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写真は無限で自由だ

写真は、写真という枠組みの中で無限で自由だ。

そのはずなのだけれども、最近のSNSで日々繰り返されている写真に関する主張にうんざりしてしまっている自分がいる。

くだらない言い争い、自分を大きく見せるためのポジショントーク、間違った知識、自分の経験や立場のみで語られる全体感が欠如した写真観、フィルムデジタル論争とかとかとか。

気づけば、大量にミュートワードを設定して、自分の世界を構築してしまった。せっかくのSNSなのに他者との交流という本質を無視して、一方向通信に使ってしまっている。

写真には長い歴史があり、様々な役割を担ってきたからか、多面体のように色々な側面があり、言い方は悪いかもしれないが、色々な界隈、様々なコミュニティが存在する。

機材の世界があり、写真の世界がある。
写真の世界は記録写真の世界と芸術写真の世界のほかに、フィルムの世界とデジタルの世界に分かれる。フィルムとデジタルは機材の方にも世界がありそうだ。
細分化すると、枚挙に暇がないというやつだ。

このようなコミュニティは複雑に絡み合って一部が疎結合ないし部分集合の状態にあり、誰かの発した問題のあるコメントがとあるコミュニティで受け入れられたとしても、薄い繋がりのある別コミュニティに波及したときに、一気に炎上したりする。

ここ数ヶ月の炎上案件を対岸から眺めていると、知りたくもなかった複雑怪奇なコミュニティの現状を図らずも把握した次第だ。

何が言いたいのかというと、何らかの主張をするときに、同じ世界の隣接するコミュニティの住人を刺激するようなコメントを発することは控えるべきではないだろうか、という当たり前の主張をしたい。

そもそも、どうして問題のある発言をするのだろう。自分の取り組み、自分のことを発信しているだけなら、問題など発生する余地は微塵も存在し得ない。

炎上してまでも知名度を上げたい(テコ入れしたい)個人や、炎上した際に問題のある内容でも擁護する炎上対象者にキャリーされている方とか、とにかくコンテンツとして何かを提供しなくてはいけなくて、なんとか絞り出した内容に配慮が足りていなくて炎上した、であったりだとか。
嫉妬の感情からくる「やっかみ」もあるだろう。
人間関係のいざこざやコミュニティ内の勢力争いといった事例もありそうだ。

自分を発信するという本質とかけ離れた行為や俯瞰して物事を眺める視座が不足していると、問題発生のリスクが高いだろう。

他者が、私が、どのような取り組みをしていたとしてもそれは自由で。あなたも、私も、何らかの目的を持って写真を撮影している。
必ずしも芸術作品でなくても良いし、芸術作品であってもいいし、その芸術作品が必ずしも現代芸術でなくても良い。そのときその場所の記録であっても良いし、撮影方法はフィルムでも、デジタルでもいい。
個展技法なんかもいいよね。最高ですよ。

とにかく、写真は無限で自由で。
本来写真とはそういうもので、写真以外の物事もそう。他者に邪な思いを抱くことなく楽しみ、愛しつつ取り組むべきではないだろうか。

SNSでは、もっと自分の取り組みにフォーカスして楽しんでいる姿を見せてほしい。私はそのように取り組んでいるし、そんな方のお話や写真を見たいと思っているのです。

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