岡山芸術交流2019

 まず最初に苦言を呈しておく。休みの日は「今日は休みです」って、Webページにでっかく書いとけよゴルァ! https://www.okayamaartsummit.jp/2019/

 月曜休館はいいんです。でも、月曜が祝日なら火曜日は休みって、イレギュラーじゃないですか。私みたいに祝日に気づかずに火曜日に見に行ってしまう人もいるんです。そのとき、私は事前にWebページを熟読してから行っているのだが、それでも気づかなかった。せめてその日のWebページのトップに「休みです」ってでかく出しておいてほしいのです。

 表記もわかりにくい。「11月4日(月・振休)はやります。11月5日(火)は休館です」って書いてほしい。

 そして、地図がわかりにくい。建物の入口のマークをつけてほしい。建物は大きいため、反対からぐるっとまわると時間をロスする。できれば一筆書きの順路を設定してほしい。趣が無いと言われそうだが。この順路で歩けば、全作品見れるという風にしてほしい。短時間に全作品を見たいという人(私だ)もいると思うので、そういう人に向けた順路を公開してほしい。

 でも、その苦言をのぞけば、とてもとても良い芸術祭でした!

 私はいわゆる地方の芸術祭にあまり興味がないので、ほとんど行ってこなかった。行ってみたいという気持ちが無いわけではないが、どうしても見なくちゃいけないクオリティなのかが疑問で、足が動かなかったのだ。

 岡山芸術交流2019は、アーティスティックディレクターがピエール・ユイグだ。これはすごい。本当にすごい。いままでなんとなく、国内での競争って感じだったけど、いきなり世界トップの人をつれてきてしまった。それで、いきなり全てが格上げされてしまった。選ぶ人がいちいち全部良い。ロゴデザインは、ピーター・サヴィル。アーティストもマシュー・バーニーにティノ・セーガルと、トップ中のトップを連れてきてしまった。デザイナーも高田唯。ほんとビビるくらいにクオリティが高い。

 というところまでは事前にわかっていた情報だ。では現地で見てみてどうだったか。

 すごかった。ほんとうに良かった。

 なにが良かったのか。ティノ・セーガルの作品が良かった。だが、説明する前に、まず彼の作品には記録を残さないという特長がある。また、ある種のサプライズとして体験することの良さがある。つまり、ネタバレしたくないのである。だが、2つの作品を出しているのだが、両方とも良かった。その中でも、特に『アン・リー』という作品がすばらしかった。

 少しだけ補助線を引いておこう。私がピエール・ユイグを知ったのは、1999年に彼が「アン・リー」という漫画のキャラクターを購入したところからだ。漫画の登場人物の寿命というのは奇妙なもので、それはまずは作者に依存する。作者がそのキャラクターをもう登場させたくないと思えば、そのキャラの寿命はそこで途絶える。彼は、ヴァーチャルなキャラクターの人格に興味を持ち、日本の会社から、消えかけていたキャラクターの著作権を買いとった。3Dのキャラクターを制作し、さまざまな短編アニメを作り、アートの文脈で生き延びさせることにした。そのようにして作ったアニメを元にした展覧会は「No Ghost Just a Shell」という名前になった。言うまでもなく、「Ghost in the Shell(攻殻機動隊)」から来ている。攻殻機動隊に、ヴァーチャルな人格を本体とするキャラクター(少佐)が出てくるが、これが背景になっているわけだ。

 この「アート作品」の終わらせ方も興味深い。彼らはこのためだけに「アン・リー財団」を作り、このキャラクターの著作権をその財団に与えた。この「アン・リー財団」は、アン・リー自身が保有する。つまり、彼らは、仮想のキャラクターの著作権を、仮想のキャラクターそれ自身に与えたのだ。自分自身を所有する、ヴァーチャルなキャラクター。結果として、アン・リーのキャラクターは、アン・リー自身にしか使えなくなったのだ。この「閉じ方」は、ある意味、初音ミクの正反対のようにも思える。キャラクターを誰もが使えるようにし、それによってキャラクターの表現の幅を最大限に広げたのが初音ミクだとしたら、そのようにして万人に共有されるキャラクターそれ自身は幸せなのだろうか?という逆方向の問い掛けを行ったのがアン・リーだと言える。キャラクターに対するアプローチが正反対である点が興味深い。

 今回の展示は、実はそのキャラクター、つまりアン・リーがテーマとなっていたのである。

 繰り返しになるが、ティノ・セーガルの作品は、ある種のサプライズとして体験するのがベストだ。そのため説明はさけたいが、2つの作品とも、これに関係がある。つまり、ヴァーチャルなキャラクターの生命がどこに宿るかということがテーマになっている。

 アン・リーは2次元のキャラクターだった。今回はそれが、4次元へと拡張されている。

 ずっと追い掛けていたキャラクターが、するりと自分の理解の範囲を超えて、一つ上の次元に行ってしまった、そんな感じがした。

 ティノ・セーガルとはどのようなアーティストか。これまた説明が難しいが、説明しておく意義はあるだろう。なんといっても、知らなければ体験しようという気にもならないだろうから。

 アート作品というのは、時間を超える。何千年も前の美術作品が、今も芸術作品として受容される。しかし、ティノ・セーガルの作品の一番大きな特長は、後になにも残らないということだ。正確には、物として記録を残すことが禁じられている。彼の作品は、全て人間の動きや声であらわされる。それを、記録に残して定着させることは禁じられている。作品がどこで展示されているかを、カタログに載せることも禁じられている場合もある。ある展覧会では、地図上のある場所だけが空白になっており、その部屋を通りすぎる瞬間にハプニングが起こる。あれは何だったのかと係員や美術館の人に聞いても、みな一様に口をつぐむ。そのくらいに徹底して、作品を言及することを避けるのだ。

 だが、岡山芸術交流の場合はそうではない。ティノ・セーガルのパフォーマンスがあることは公開されているし、その場所は地図にも載っている。説明員に聞くと親切に教えてくれる。だいぶ丸くなったな、という印象だが、でもインパクトは変わらない。

 そんなティノ・セーガルは、2013年にヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞を受賞している。とても高く評価されているのだ。

 彼のそんな作品でも、売買されることがある。この話が面白い。作品に関する記録を残すことが一切禁じられている。ではどうするのか。実は、全てを口伝で残すのだ。作品を売買した記録すら残すことを禁止しているため、作品を売った、買ったということを口頭で述べ、その作品の内容も全て口頭で伝え、それを覚えるということで作品を残す。ここまでして極端に、記録を残すことから逃れているのだ。

 私は、奈良のおん祭を思い出した。この祭も、記録に残すことが禁じられている。正確には、遷幸の儀と還幸の儀である。人工的な明りをつけること、撮影することが禁じられている。私の理解では、このようにしてお祭の本質的な部分が変化してしまうのを防いでいる。

 今回は、そんなティノ・セーガルとピエール・ユイグがタッグを組んで、ピエール・ユイグの過去の作品を、ティノ・セーガルが現代的な意義を与えて復活させたということになる。いや、ほんと胸熱ですわ。本当に本当に良かった。

 ピエール・ユイグとのコラボは、もう一人いる。マシュー・バーニーだ。こちらも凝った感じのコラボになっている。まず、ピエール・ユイグは水槽を使った作品を作っている。モネがジヴェルニー庭園で作っていた「睡蓮の池」を、水槽内で再現する作品である。これはこれで、水槽の中にある種の別世界が広がっており、その生態系(エコシステム)そのものを作品として見せたいということだろう。

 また、福岡の太宰府天満宮には、「ソトタマシイ」という名前の彫刻作品がある。これは、コンクリートの彫刻作品の顔のところに、本物の蜂の巣がへばりついている。彫刻の顔の形が、蜂の巣で拡張されて、丸みをおびた奇妙な形へと変貌している。人工的に作られた彫刻が、自然にできた蜂の巣と融合した、自然と人工を融合させた作品である。

 今回は、マシュー・バーニーがエッチングした銅板を、電気めっきタンクに入れて常時電気めっき加工をし続けている。銅板の表面には付着物が溜り続け、どんどん板がふくらんでいく。結果として、板は、まるでサンゴがふくらんでいくように、丸みをおびたふくらんだ形をしていくのである。

 計画では、そのようにして「完成」した付着物のついた銅板を、もう一つの生物がいる水槽に移す計画なのだそうである。

 なんとも不思議な計画だが、そのようにして完成した作品が見られるのを、今から楽しみである。

 ちなみに、マシュー・バーニーは、もう有名すぎて説明不要ですね。「クレマスター」シリーズなどの映画で有名。「拘束のドローイング9」に関わる展示では、竜涎香と称するクジラが産み出す分泌物が固まったものをモチーフにした巨大な彫刻作品を作っていた。分泌物の固まりによる彫刻は、マシュー・バーニーらしいモチーフなのである。

 この2人の共作なのだが、がっつり一緒にという感じというより、マシュー・バーニーの絵を、ユイグが作品の一部に取り入れたという感じに見える。でも、壁に銅板のエッチングが展示されているのだが、マシュー・バーニーの絵がうまいってことはわかった。ユイグさん、そのうまい絵を完全にカバーして見えなくしてしまうんですよねぇ。いじわるです。いいです。


 私は科学と芸術の境界に興味を持ち、その界面を常に調べている。実は、ピエール・ユイグの作品は、全てがそのような作品なのである。だが、それと同時に、ピエール・ユイグは、実はもともとは服飾、ファッションを出自とする。そこからアートへ進み、映像作品を作っている。なので、何を作ってもおしゃれなのである。この両面性が素晴しいと思っている。

 気になる作品は他にもたくさんあるな。無重力状態でカエルが浮んでいて、ぐるぐる回っている映像作品。ピンクの液体がプールを覆っている作品。タレク・アトウィの音楽作品。サウンドアートは、微妙に感じることがある。それは結局のところスピーカーのクオリティで作品が決まったりする。でも、アトウィの作品はさすが、まったく隙がない。音の出る仕組みをきちんとこだわって作っており、そのため聞いていても心地良い。その体育館の上に設置されている蝿取り器まで作品だとは、思ってもみなかった。

 微妙な作品もある。ていうか、よくわからない作品といった方がいいか。川沿いの公園に設置された、ガラス貼りの箱の中に設置された作品。うーんと、よくわからなかった。でも、きれいだから許す。

 もちろん、これだけ多くの作品があれば、中にはよくわからない作品もある。だが、全体的に見て、驚異的にハズレが少ない芸術祭だったように思う。ほんとまじで凄いですよ。

 残念だったのは、時間の都合で全ては体験できなかったこと。映画館で毎日12:00から上映している映画は見られなかった。Cafe Kitsuneでコーヒー飲みたかった。建築家が作った宿泊施設に泊まりたかった。あーあとは致命的なことに、ピエール・ユイグと神谷之康の共作による映像作品が、LEDディスプレイの故障で見られなかった。でもまぁこれはサーペンタインギャラリーで見たからいいや。

 といった些細な不満もあるが、全体としては、驚異的に良い芸術祭だった。みんなこのレベルになればいいのに。いやまじで。

 岡山芸術交流2019は、会期は11月24日(日)まで。

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