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あなたの日常、わたしの日常

最近のTwitterでは、「日常写真」が投稿されていますね。

この言葉を初めて目にしたときに真っ先に考えたことは、この言葉の位置づけをどう捉えるか、定義をどう位置付けるか、でした。
そんなことを考えていると、狙い澄ましたかのように公式アカウントから告知があり、その内容にとても感心しました。


募集テーマは日常です。と言われると、
その定義を教えて欲しいと思うかも知れません。

しかしこのプロジェクトを通して確かめたいのは、幅広い日常写真の有り様です。それこそ、写真の数だけ、その解釈はあると思います。

私たちが一方的に定義付けすることによって、その可能性を狭めたくないと考えています。

ものすごく感心しました。
なんか上から目線に聞こえるかも知れませんが、本当におおっ、と思ったのです。思ったというか、声に出しました。
まさに考えていたことを提示されたので、とても感心したのです。

前置きが長くなってしまいましたが、このnoteでは、私が考える日常写真の定義についてお示しします。
どなたかの表現の参考になれれば幸いです。

日常の定義に答えはない
公式アカウントの引用文でわかるかと思いますが、日常の定義に答えはありません。「日常」は人の数だけ存在し、ある程度一般的な社会通念として思い描かれる方向性はあれど、完全に解釈の一致する「日常」はないことでしょう。
ある程度幅を絞って考えるなら、あなたが思い描く「理想の日常」か、或いは、あなた自身の「現実の日常」をカメラを通じて表現し、撮影する事になると思います。


私が思い描く理想の日常
仮に私が、私自身の理想を具現化するために日常写真を撮影するならば、家族の写った写真を撮影することになります。
なぜなら、私は家族に恵まれなかったからです。親は早くに離婚し、成人して社会に出るまでの間、辛い思い・悲しい思い・心が引き裂かれるような体験を繰り返してきました。
だからこそ、私は家族の団欒や小さなお子さんが家族と触れ合うひとときの写真に強く惹かれます。それらは、私が体験できなかったもので、おそらく、今後も私が持ち得ることができないものだからです。
きっと私はそんな家族写真を日常写真として提示するようなことがあったとしても、こんなことをわざわざ説明するつもりは一切ありませんが、家族こそ、私の理想の日常だと断言できます。

私の日常は皆さんの非日常
私の日常は寂しいもので、人と話をするのは職場かTwitterのみです。休日は素晴らしい光景を求めて一人車で遠出し、撮影しています。それが私の日常です。
この時点でなんとなく察されるかも知れませんが、人と触れ合うことのない私の日常は殆どの皆さんにとって非日常と捉えられることでしょう。冒頭でも述べましたが、「日常」という言葉は一般的な社会通念として思い描かれる方向があります。
私の現実を日常写真と称して投稿することは困難です。なぜなら、私自身が私の日常を世間一般的な日常として許容できないからです。私自身がそれを日常だと認めたくないのです。

日常写真を撮るとするならば
以上のことから、日常写真と称した写真を提示するなら、理想を具現化したものとして家族の団欒や美しい光景を撮影することでしょう。

当然のことですが、これは私の考える日常写真の定義です。是非、あなただけの日常を捉えて、撮影してみてください。皆さんが投稿される写真を楽しみにしています。

※私は日常写真関連の関係者ではありませんので悪しからず。

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