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山岳独行

ほとんどの時間を独りで過ごす私にとって、登山とは孤独を紛らわすための行為に近しい。美しい風景を探しにいくことも、それを撮影することも、人生にほんの僅かでも彩りを持たせたいという思いから来ているように思う。

実際、山を登るという行為そのものは単なる苦行に感じる。重い撮影機材を体に括り付け、上がらない足を無理やり上げて高度を稼ぐ。文明から離れた場所に自らの意思で身を置き、つまらない茶色の地面が上へ上へと無限に続いていると思える時、この行いは全く馬鹿げたものに感じてしまう。

無限地獄が続く間はひたすらに自分と向き合うことになる。足腰が悲鳴をあげ始めると、肉体との対話をやめて、現実逃避を始める。これまでの人生が、過去の出来事、将来への悲観、とにかく今目の前にある辛さから少しでも逃避するためのよくわからない妄想(だがそのほとんどはネガティブなものだ)が頭を過る。何もかもに辛くなって顔を上げると、下界で見るよりも深く青い、限りなく黒く見える空が、そこにある。

立山 奥大日岳へ続く稜線

私の撮影行為は、日常からかけ離れた場所で行っていて、それがある種の現実逃避であるならば、山行も同義の行為だろう。山は、私の撮影行為にうってつけの逃避先であったからこそ、私はその魅力にあっさりと嵌まり込んでしまったのだ。

立山 奥大日岳
この撮影がきっかけで、山に強い関心を持ち始めた。

特に雪山なんていうものは格別の魅力を放っていて、観光で訪れた立山で北アルプスの美しい山麓に囲まれ、今まさに山に挑んでいる人々を、望遠レンズをつけたカメラのファインダー越しに望み、撮影結果をプリントして眺めた日には、どのような思いが去来するだろうか?

同じ場所に立ち、そこから見える景色を眺めたい。

それが私の答えだ。

北海道 旭岳 厳寒期に山頂方面を目指し進む登山者。
この後、急に吹雪、彼の姿は見えなくなった。
立山 奥大日岳へと続く稜線
この撮影の時は自分が山頂に至るとは考えも及ばなかった。

御託を並べるよりも、実際に写真を見てもらったほうがきっと理解してもらえると思うので、この先には写真だけを貼り付ける。
厳しくも美しい自然に立ち向かう人々の姿と、それを見据える私の孤独を感じて欲しい。



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