつもりだったし、それで美大を卒業できたという自信がついたのも事実だ。卒業展では評論家にお墨付きをもらい、有頂天だった。

だが、しかし、それでも趣味の絵画を教えることは全くできず、本当に打ちのめされた。

講座で何を教えてよいかがわからない

あろう事か大学出立ての私はそれまでの技術的な部分を教えるのではなく、感覚的な部分をレクチャーすることが多かった。当然生徒には理解されることもなく、講座の方針を立てることはほぼ不可能の状態だった。

それでも生徒は容赦なく質問やアドバイスを求めてきた。先生は美大出身だからそんなことわかるでしょう?と色々な質問をされた。
しかし、返答を的確にすることができず、感覚的な精神論や、自己感覚に基づいたことをレクチャーする。もちろん理解されない。
こんな状況だと日に日に生徒は減ってった。
それでも問題を解決することが全くできなかった。

そんな状況でも何故か教室を持つ機会は増えていった。
新たに受け持った講座でもそんな調子で。
結局、最初の講座で陥った状況と同じような展開へ。
しかし、ここで今でも覚えてるような印象的な出来事が起きた。

その生徒さんははっきりと、私に「意味がわかりません」と言ってきた。
当時の私は言ってみれば精神論や根性論のようなものを教えていたように思う。
ここで予備校時代の話に飛ぶが、よく教官には「物がちゃんと見えなければ念じろ」と言われていたのだ。今考えると笑えるが、当時は予備校の教官に投げつけられた乱暴な言葉をそのまま利用したエキセエントリックな教え方しかできなかったのである。

一般社会でちゃんと生活してる生徒さんに、美大入試用の技術養成所の暗号文や精神論、謎の呪文のような教えが効くわけがない。至極当然だ。
生徒さんの真っ当な訴えにより、現実世界にばっちり引き戻された思いだった。私は講師で給料をいただいており、それ相応の技術や方法を教えなければいけない存在だと初めて気がついたのである。

ある日の気付きはそのまま転換点に

この気づきはとても大きな転換点だった。
それまでとは違い、ちゃんと学ばねばならないと気づいたのだ。
それは、大学や、予備校などで習った内容の裏付け。
そして何よりそれまでは興味のなかった美術に関する物事、歴史。
せめて講座で教えられるくらいには身につけなければ、と急いで勉強し直したのだ。

文章で書くと簡単そうだが、これがそうでもない。何よりも感覚的に考えてた部分の視覚化や用例化は根性論や精神論を添えて習った技能や方法を自己分析しなければならない。これが難しかったし、実の所、今でも難しい。
抽象的な感覚の具現化であり、無意識の意識化でもある。

さてとりあえず、1回目はこのくらいとして、次回も同じく講師が何を考えているかを綴ってみようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?