わたしが絵画講師になるまで その3

第2回で、マニュアル式講座にしようと思ったのは何よりも、誰もやらない方法だと思ったからです。
どう考えても大変すぎる。効果が見込めても作るのが難儀すぎる。
でも、それでもどうしても作ってみたかったのです。
それは作家なら誰しも持っているであろう感覚によるものでした。
今回はその精神性のお話しです。


表現者として生きていこうと思った時、自ずと『誰もやらないことをしよう』というような精神が根付いていく。

その感覚はどこから生まれたか。
思い返せば、ファーストインパクトは大学受験前、美術予備校でのこと。多人数の選考試験では少しでも目立たないと選抜されない。
いくらデッサンがうまく描けようが、魅力的でなければ選ばれることはないと強烈に教わる。だからと言ってそのための技術は教えてはくれないもので、色々な手段、表現方法を試すようになっていく。結果、頭からつま先までどっぷりとその考え方にむしばまれ、嫌というほど染まっていくことになる。

セカンドインパクトは美術大学生の時分、課題をこなしていく中で批評会という一つの結果報告、制作発表会がある。
その時にまず、既視感があるかどうかが焦点となる。
どのような作品かという前にまず見たことがあるかどうかの話題が主な基準となるのだ。その次に、作者本人がそれをどう意識していたか、をかなり厳格に質問される。

なぜ描いたのか、どうしてこのモチーフにしたのか、何を表現したかったのか、どう見せたかったのか、、、など。技術的なものよりもそういった精神性をまず見られていく。
作者は制作意図が新たな挑戦と主張したとしても、教授陣はその既視感があれば問答無用に批判してくる。それは人間性の否定に近い表現で投げつけられることもあり、在学中、誰しも一度は打ちのめされたことだろう。
そしてその、発表と評価は卒業後もずっと続いていくのである。

たとえば個展や合同展、公募展などで発表や出品する時も同じく、その作品が精神的にそして、見た目や雰囲気が新たな挑戦であるかを問われる。
その上で、晴れて『評価』となるのだ。
作者がその作品に新たな視点があったかどうかを知っていようが知るまいが関係ない。

結局のところ、『誰もしたことがないものを作りたい精神』は食事や睡眠と同じくらい当たり前の考え方になっていく。そうして自らの研鑽を意識的、または無意識的に行い続けていくようになる。
おそらくこれは画家だけの話ではないだろう。

これらのことを書き連ねていると、これこそが作家の精神構造かと思うのだが、それにより生まれてくる副産物のようなものもある。これがなかなか厄介なものでいまだに余計な感覚だと思う部分でもある。それは、誰しもがやっていることへの嫌悪感。

あまりにも未踏の世界を目指すあまり既視感を伴う世界を好み辛くなっていく。人がやっていることは悪、といった感覚すらも生まれてきて、やがて自分自身に追い詰められていく。自らの課した目標の条件が厳しすぎて実行できなくなる、こともしばしばある。だが、未開の地への探索と既存の世界の嫌悪感は表裏一体であり、同時に挑戦してみたい気持ちも同じくらいに生み落とされてしまう。それがどんな分野の何であっても変わらず、だ。

というわけで話をマニュアルづくり、講座づくりの過程に戻すまえに今回はこの辺でやめておこうと思う。次回はマニュアル作りをどのようにしたか、というお話です。

お読みいただきありがとうございます。次回もどうぞよろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?