写真家の死


写真の位置付けは、フィルム黎明期から大衆期、デジタル期への移行、そしてSNS時代を経て、その位置付けが大きく変わったように思います。

写真史には疎いものですから、ここで多くを語ることは出来ませんが、写真自体が珍しかった時代、写真のプロがほんの一握りだった時代を経て、デジタルカメラの普及、SNSの勃興に伴い、多くの人(=大衆)が良質な写真の撮影が可能となり、いいねを求めてSNSに投稿する時代が到来しているように思います。

このような時代に突入し、写真が提示される場や内容がネット上に移り変わり高速化したことで、意図を重視して制作された写真作品が主流から外れ、色んな意味で作家の死ならぬ写真家の死が訪れているように思います。

しかしながら、AIの急速な発達により、現実の素晴らしい光景と遜色のない画像データがSNS上に氾濫する可能性が高いこと、情報伝達の更なる高速化に伴い、これまで一般的に良いものと扱われてきた写真群が急速に陳腐化することが予想されます。
例えば、これまでにないアイデアやマイナーな手法で撮影された写真であっても、一度ネット上に投稿され、注目を浴びると瞬時に模倣されて陳腐化する、といった具合です。

このような情勢から、意図を重視する写真作品に部分的に回帰する動きが出ると考えています。少なくとも、私はこれに取り組もうと考えています。

主流に戻ることはなくとも、今後の写真に対して意味や価値を求めるのであれば、この流れは確実に発生しますし、このような取り組みをSNSを利用して行なっている人物は少なくとも現時点では一握りに思えます。
自ら名乗ることは決してありませんが、私は一角の写真家でありたいと考えていますので、この展開を見越し、現在の潮流や承認に囚われない制作を行っていくつもりです。

写真撮影時に撮影する動画の件をTwitter上でお尋ねしていたのはこの一環です。このツイートを読んでいただくと、私が何を求めているのかはっきりすると思います。

https://twitter.com/eto_silversalt/status/1614959809400561666?s=46&t=fU5IWhLuflSdGhunv1yp_Q

時間はかかると思いますが、私にとって写真はライフワークです。必ず形にしていきます。
次回以降、取り組みの方針についてイメージを共有したいと思います。それでは、またどこかでお会いしましょう。


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