#SFCスピリッツ の創造、草稿

 SFCでなにをやってきたか。簡単にまとめておこう。すでに何度かまとめたことがあると記憶しているが、ともあれ再度ざっとまとめよう。

自己紹介

 まずざっくり自己紹介をふりかえろう。SFCでは、藤幡正樹研究室に入り、メディアアートを学んだ。大学院のときに、sensorium projectでWebHopperを作り、坂本龍一と岩井俊雄とのコラボレーションでRemotePianoをつくった。卒業後は国際メディア研究財団で、SoundCreaturesをつくった。2001年にはインターネット物理モデルをつくり、その後2002年には産業技術総合研究所に入所。当初は漢字の研究。次に、Wikiの研究。qwikWebを作る。その後、Modulobeをつくる。パターン、Wiki、XPをかく。2010年、博士号取得。2011年、ニコニコ学会βを発足。最近は、つくば横の会に注力。こんな感じになる。

SFCでなにをやってきたか

 その起源としてのSFCについてふれる。当初、もともとはゲームクリエイターになりたかった。小学生のころからゲーム少年で、ゲームを作る人になるのが夢だった。大学1〜2年生のころは、任天堂電通ゲームセミナーに入り、ゲームを作っていた。そのとき作ったゲームがジョイメカファイトで、1993年、学部3年生のころに販売。学部1〜2年生のころは、Sony SALAにも通っていた。このころに、WWWと出会う。もともとの問題意識は、オンラインゲームを作りたい、というもの。そのためには、CGを学ばないといけない。同時に、ネットワークを学ばないといけない。
 中学生のころからパソコン通信にはまり、高校生ではもうどっぷりつかっていた私は、オンラインソフト、当時はPDSやフリーウェアなどと呼ばれていた、にはまる。大学に入学してインターネットをはじめて知る。Anonymous FTPというものを知り、はまる。SFCの教室でMacを使えるようになり、フリーウェアをたくさんダウンロードし、次々と試用。また、Amigaを使える環境があり、これは有澤誠先生のMMM(MultiMediaModeling)のおかげだが、Amigaのメガデモにはまっていた。Linuxや386BSDにもはまった。入手したノートPCに、SLS、Soft Landing Systemをinstallして、Linuxが使えるようになって、よろこんでいた。
 Anonymous FTPを検索する、archieが誕生する。すごいと思う。また、Gopherが誕生した。これもすごいと思う。Gopher in the Forestに出会う。これはNeXT用のソフト。これをインターコミュニケーションという雑誌に掲載する。執筆は明田くん。ここで、インターネット上に、FTP、つまりオンラインソフトの置場だったものが、テキストや画像や音声がおかれるようになった。この変化は大きかった。そのときの感動がリアルに残っている。ニューロマンサーに出てきた電脳空間が、本当に出現した、そう思っていた。
 当時の状況で重要だったのは、1つは相磯研。相磯秀夫先生は学部長だったため、ラボはもたなかった。私たちは、宮田くんを中心として、自主的相磯研を結成した。これは、相磯先生は研究室をもっていて、それを使わせてもらえたというのが大きかった。Sunのマシンを使わせてもらい、それをandroという名前でWebサーバにした。おっと先を急ぎすぎたな。私たちは自主的相磯研として定期的に集まり、合宿をして、「環境情報学って何だろう」という本を書いた。それを印刷して、翌年の全学生に配布してもらえた。たしか、その表紙をデザインしたのは私だった。当時、RaytracingのCGが好きで、抽象的な形をレンダリングして、表紙にしたのだった。
 もう一つ、Sony SALAの重要だった。当時はSFCにダイアルアップで接続して、インターネットに接続できた。SLIPからPPPに進化したあたりだったと思う。手元のノートPCは、PC互換機で、SLSによるLinuxがのっていたと思う。versionは、0.90とかそのあたりだったはずだ。0.99でだいぶ長いこと足踏みしていたのを覚えている。
 もう一つ、任天堂・電通ゲームセミナーも重要だ。これはマシンを貸してもらえたので、これを使って開発を進めていた。ゲーム制作に関わる仲間がいたというのは大きかった。
 Sony SALAでは、研究という世界にふれたことがよかった。それがなかったら、研究という道があるのだということそのものに気づけなかったはずだ。
 高校生のときの話はここではふれていないが、哲学というものにふれたことも重要だった。これは、村上龍の小説にはまり、図書館の本をすべて読んでしまっため、EV Cafeを読みだし、それが鼎談集で、ものすごく面白くて、そこから参照されている本や映画を次々と読む、観るということをしていった。これはよかったと思う。当時の自分がなやんでいたことが、世間では哲学や思想と呼ばれていることだということに気づき、自分の思考を客観的にみることができるきっかけとなったのはよかったと思う。
 SALAでは、「インタフェースにおける無制限の有限について」という感じのタイトルで研究をしていた気がする。タイトルで煙に巻くってのは、このころからやってたんだねー。まぁ言ってることは自分なりには筋はあるのだが、もうちょっとわかりやすく表現せいよ>自分。何を言いたいかというと、言葉によって物を指し示すのは大変難しい、ということだ。当時はフーコーを読んでいて、「言葉と物」を下敷きにした。というよりも、「これはパイプではない」という、マグリットの絵を分析した批評があり、それをふまえて書いている。文字によって絵が生まれるというのはCGにおいて実際におこっていることで、それは芸術においてはマグリットが最初に行っている。ただ、そこにはパラドックスがあり、つまり文字というのも実は絵の一種なのである。なぜなら、画面上に文字の連なりとして表現されているわけなのだから。つまり、プログラミング言語は、特に構造化プログラミング言語はだが、それそのものが一種の絵画なのである。つまり、絵画が絵画を生むという現象がそこに生じている。というようなことを書いている。椹木野衣や浅田彰の文章に影響されて、それを自分が取り組んでいるプログラミングの問題にひきよせて書いたという感じである。

WWWとの出会い

 SALAにいたことの重要性は、都内にあったということだ。自宅が都内にあり、そこから通っていたため、ダイアルアップで湘南台にかけると高い。そのため、SALAはダイアルアップの受けを用意してもらっていたので、そこに毎夜つなげてインターネットに接続していた。これは大変大変ありがたかった。
 そして、SALAが都内にあり、インターネットに接続していたことは、私が一番最初にWWWをふれるきっかけを作ったことにもつながる。
 当時、infotalkというメーリングリストがあった。これは大変に良いMLで、NTTの高田さん、坂本さんが立ち上げたものだ。ここをながれる情報は、ちゃんとウォッチしていた。
 その中で、WWWについての情報がながれていたんだっけ。いや違うか。その前からだったな。archie, WAIS, Gopher, WWW、といったものが、インターネット上の情報システムとして使われていて、その中ですでに実績があるのはGopherだが、それらを乗り越えるだけのポテンシャルがWWWにはあり、だがブラウザにいいのがないがために普及していない。それさえクリアすればだいぶかわるはずなのでは、みたいな状況だったと記憶している。その中で、infotalkをよんでいたら、xmosaicというブラウザが話題になっていた。なんといっても、そのリリースノートがすごかった。フリーウェアなのに、文章がしっかりしている。まるで商用ソフトみたいに、いかにUIが優れているかといったことを、かたっていた。実際、コンパイルも容易だし、これはすごいものがでたと思った。NCSAはすごい!とおもったものだった。NCSAのソフトウェアは、その他にもネット上のコラボをするためのシステムが多数公開されていて、こういうのをつくっているところなんだな、と感じた。Eric Binaが、Motifを使わないmosaicを公開して、プチ炎上していたのも良い思い出である。
 私はその中で、xmosaicが日本語が使えないのを問題視し、どうやったら日本語を使えるか?、おれが最初にやってやるぜ!と思って、実際にトライしてみていた。なかなかうまくいかなかった。当時の私は、普通の方法ではうまくいかないことを理解していなかった。つまり、ちょっとパッチあてるといった方法では無理だったのだ。結局実現したのは富士通の渡辺さんだった。彼のおかげで実際に日本語を使えるようになった。渡辺さんが公開した後に、高田さんがローカライゼーション、つまり多言語化を実現した。Mosaic L10Nといっていた。同時に複数使うことはできなかったが。

 このとき、最初に日本語化ブラウザを実現できなかったことが、自分をなにかかりたてていたように思う。つまり、なんでもいいから日本で最初に!ってのをやりたかった。そして、当時はそれが容易だった。Mosaicはversion upするたびに新しい機能が追加され、それらはどれも魅力的だった。その中でもずばぬけて魅力的だったのが、FORMとCGIである。これ、いまでは当たり前すぎて理解しがたいが、FORMとCGIが組で登場したことが重要なのである。

CGIとの出会い

 NCSAは、httpdとMosaicの両方を公開し、両方フリーソフトとしていた。そして、その両方に機能を追加し、同時に公開したのである。そのFORMとCGIは、ものすごく魅力的で、これだ、と思った。私は実際に使ってみて、これはこれからのスタンダードになるとおもった。そこで、この使い方を説明した文章を書いて公開することにした。「簡単なCGIとFORMの使い方」といった名前だったと思う。
 CGIとFORMの両方って点が重要なのである。いまでは、CGIはサーバサイドのプログラムで、FORMはHTMLの一部だ、クライアントサイドだ、と思われるだろう。だが、その両者は2つで一つなのである。なので、両者を同時にやらないと、意味が伝わらない。ということで両方を簡単に理解できるスクリプトを書いて公開することにした。
 私の仕事で重要だったのは、www.sfc.keio.ac.jpの立ち上げである。当時、WWWを学内で広めるという活動をしていた。自分のhomeの下にコンパイルしたMosaicのバイナリをおき、それを各環境ごとにコンパイルしてそれぞれ別々にわけておいて、さまざまな環境下でMosaicを使えるようにした。自分自身は、andro.sfc.keio.ac.jpを立ち上げ、そこにページをおいていった。そして、そのような活動をしていたから、学内のWebサーバを立ち上げようということになって、私に声がかかった。私がバイナリを用意し、よしのぶさんがcs1.sfc.keio.ac.jpというマシンにwwwという別名を与え、そこに僕がコンパイルしたバイナリをおいた。そして、WebサーバのトップページのHTMLをかいた。一番最初は一つも画像がはいっていない、簡素なページだった。その後、竹中さんが用意した画像がトップにはりこまれることになった。
 私の仕事で重要だったのは、そのWebサーバ立ち上げにおいて、学生であれば誰でも自由にCGIをおけるようにしたことである。自分のhome下のpublic_html以下に、.cgiの実行可能ファイルをおけば、それを実行してくれる。そんな環境にしたのだ。
 また、CGI勉強会を立ち上げた。同じゼミの勉ちゃんに教えて依頼されたのだが、どうせならと複数いっぺんに教える方がいいので、勉強会という形にしたのだった。教えるということは、自分の知識を体系化して伝えることに、とてもやくにたつと思う。そのおかげで、自分もよくわかる状態になったし、また、この問題について一番知ってるのは私だという評判も広まった。とても良いことだった。

学部生時代にしたこと

 学部時代の仕事を再度まとめておこう。


1. 相磯自主ゼミの立ち上げ。「環境情報学ってなんだろう」という本の執筆。教える先生がいない状態でゼミを立ち上げ、相互教授のみで本を作り、まとめることになった。結果的に指導する立場となり、これも学ぶのに役に立った。


2. 任天堂・電通ゲームセミナーへの参加。ゲーム作りの情熱が発揮され、ゲーム作りの仲間ができ、任天堂のプロのゲームクリエイターから制作をおそわることができ、ラッキーなことに自分たちが作ったゲームが販売された。それがまさか、2019年になってから、多くの人がプレイするようになるとは夢にも思わなかったのだけど。


3. Sony SALAへの参加。なんか面白そう!で飛びこんだ。ダイアルアップ接続という餌が魅力的だった。だが、結果として自分で研究テーマを見つけて自分で考え、発表しろということをやることになり、研究という世界に飛び込むきっかけとなったのは、まちがいなくここだっただろう。稲見さん、後藤さんとつながりができたのもこのころである。考えてみれば、30年以上のつきあいになるとは…。

 いまにしておもえば、やりすぎである。家族との溝も深まり、自分の状況をまったく理解していない家族からいろいろ言われるが、説明することも困難で、つながりを放棄する以外なかった。これはいまもそうである。
 考えてみれば、学部の一年生が、プロと一緒にゲーム作りをしている、研究者に教わり研究をしている、自分たちがゼロからゼミを立ち上げ、本を出版しようとしている、しかもアルバイトしている、という状態だったわけで、その忙しい?まぁ主観的には忙しくはないのだが、いろいろ追われる毎日だったことを、端から見ていて理解できるわけがない。かつ、説明する方法もない。今だったら、一緒についてきて、というのだろうか。おそらくそれでも不可能だっただろう。


4. WWWをプロモートする活動を開始する。今後のスタンダードになることを予感し、HTMLを書いてWebページをつくるといいよーといったことを宣伝しまわっていた。亀のページを作っていた人もいて、こういう趣味のページを公開する人があらわれるとは、と感動していた。まぁ、スタンフォード大学の相撲が好きな学生が、akebonoというサーバで公開していたサービスが、その後大きく世界は変えるとは予想していなかったが。まぁ、このサービス、最初はある特定のカテゴリ、つまりアダルトカテゴリが異常に高いアクセス数だったのだが、これは黒歴史なのかもしれないな。


5. www.sfc.keio.ac.jpの立ち上げ。特に、学生とのリレーションに力をいれる。public_html以下にページを作ったら、自動的にトップページからリンクをする機構を作った。また、CGIを誰でも実行できるようにした。お行儀のわるいスクリプトで悩まされれるようになるのだけど。


6. CGIとFORMを解説した文章を、日本で最初に公開した。CGI勉強会を立ち上げた。


 ここらへんまでが学部生の活動。藤幡研で作品制作をしていたこととか全然ふれていないなー。お正月に学校にとまりこんで、ハンダ付けして作品制作したりしていた。だが、あきらかに今の仕事につながっているのは、そこで学んでいたこと、作品制作ではなく、これらの自主的に行っていた活動なんだよねぇ。考えてみれば、場作りをずっとやってきたんだなぁと追む。

大学院生時代にしたこと

 その後、大学院生の活動も大事なのでまとめておこう。
 大学院生1年生は、インターコミュニケーション95 on the Webというイベントのディレクターになる。大型プロジェクトなのだが、IC91 見えないミュージアムのころはわくわくして見ていた側だったが、まさか4年で主催する側になるとは。さまざなアーティストと連携して、彼らが考えたことを実装する。かつ、自分自身もアーティストとして参加。ディレクターとアーティストを兼任。実質的に、アーティストとしてのデビュー作となる。最初のデビューが、展覧会のディレクター兼アーティストなのは、なんじゃそりゃという感じだよな。そんな感じのことが続いていく。
 たしか同時期に、NTTアドで仕事をしている。NTT PowerNetというイベントで、高城剛イベントのテクニカルディレクター的立場に。同時期に、DotPaintを作成。NTTアドのホームページを作成する。
 NTTインターコミュニケーションのホームページの作成もしている。ただ、このときは、作成したものはそのままおくらいりで、公開しなかった。なんというか、官僚的だったんだよね。
 大学院生2年生の前半は、バイトにあけくれた。風水先生というセガサターン用のゲーム制作に、バイトとして参加。C言語でばりばり開発する。フォントをレンダリングするルーチンを作ったりした。無事発売されたが、これはゲームそのものが黒歴史に。あんまりにもひどい出来だったから。
 大学院2年生の後半に、sensoriumプロジェクトにjoin。前半はゲーム制作に専念していたため、誘われていたが、参加できず。2年生になってから参加だったと記憶している。
 そういえば、学部生のころに、ウゴウゴルーガというテレビ番組の制作に、EYさんに誘われて、断わったこともあった。当時は、上記のような環境で、これ以上仕事を増やすのは無理!と判断したのだった。今考えれば、優先順位を変えてやればよかったじゃんと思うが、まぁしょうがないんだよねぇ、こういうことは。
 sensoriumプロジェクトでは、主導している人がすでにいるので、ある意味自主的にテクニカルディレクターのような立場で、技術的な面からコメントした。いろいろアイデア出しもした。結果的にそういうのはよくないんだねぇ、というのがわかったことでもある。というのも、どちらに進めるかを選択するところが肝なので、それが良くなかったら、技術的に良くしてもしょうがないから、ですね。
 坂本龍一と岩井俊雄のコラボレーションしたコンサートイベントに参加。RemotePianoを作成する。岩井さんのアイデア出し能力の高さに驚愕する。
 そんなこんなで、大学院のころから、坂本さん、岩井さん、東泉さん、山口さんなどとコラボして仕事するようになり、仕事するときの姿勢みたいなものは、このあたりでinstallされる。実質的にまともな社会人になれなくなるのもこのあたりからか。

卒業してから

 卒業した後のことも書いておこうか。1997年4月、卒業した後はフリーランサー。それでずっとやっていこうと思っていた。が、なんだかんだで国際メディア研究財団にひろってもらうことになり。ちゃんとオフィスがあるってのはいいことで、よかったなとおもう。
 1997年5月かな、アルス・エレクトロニカ賞のグランプリ、ゴールデンニカ賞を受賞した。その年は忙しくなる。sensoriumと坂本・岩井のダブルグランプリで、両方を兼任ということで、アルスとのリレーションもふくめて行なうことになる。現場をとりまとめる仕事をやって、大変だったなぁ。たしかこのころに、プリンセスダイアナが亡くなり、ドナウ川のほとりで悲しんでいた記憶がある。
 1998年は、アートラボでSoundCreaturesをつくる。
 1999年は、オペラLIFEに参加し、LifeGameMusicをつくる。
 2000〜2001年は、インターネット物理モデルをつくる。
 2002年は、未踏プロジェクトに参加。漢字の研究に従事する。同時に、産業技術総合研究所に転職。いまにいたる。という感じである。
 その後の展開で重要だったことって、なんだっただろう。やはり勉強会で学んでいった気がする。コミュニティオブプラクティス。環境に埋め込まれた学習。HCI系の研究活動をしていたため、SIG-HIに参加し、いろいろ知識をえていった。修士を卒業して産総研だったため、なにせ基礎知識がなかった。というか、アンバランスだった。犬が犬掻きするみたいに研究の世界を泳いでいた。
 実をいうと、任天堂でゲームを作っていたのも、Sony SALAで研究していたのも、共有項が1つあった。それがインタフェースである。インタフェース研究に従事するのは、ある意味理想そのものであった。
 しかし、周囲との違いもまた大きかった。私がゲームを作ったのは、ある下心があったからである。任天堂のようなところでゲーム作りを学べば、その知見はかならずインタフェース設計に応用可能であるはずだ、と思っていた。これは事実だった。しかし、いわゆるインタフェース研究の従来の流れと、そのような私が考えた流れは、そう簡単には交わらない。いまだにそれを接続するにはどうしたらいいかをやっている気がする。
 同時に、なぜアーティストになったのか、ということにも通じる。ゲームは、とても楽しかったが、限界が見えてしまった。それに対してアートは、自分一人でなんでもやる。そのため、よりインタフェース研究に近いと考えて、入っていたという側面がある。つまり、こちらも下心なのである。アート制作そのものが魅力的というより、そこで得た知見は、インタフェース研究に応用可能であるはずだ、という下心があったのである。実際それはイエスなのだが、とはいえ、アートから得た知見をインタフェース設計に生かすというのは、そう簡単なことではなく、というよりも、そう簡単なことではないということを理解するのに何十年もかかるとは思ってなかった、という感じである。
 いま、ようやく研究所の中でデザインという言葉が聞かれるようになり、またアート思考といった言葉も現実味をおびるようになってきた。なんとなくの思い付きが社会に実装されるには、なんて長い年月が必要なんだ。
 また、アーティストをえらんだ下心はもう一つある。それは、自分自身がアーティストになれると信じていたというよりも、自分はアーティストであると宣言して仕事することより、アーティストと同格で仕事できるようになる。さまざまな雲の上のアーティストと、下請けではない形で交流して一緒に活動することができた。これは大きな資産だった。
 結果として得られたのは、天才はどのように思考するのかという具体的な事例である。つまり、天才の考え方を身に付けることができた。
 ただ、このときの私はわかっていなかったのは、天才の考え方を身に付けるだけではだめで、普通の人の考え方もわからないと、何かを社会に実装することはできない。普通の人の普通の考え方を理解するのに、10年くらいかかるということを、私は理解していなかった。

どのようにして思想を形成していったか

 具体的な行動ベースでこれまでの活動をふりかえってみた。知識というか、思想ベースでふりかえることは可能なのだろうか。たとえば、途中でパターン・ランゲージとであい、これは重要な影響を与えた。私はパターン・ランゲージの専門家として売り出すこととなった。ただ、だからみんなもパターン・ランゲージを学べ、ということではないのかなと思っている。むしろ、それまで思想や哲学について学んできていて、土台ができていた、基礎は理解していたということがあり、その状況でパターン・ランゲージにふれ、まなび、アウトプットにつながり、パターン・ランゲージの専門家として認識されるようになった。それによって行動が広がっていった、ということなのだろう。
 やはり理解して欲しいのは、土台が重要だということだ。パターン・ランゲージは磯崎新の建築の解体で話題となった。それに触発されて、柄谷行人は隠喩としての建築を書いている。その中でもパターン・ランゲージはふれられている。そして、柄谷行人は、日本近代文学の起源や、マルクスその可能性の中心を書いている。それらもやはり同じように重要だ。
 柄谷行人を読むようになったのは、村上龍と坂本龍一の鼎談集、EV Cafeの影響である。同様に、浅田彰、蓮實重彦、などを読んでいった。吉本隆明も読んでいた。それらを読んでいた土台があったからこそ、パターン・ランゲージという突出した思想に出会い、これこそ自分が専門とすべきことなのだと理解し、アウトプットの中心にすえることを選ぶことができたのである。
 なので、メッセージとしては、柄谷行人を読め、となるのかな。思想や哲学の土台はとても重要で、少なくともそれは学べ、ということになるのかな。いまとなっては、哲学を学んでいなかった自分というのは想像できず、その意味では人にアドバイスするのは難しいといつも感じる。
 あと、私はパソコン通信で、いわゆる白熱したディベートというのをくりかえしていた。ていうか、罵倒しあいである。ここで言葉の喧嘩をまなんだ。これは大きかったと思う。それ以降はがんばって自分をおさえるようにしたが、学んでしまった喧嘩のテクニックは、ついうっかり出てしまうことがある。プロボクサー相手に喧嘩の修行をした人が、たまに素人をうっかり殴ってしまうようなもの。本当に申し訳ないと思っている。
 哲学を学べ、というのが、あまり響かないエピソードだろうとは思うが、やはりこれは重要。とにかく本はたくさん読め。インプットはたくさんないとだめ。
 天才の考え方を学ぶ、ということで私が理解したことはそういうこと。有名なアーティストと仕事していて、天才的な発想!とであうことはよくあった。そのとき、どのような回路でそのアイデアが出てきたのかを、毎回聞くようにしていた。はっきりとわかったことは、全てに元ネタがあるということだ。たとえば、ある画期的な機械の機構が提案されたとき、それはなに?と聞いたら、カメラのシャッターが閉るときの機構と同じ仕組み、と答えられた。つまり、彼はカメラのシャッターが閉るときの機構がどのように動くのかを理解していて、それがこの場合にも有効なはず、と提案したのだった。元を知らないと、そんな発想はぜったいに出てこない。他にも、車のブレーキがかかるときの仕組みと同じ、とか。そういった機構についての知見が豊富だった。そういったアイデアが山のように投入され、インターネット物理モデルはできあがったのだった。
 藤幡研で学んだこと、あんまり出てこないが、アイデアの出し方、スケッチの書き方は学んだ気がする。クロッキー帳をかい、その1ページに1つ、アイデアを書いていくのである。1ページに1つというのが重要。

大学1年生のあなたは、なにをするべきか

 さて、何をしてみるのがいいだろうか。学部1年生であるということを考えると、自分が学部のときの行動を参照するのがいいと思う。つまり、自主ゼミや勉強会を立ち上げてみよう、となる。私の場合は、それが相磯研、CGI勉強会だった。
 とはいえ、何をテーマに?というのがあるだろう。そのためには、学内にいるだけではなく、学外で、活発な他大学の学生と交流するのがいいと思う。私の場合は、任天堂・電通ゲームセミナーであり、Sony SALAだった。いまだと、孫財団、クマ財団、100BANCHなどがある。私がメンターとして参加しているという意味では、100BANCHがいいと思うが、それは各自が考えるべきこと。他にもいろいろあるはずだ。DMM.make Akibaもある。
 そして、どんな風に活動を広げていくか。相磯研で本を作ったのは本当によかったと思う。自分たちの思考が稚拙であることが記録として残っているのも、本としてアウトプットして残したからだ。
 自分が勉強会を立ち上げる、という形で話をした。だが、No.2も大事だ。なにかやろうとしている人と一緒になって、真剣に寄り添ってみる。それもまた貴いありかたである。そして、No.1になった経験があることが、有能なNo.2になる条件だったりもする。

テーマ設定こそが何よりも重要

 テーマ設定。これがなによりも大事だろう。私の場合は幸運だった。日本でほぼ最初にWebを使った人になった。もちろん日本最初ではない。だが、確実に100人以内にははいっている。また、CGIに関していえば、日本最初だ。実をいうと、日本で最初にJavaScriptについての文章を公開したのも私なのだが、まぁそういう話はいいだろう。日本最初であることが目的ではないからだ。とはいえ、なにか新しいテーマを最初に取り組み、それが結果として後から多くの人が続いてきて、日本最初であることが意味のあるような活動になることは、素晴しいことだし、その意味では幸運だったと思う。
 なぜ日本最初であることに意味が無いのか。これは、私が日本で最初にLambdaMOOの日本語化を実現した人でもあるからだ、と説明すればわかるだろうか。わからないだろうなぁ。つまり、Aという技術に日本で最初に取り組んだ、同時に、Bという技術にも日本で最初に取り組んだ、だが、結果的には前者しか人の記憶には残らない、といったことがある。LambdaMOOなんていっても、なんのことだかわからないでしょう。つまり、結果的には後になにも残らなかったわけです。
 日本最初、世界最初になることには意味がない。実はそれは比較的簡単に達成できるからだ。だが、本当に難しいのは、後から伸びるテーマはなにかを見極めて、その世界最初、日本最初になること。これが難しいのである。
 私が日本で最初にCGIを使った人として記録に残るのは、それはそういう意味なのである。つまり、英語でCGIという技術が公開され、これは間違いなくこれから伸びる! これで世界が変わる! いや、私はこの技術で世界を変えてみせる! くらいの勢いで確信したわけである。そういった確信は外れることもある。だが、このときの確信は当たったのだ。CGIだけというと語弊があるが、Webサーバのサーバサイドで動くプログラムが非常に重要で、そこに今後のプログラミング資源の多くが投入されるようになるはず、という予想をして、その予想があたったことが重要なのである。


 このことは本当に重要なことなので、掘り下げて説明してみよう。当時、ユーザーインタフェースを作る技術は、いくつかあった。


1. コマンドライン。コマンドとして実行する。ftpコマンドでftpサーバに接続したときみたいに、対話型で実行する方法もある。というよりも、当時はこれがスタンダードで、実質的にはこれしかなかった。


2. Tcl+Tk。それをwrapする方法が、いろいろと提唱された時代である。コマンドラインのつかいにくさを解消するために、ウィンドウ上にメニューやボタンを配置し、ポインターで押せるようにする。いわゆるWIMPと呼ばれる技法が登場していた。それを簡単に実装する方法として、Tcl TKが提唱されていて、普及しかけていたのである。


3. Webブラウザ+Webサーバ+CGIスクリプト。これが私が提唱した技術である。というよりも、当時出てきたばかりの最先端で、まだ海のものとも山のものともつかなった。技術的にはさまざまな欠点をかかえていた。その欠点はやたらと大きく、ほとんど無理!と思えるくらいだった。


 一番大きいのは、state lessであるということ。1も2も、サーバとクライアントが接続し、state fullで進行する。そのため、サーバは、そのソフトウェア上の変数として状態を保持し、クライアントとインタラクションすればよかった。しかし、CGIはstate lessである。そのため、クライアント側は、毎回stateを完全に保持し、それを毎回渡すといったことをしないといけなかった。この実装上の哲学の違いは非常に大きく、従来のサーバ・クライアントモデルの実装に関わる知見のある人にとってみれば、異常な環境としか言えなかった。
 にもかかわらず、私は、この方法こそが主流となると予想し、そう主張した。とはいっても、遅々として普及は進まなかった。
 私がそう主張できた理由はなぜだろう。FORMというタグの素晴しさがある。TclやInterface Builderといったインタフェース構築ツールの存在を知らなかったわけではない。いや、それらがどれだけ素晴しいかは、それなりによく理解していたつもりである。だが、そのような入力フォームのようなものは、たびたび発生する。そのたびごとに、tcl tkやIBで毎回インタフェースを構築するわけにはいかないだろう。FORMは、割り切りがすごかった。FORMができるのは、入力フォームを作成するだけである。そこにロジックは埋め込めない。プログラムの実行環境的なものはまるでない。当時はJavaScriptはなかった。登場してから後も、長い間ほとんど有意義な連携は行われていなかった。
 やはり、FORMが素晴しかったのだと思う。なによりも凄かったのは、HTMLと混在できるということである。正確にはHTMLの一部なのだから、混在もなにもないのだが、メタファーとしては、Wordの文中に、ボタンや入力フィールドを埋め込めるようになった状態を思い浮かべるといいだろう。ありえない感じが伝わるだろうか。文章中に図版を埋め込むのと同様に、ボタンや入力フィールドを埋め込めること。それが図版の埋め込みと同様に、スクロールして画面外に消えること。submitボタンでサーバ側に送られ、クライアント側はそこで一旦stateは空になること。この実装上の割り切り。素晴しい設計センスだと思った。この素晴しさは、まちがいなく世界を席巻すると思った。そして、実際にFORMは世界を席巻した。
 相対的に見れば、CGIはそこまで重要ということではない。というか、動的な処理を行なうWebサーバーが重要ということだ。とはいえ、あのころの実装技術を考えたら、この実装上のわりきりはすさまじく良かった。何よりも、state lessなのがすごかった。起動されたら標準入力から入力がきて、標準出力に出力するとアウトプットになる。それで以上。この割り切りのすごさははんぱなかった。当然、これだけでは多くのプログラムは実現できない。そのため、毎回起動されたら何かファイルを読み込んだり、DBに接続したりして、そこに状態を保持する実装となる。だが、基本state lessで、状態を保持しようと思ったら特別な処理を導入するのと、基本statae fullで、なにもしなくても状態を保持し続ける、しかしサーバプログラムがこけたら状態が消えてしまう、というのだと、最終的には前者に軍配が上がることになる、というのを、プログラマーの心理も含めてちゃんと読み切って、仕様として提唱したのは、ほんとにえらかったし、すごかったと思う。
 なんだか古くて不毛な話をしているように聞こえる? でも、これこそが重要な伝えるべき真実なのだと思う。へんてこで、どう考えても当時のプログラミングの技術の標準にあってなくて、こんな冗談みたいに制約がきつくて機能が少ないプログラミング環境が、世界でもっとも普及するって、本気でそんなこと言ってる? と、そう言われたことは実は無いのだが、多くの人がもっていた常識との違いは、そんなところだった。どれだけ理解されなくても、これこそが、世界でもっとも普及したインタフェース構築環境になるはずだ、そう信じて、普及につとめることにした。
 ある時期のSFCから、CGIのできる人材がたくさん排出されたのは、偶然ではない。私がそう仕掛けたからだ。
 結果として、SFCから出た、インターネット関連の会社は多い。インターネット技術、Web技術に強い人がたくさんうまれた。その中には、みんながよく知ってる会社も含まれている。それらみんな、私が与えた影響だと言うつもりはない。だが、学生は誰でもウェブページを持てるようにし、自動的にCGIが使える環境にしたことは、私が意図的にそうしたことだ。それは、当時の標準的な判断からは、かなり外れていた。これは確実にそう言える。

未来を作るにはどうしたらいいのか

 未来を作っていくにはどうしたらいいだろう。いや違うか。私たちは未来からの留学生なのだった。未来では当たり前になっている事実を、今の人に理解してもらうにはどうしたらいいんだろう。
 というよりも、まずは、みなさん本当に未来からの留学生になってる? 未来では当たり前になっている真実、今の人から見れば奇異に見える、おかしなことを信じているように見える、そんな未来ならではの真実を、ちゃんと持ってますか? それ何よりも大事ですよ。
 なぜ私がCGIの普及という形で、未来を予測できたのか。一つはただの偶然だろう。ただ、それ以外には、さまざまな環境の力がある。Sony SALAで、後に優秀な研究者になる人たちと、まだ当時は互いに学生だったが、さんざん議論をしてきた。それが自分の成長に大きな役割を果したのは間違いがない。
 たくさんインプットしてきたこともそうだろう。特に自分の場合は、哲学を学んだこと、いや学んだとは言えないか、哲学を自主的にたくさん読んできたこととは大いに関係があるだろう。常識と思っていたことが後でくつがえされる。そのような経験が、人類が種として経験してきた知恵としてまとまっているのが本なのである。その中でも中心と言えるのが哲学である。特にどれを読めと言えるようなものではない。だが、自分の場合は、柄谷行人、ダグラス・ホフスタッター、ゲーデルやチューリングのような自己言及に関わる哲学が、自分の興味のどまんなかであり、それらについて真剣に取り組んでいたことが、他の何よりも役に立ったと言えると思う。同じ本を読めとまでは言わないが、自分にとって核となる哲学が見つけられないと、その後大変なんじゃないかな、とは思う。
 どうやれば、自分なりの芯が見つかるのか。さすがにそれはわからない。ただ、そんじょそこらのインプット量ではだめだと思う。とにかくたくさん本を読め。たくさん映画を見ろ。本は年に300冊、映画は年に100個が目標である。
 量は質に転換する。私がアート作品の質を見分けられるようになるためにとった方法。たくさん展覧会を見に行く。銀座にはたくさん画廊がある。無料で絵を見られる。足で歩く必要はあるが、毎週銀座の画廊を全てまわれば、かなりの量の作品を目にできる。そのときそのときで、どの作品が良いと思ったか、自分なりに考える。手法としては、今日見た作品の中で、1つだけ自分で購入するとすれば、どれにするか、そんなことを考えながら見るようにしていた。あと、いくらまでなら出すか。こんなことをしながら見ていると、かなり判断の練習にはなった。

共創の場を作ってみよう

 共創の場を作る訓練としては、ミニアンカンファレンスをやるといいのではないだろうか。各自、ポストイットで自分が議論したいテーマを考えて、壁にはっていく。それを、みんなで組織化していく。共通項をくくって、チームをつくり、議論する。議論した結果を最後にまとめて伝える。30分くらいあれば、十分に議論の練習にはなるのではないか。
 テーマは、やはり未来について、がいいと思う。いまは多くの人が同意しないが、未来になって明らかになる重要な真実。
 本来であれば、上記のCGIみたいに、十分にspecifyされた事象であることが必要。ただ、それをspecifyするにも知見がいるので、いますぐはそこまで求めない。どんなことに自分が興味があるのかがわかり、かつそれについて一緒に考える友人ができるだけでも有意義なのではないか。
 とりいそぎ、骨子でした。

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