ぼくのおとうさん

ぼくのおとうさんは、おこりんぼです。
おしごとからかえってくると、いつもぷりぷりおこってます。
おこったおとうさんは、とてもこわいです。
ほんとうは、おかたずけをしない、ぼくがわるいんだ。
しいたけや、とまとがきらいな、ぼくがわるいんだ。
おとうさんは、おしごとがいそがしくてあそんでくれない。
おとうさんは、おじいちゃんとけんかばかりしている。
もっと、なかよくすればいいのにな。
だから、ぼくは、ようちえんからかえったら、おにいちゃんのそうちゃんと、いつもいっしょにあそぶんだ。
はやく、おとうとか、いもうとが、うまれないかな。
おとうとか、いもうとがうまれたら、ぼくはずっといっしょにあそんであげるんだ。
おかあさんは、とてもやさしいです。
いつもじょうだんばかりいって、とてもおもしろいです。
ぼくは、おとうさんとおじいちゃんはにがてだけど、おかあさんはだいすきです。
おばあちゃんもやさしくしてくれるのですきです。
でも、おとうさんは、やっぱりこわいです。

ぼくのお父さんはものしりです。
いつもはこわいかおをしてるけど、しゅくだいでわからないことや、ふしぎに思ったことをきくと、何でも教えてくれます。
それから、ぼくの知らないお話しや、でんきのこととか、いろんなことを教えてくれます。
この前は、ハレーすい星やアンモナイトのことを教えてくれました。
お父さんは、小学1年生のぼくは、まだまだ知らないことだらけだ、といいました。
どれだけしらないことがたくさんあるのか、ぼくはうんざりしました。
お父さんはよくおじいちゃんとケンカするけど、いつものことだから怖くなくなりました。
でも、やっぱりお父さんはよくおこります。
ぼくは、お父さんが会社から帰ってくる前に、兄のそうちゃんといっしょに、部屋のおかたずけをするようになりました。
いつも、お母さんの合図や、お父さんの車の音がしたら、おかたずけをします。
お父さんはおこると怖いけど、僕たちがちゃんとしていたらおこりません。
弟のゆうはまだ小さいので、僕があそんであげます。
ゆうは小さくてかわいくて大すきです。
お母さんも大好きです。
おばあちゃんは好きだけど、おじいちゃんは少しだけ苦手かな。
お父さんはやっぱり苦手です。

僕のお父さんは無茶苦茶です。
突然、お父さんは僕に将棋を教えてくれたけど、全く手加減してくれなくて、一度も勝たせてくれません。
テレビで三国志の人形劇を見ていたら、突然、お父さんは吉川英治が書いた三国志と太閤記を持って来て、僕に読めと命令しました。
小学3年生の僕には難しすぎる内容でした。
あと、算数の宿題をしていたら、突然、お父さんは三角関数と微分と積分というものを僕に教えだしました。
ちんぷんかんぷんでした。
それを見たお母さんはお父さんに文句を言ってました。
でも、お父さんも何か難しいことを勉強しています。
僕にはさっぱり意味がわからないけど、大人でも勉強するんだなと思いました。
やっぱりお父さんは苦手だ。

僕はぜんそくで1年くらい国立西別府病院に入院することになりました。
小学校は病院の隣の石垣原養護学校というところに転校することになるそうです。
小学4年生のクラスのみんなや家族ともしばらくお別れです。
昨日、お母さんが僕に食べたいものを聞いてきました。
僕は、友達が遠足の時に食べていた、甘いだし巻き卵が食べたいと言いました。
お母さんは朝から一生懸命甘いだし巻き卵を作ってくれました。
僕は早速食べようと思っていると、僕が食べる前にお父さんがあっという間に全部食べてしまいました。
僕は一生懸命だし巻き卵をほお張るお父さんが面白くて笑いそうになりました。
すると、お母さんがその様子を見て、突然怒り出しました。
僕はお母さんがお父さんに怒っているのを初めて見ました。
どうやら、お母さんはしばらく手料理を僕に食べさせることが出来ないので、僕のためだけにだし巻き卵を作ってくれていたそうです。
それをお父さんが全部食べてしまったので、怒ったそうです。
それを聞いて僕は、お父さんは馬鹿なことをしたな、と思いました。
お母さんは、お父さんのことを自分勝手だと言ってました。
僕もそう思いました。
次第にお父さんも怒り始めました。
こんなことは初めてです。
お父さんとお母さんが僕がいなくなる日に見たこともないような大ゲンカを始めたのです。
僕は怖くなって「やめて、やめて」と言いながら泣いてしまいました。
お母さんは怒ったままです。
僕は腹ペコです。
お父さんとお母さんが大ゲンカしている間に病院に行く時間になりました。
病院につくと、家族のみんなとはしばらくの間お別れです。
僕は家族から離れて暮らすのは初めてです。
兄弟やお祖父ちゃんやお祖母ちゃんと別れるのはさびしいけど、お父さんとお母さんがまたケンカしないか心配です。
僕は、お母さんにお父さんとケンカしないように言いました。
お父さんにも言ったけど、お父さんはふくれっ面で何も言いませんでした。
やっぱりお父さんは自分勝手だと思いました。

僕は、ようやく国立西別府病院を退院することになりました。
もう小学6年生です。
今まで、お母さんは何度も面会に来てくれました。
お父さんはほとんど面会に来てくれませんでした。
そして、とても残念なことに、喘息も治りませんでした。
この1年4か月、一体何だったんだろう。
病院では沢山の出会いがあり、別れもありました。
養護学校では、それ以上に悲しい別れが沢山ありました。
僕は「死」というものを学びました。
そして、僕は喘息が「死」につながる病気だということを知り、それを実感しました。
僕は生きている。
でも、生きている者同士、会わなければ死んだも同然だ。
お父さんは僕のことをどう思っているのだろう。
僕は必要無い子なのかな。
お父さんは僕が死んでも悲しまないのかな。
お父さんがいなくても、僕は悲しくないかもしれない。
だって、この1年4か月の間、僕はお父さんとほんの少ししか会っていないから。
お母さんがいないのは悲しいけど、お父さんがいないのは慣れてしまった。
家に帰って、ちゃんと僕の居場所はあるのかな?
とりあえず、壮ちゃんと祐と一緒にたっぷり遊ぼう。
お婆ちゃんやお爺ちゃんともたくさん話をしよう。
お父さんとはゆっくりでいいや。

中学2年生になったけど、僕の喘息はどんどん酷くなる。
今は国立別府病院に転院し、入退院を繰り返している。
おかげで学校にも行っていない。
心肺停止も経験した。
お医者さんからは、20歳頃までしか生きられないと言われた。
やっぱり喘息は死ぬ病気なんだ。
死んだら天国や三途の川に行くって言われているけど、僕にはそんなものは見えなかった。
ただただ、僕が消えていく感覚だけが残っている。
もっと先に行けば見えたのかな?
あんな体験は二度としたく無い。
でも、入院中は僕の周りにはそんな仲間だらけだ。
みんな病気は違うけど、みんな大人になるまで生きることが出来ない、命を共有した仲間達だ。
みんなとは、誰が最後まで生き抜くか競争している。
既に何人かは脱落した。
とても悲しい競争だ。
でも、みんな同じことを思っている。
最後に生き残った人には、死んでいった仲間のことを忘れずに、ギリギリまで頑張って生きて欲しいと。
それが僕たちの生きた証になるんだと。
人間はいつかは必ず死ぬ。
それが早いか遅いかの違いだけだ。
僕は父ちゃんや母ちゃんより先に死ぬんだろうな。
僕は僕が消えて行くのを感じながら死んで行くんだろうな。
でも、僕が喘息の発作を起こすと、いつも母ちゃんがすぐに病院に連れて行ってくれる。
僕は母ちゃんには頭が上がらない。
僕が今生きているのは母ちゃんのおかげだ。
父ちゃんはというと、いつものように夜遅くまで仕事をしているか酒を飲んでるかどちらかだ。
ある日、僕が発作を起こして咳込んでいる時に父ちゃんが言った。
「お前なんか産まれて来なければ良かった!」
父ちゃんは少し酒を飲んでいるようだった。
僕は死にたい気持ちになった。
その時、初めて壮ちゃんが父ちゃんを叱った。
「そんなこと言うな!」
僕はとても嬉しかった。
頼もしい兄ちゃんだ。
母ちゃんも父ちゃんの言葉を責めた。
父ちゃんはまたふくれっ面だ。
僕はまだ父ちゃんを叱る勇気が無い。
僕は父ちゃんの言葉から逃げるように部屋を出た。
父ちゃんは自分勝手で人の気持ちがわからない。
早くこの家を出たい。
早く父ちゃんのいない世界に行きたい。

高校2年生になった俺は、未だに喘息で苦しんでいる。
未だに入退院を繰り返して、高校には殆ど通っていない。
きっと数年後には死ぬんだろう。
家族には精神的にも金銭的にもかなり負担をかけている。
俺が喘息発作を起こした時、父ちゃんがイライラしている意味が何となく解ってきた。
入院費がかなりかかっているのだ。
母ちゃんは、子供のためには幾ら金を使っても構わないと言っている。
でも、金を稼いでいるのは父ちゃんだ。
男3人兄弟で祖父母もいて、家族全員で7人だ。
それなりに大所帯だ。
生活費だけでもかなりかかっているだろう。
そこに俺が入院したら、家計はかなり厳しいだろう。
父ちゃんは大企業の昭和電工で働いているから、それなりに給料は貰っているだろう。
それでも、大所帯で入退院を繰り返す子供がいたら、やっぱり金銭的には厳しいのだろう。
平日は必死に働いて、週末は疲れて酒を飲んで寝ている。
父ちゃんは父ちゃんなりに頑張っているのだろう。
だけど、それは言葉にしてくれないと誰にも通じない。
母ちゃんは俺が死なないように必死に何かに祈っている。
ありがたいけど何だか申し訳ないし、そんな必死な母ちゃんが何だか怖い。
俺が早く死んだ方がみんな幸せになるのかな?
昔父ちゃんが言った通り、俺なんて「産まれて来なければ良かった」のかな?
俺は早く家を出て家族を楽にさせてあげるべきなんだろうな。
やっぱり、県外の大学を受験しよう。
俺は物理の研究をしたい。
物理だけなら、全国模試でもいつも10位以内の成績だ。
幸い、大分大学には物理学科が無い。
物理学科がある県外の大学に行こう。
父ちゃんのいない世界に行こう。

俺は何とか物理学科のある高知大学に進学した。
そして20歳になった。
以前、医師から20歳まで生きられないと言われていたのに、20歳になった。
でも、これは奇跡でも何でも無い。
高知に来てから、喘息の発作が劇的に減ったのだ。
高知は、俺が思っていた以上に田舎で空気がキレイだったのだ。
大分よりも田舎な県があるとは思ってもいなかった。
結果的に転地療法になってしまったのだ。
さらに、ある日突然、喘息の予防的治療法が始まり、全く発作が起きなくなってしまったのだ。
この治療法は、俺のような重度の喘息患者にも有効だったようで、入退院をせずに全く普通に生活が出来るようになってしまった。
俺は、20歳で死ぬという呪縛から突然解放され、普通の人になったのだ。
以前一緒に入院していた仲間はみんな死んでしまった。
期せずして、俺は仲間達との競争に勝ってしまった。
そして、彼らの命の重圧が重くのしかかる。
俺は、大人になれなかった彼らの命を心に刻んで生き抜かなければならない。
ほんの数年前まで、死ぬ準備をしていたのに、これからは、長く生きて行く準備をしないといけない。
でも、母ちゃんは相変わらず心配をして、週に1度は電話をかけて来る。
父ちゃんは、母ちゃんが高知に来る時だけ、ほとんど運転手としてやって来る。
高知に来ても、父ちゃんは酒を飲んでばかりだ。
酔っぱらうと、小難しい話を得意げに話をしてくるが、そんな話はもう俺でも知っている。
相変わらずだ。
知らないフリをしている俺は親孝行なのか?
そんな父ちゃんに母ちゃんは相変わらず文句を言っている。
やっぱり父ちゃんは苦手だ。

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親父が死んで一年半が経過した。
未だに実感が無い。
昔は、親父がオイラより先に死ぬなんて考えもしなかった。
親父は死ぬまで本当に自分勝手な人だった。
本当に親父がいない世界になってしまったけど、全く悲しくない。
オイラは親不孝なのかな・・・。
でも、親父の人生について、聞きたい話は山ほどあった。
親父の頭の中の人生の記憶は、記録に残されること無く失われてしまった。
もっと話をしておけば良かった。
それだけが心残りだ。

親父、しばらくはそっちで爺ちゃんと婆ちゃんと仲良くやってくれ。
オイラ達はまだそっちに行く気は無いからね。
オイラはこっちで精一杯生き抜くんだから!
自分勝手にオイラを呼ぶんじゃないよ!

じゃあ、またね・・・。

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